「現在の地名は戸部(とべ)と云うんです」
鳥口は事件の重大性からすれば極く軽い調子で云った。
「いえね、この村だって充分謎めいてましてね。希伯来(へぶらい)の風習が残っているとか、失われた猶太(ユダヤ)十支族の末裔の村で『十部(とおべ)』が転訛したんだとか、いや芬蘭(フィンランド)から渡来したんだとか。
地味な僻地(へきち)の割に、随分派手な伝承でしょう」
――そう云えば、消えた村の方には、瑞典(スウェーデン)からの渡来人が作ったという言い伝えがあると...交わりようのない隔たりと微かな類似性...――私の考え事は鳥口の素頓狂(すっとんきょう)な声で中断された。

「とろをる様!? のっぺらぼうみたいなものですか」
「というより、顔が多すぎて正体がわからなくなった妖怪というべきだね」
中禅寺は続けた――おそらく件の夢生眠(むうみん)もその一族だろう。
「どんな悪さをする妖怪なんだ」――ぶっきら棒に木場が問う。
「取り憑かれると眠くなる。それから夢を見る」
それは、名前からも推測できる。

「そしてその夢は――伝染する」
伝染?――全員が一斉に怪訝な顔をしたのだろう。
「伝染、だろうな。誰かが見た夢が、また次の誰かに取り憑いて夢を見させる。その繰り返し――夢の中に夢として棲む妖怪なのさ」
「誰かが見た夢がその夢生眠の仕業だと、どうして分かる」
「そっくり同じなんだ、形が。な、榎さん」
振られた探偵が答えた――「うんッ。前髪があるかないかとか、それぐらいしか違わないッ」
――確かに榎木津なら他人の夢だって見れる。

「じゃあ、元は何なんだ。夢が夢を生んだ訳じゃないだろう」
関君――有無を云わせぬ調子で京極堂が云った。
「元を問うことに何の意味がある。確乎(かっこ)たる相貌(そうぼう)で初めが存在し、それが現在に繋がっているはずだ、などと云うのは幼稚な思い込みだ。この妖怪は、夢が夢を生むという連鎖の中でのみ、それとして存在するのだ」
しかし、初めに夢を見た人間はどこかに存在したはずなんだ――私は弱々しく呟く。

「聞いてなかったのか。――だからそれが燕村(やんそん)なんだ」

消えた村――あるいは村人全員が入れ替わった小さな集落。
大量虐殺か、記憶操作か、その舞台となったというあの村が全ての始まりなのだ。

              *

「おまえは人でなしだ、人間じゃない、人間じゃないんだ」
巫山戯(ふざけ)るんじゃない。へらへらしたって無駄だ」
「豚箱にぶち込んでやる」
狭い部屋の中で怖い顔のおじさんたちは口口(くちぐち)にそう云う。
聞いているうちに、ボクはどんどんこわい考えになってしまった。

このままボクはしまっちゃわれるんだろうか。
みつしりと箱にしまわれて、ボクは箱の形になるんだろうか。
しまっちゃった人もしまっちゃったことを忘れちゃうんだろうか。

もういいなどと云う。ボクは少しだけ寂しくなる。
心細くなって、おとうさんがもたせてくれた貝をわきの下から取り出した。
いしをもっていないボクは、かべにそれを何度もうちつけた。
殻が――自分を守っていた殻がこわれ、
無防備な中身がぞろりとこぼれでてきた。
こぼれでてきたんだったら。

(支度の完了)




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