51.彩り添えて 和彦が玄関のドアを開けると、香しい花の匂いがした。 床の上に、赤い実を二つ付けた柿の枝が生けてある。色物の風呂敷 が花瓶敷き代わりにあしらわれている。 音を立てずに靴を脱ぎ、忍び足で家の中に入っていくと、 台所で着物姿の女が割烹着を付けて夕餉の用意をしている。 上げた髪、細く白いうなじにかかる後れ毛・・。 小皿に汁物をとって味見する横顔。 今この瞬間に自分だけが目にする風景だ・・。 「ただいま」  「あ・・」 聡美の肩がピクリと震える。  その後、ほっと息をついて、 「お帰りなさい」柔らかい笑みを浮かべた。 藍色の木綿のハンカチを胸元から取り出し額に光る汗を叩く。 「母の小紋、着てくれたんだ」 和彦は、静香の着物を身につけた聡美を穴の開くほどみつめて、 ため息をついた。  「モデルが良いと違うね。 どれでも好きなのを出して着るといいよ」  「ありがとう、そうさせてもらうわ」 和彦は、聡美の白く細い指先が動くのを見ている。 水道の水でナスについた糠を洗い落としている。 「漬け物、漬けたの?」 「家から少し糠床を持ってきたので」 そう言ってから、 「あ、もしかしてぬか漬けは嫌い?」 と訊く。 「好きだけど、頼むからキュウリだけは出さないで」と笑う。 聡美は、まな板の上でとんとんとナスを刻んで小鉢に盛りつけた。 鍋の蓋を開けてみると、カレイの煮付けができている。 ・・この色と香り、知ってるよ。 そういえば、ビイの料理の師匠は・・。 火にかけられた鍋にみそ汁が、残りの鍋にお煮染めが彩り豊かに 光りを放っていた。 「お風呂にします、それともお食事に?」 聡美がにっこり微笑む。 和彦の心は弾んだ。 「一度そんなふうに言われてみたいと思ってた。 嬉しいよ」 先に風呂に入って、和彦も着物を着てから食事をしようと思った。 自分の手を煩わすことなく家庭でくつろいでいる。 風呂場やトイレの窓辺にも小瓶に小さな花が挿してある。 風呂から上がって着物に手を通し、座卓の上座に腰掛けた。 目の前に綺麗な器に盛られた料理が並んでいる。 「ビールをどうぞ」  グラスを取り聡美に注いでもらう。 「燗もしてありますよ、召し上がってくださいね」 いつになくしっとりした聡美の物腰に和彦は見惚れた。 風呂上がりのビールが格別だった。 「そのまま旅館の女将にでもなれそうだね」 「そうかしら」 聡美の胸元の藍染のハンカチ・・。和彦のおぼろげな記憶から蘇える思い出の 一品。 ふと立ち上がり、奥の和室へ。 着物が収めてある和箪笥の引き出しを 開けては四隅を探り、閉めてはその下の引き出しへ。 「・・あ、これだ」  見つけ出したものを取り出して、食卓に戻る和彦。 「これを君に・・」 そう言って、聡美に手渡したのは藍染のハンカチだ。 綺麗に洗濯されアイロンがけされているが新品ではない。どんな意義深い品なの かと暫く手に取り眺める聡美。 「それを君に使ってほしいんだ。もう20年くらい前から日の目を見ることが  なかったしろものなんだ」 「え?そんなに長いこと」 ハンカチ一枚に何か重みを感じた。 そのハンカチを手に取る聡美を暫く見ている和彦、納得するように大きくうなずいた。 「じゃ、貴方にお弁当をこしらえて、これで包んでさしあげましょうか」 なにげに口をついて出た言葉だった。 ところが、和彦は、その目を見開いて目を潤ませた。かすかに唇が震えている。 和彦は溢れる涙を指で拭いながら暫く何かを回想していた。 不適切なことを言っただろうかと聡美は少し躊躇する。 ところが暫くして和彦の表情は笑みに変る。 「君は体操部にいたころ、平均台から何度も足を滑らせたの?」 え・・? 突然中学生の頃の話題に振られてすこし戸惑うが、記憶を辿れば たしかにそんなことが何度もあった。 「・・ええ」 「じゃ、腕を捻挫して・・」和彦が左手で自分の右手の周りにくるりと輪を描く。 うんうん、と笑いながらうなずく聡美。 「そうね、包帯まいて見学してたこともあったわ」 ・・でも、なぜ? 和彦の回想はもうしばらく続く。 「・・料理番組で覚えたメニューをつくってみたり?」 「・・え?」 「好きな男子の弁当なんてつくっていったことは?」 「・・・」 和彦の顔をじーっとみつめる聡美。 ・・いったい誰のことを話しているんだろう? 不思議に思った。  彼女の視線を感じて我に返る和彦、箸を手にとり、煮魚をつついてみる。 口に運ぶととろけそうなくらい美味だった。  「センスの良さ、女性らしい気配り・・そんなふうに学院でも  僕を助けてほしいな」 和彦は喜びに震えた。 ああ、この女性(ひと)こそ出遭うべくして出遭った女性なのだ・・ かつて宗一郎と静香が夢見ていたような仲むつまじい鴛鴦(おしどり)夫婦に なれたなら・・。  「私にできる?」  台所に小走りしていく聡美の足袋の足元が可愛い。 燗をした徳利の底を布巾で受ける聡美。 その後ろから和彦が腕を回して彼女の肩をそっと抱く。 「君がいるだけで家の中に花が咲くね」 「・・古くから・・伝えられたものを大事に  していると、自分に返ってくる・・優しい気持ちや  美しい立ち振る舞いで身や心が飾られる・・?」 「それは、僕が書いたものだよ」  「え そうだった?」聡美が笑う。 和彦は、彼女の肩をしっかり抱き寄せた。 「本当に・・・今度こそ・・君をしっかり捕まえた。  お願いだから、もうどこへも行かないで」   すこし前からポツポツと降っていた雨が、  やがて風混じりになり窓を打ちはじめた。  聡美がベランダにこしらえたガーデンスペース。 ゴールドクレストの枝葉だけが見ている部屋の中の様子。 いつまでも抱き合ってキスする二人に嫉妬するかのように 波打っている。 翌朝、聡美は、おむすびと煮物の入った弁当を藍染のハンカチで包んだ。 それを玄関で受け取った和彦が、どれだけ心を癒されたか・・。 壊れてくもの巣をかぶっていた時計の針が再び時を刻みだすように、彼も 大きく呼吸をした・・・。 聡美には、それを知る由はなかった。ただ、心の中で何かに導かれるように 自然にそんなことをしていたのだった。  (つづく)



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