42.母の顔
10月24日木曜日。
聡美はキッチンに立って、壁のカレンダーとにらめっこしていた。
ストラティスから連絡がないまま今月ももう終わろうとしている。
上下する美実の足首がドアの端から覗いている。
思わず歩み寄って、その小さな体を抱きしめ頬ずりしてしまった。
もみじのような手をギュッと握りしめ、透き通った瞳で聡美の顔を
みつめている。 ときどき何がおかしいのか、ひゃーっという声を
あげて、にこっと笑う。
・・こんな可愛い顔をあの人にも見せてあげたいのに。
もどかしくてならなかった。
昼時、美実がむずがって泣き出した。
「どーしたのー? 喉が乾いたのかな」
美実の首と肩を抱くのにもすっかり慣れて、片手に赤ん坊、もう片方で
他の作業ができるようになっていた。 戸棚を開けると、
いつも美実が飲んでいる乳児用の瓶入りジュースが無かった。
「あら、しようがない、買いにいきましょうね」
そう言いながら顔を近づけると、美実は、ケラケラ笑った。
美実を大事に抱えてゆっくり靴を履いた。
ドアを開けると、小雨が降っていた。
聡美は、美実を胸元にぐっと寄せ傘をさして歩いた。
ふと家の前に立っている男が視界に映る。
これが初めてのことではない、もう今月に入ってから3度目だった。
いつも誰かの視線を感じ、ふと顔を上げると彼がいるのだ。
聡美は、耐えきれなくなって、つかつかと歩み寄った。
「花村さん、何かご用ですか?」
「・・・・」
「何も無いんでしたら、放っておいていただけないでしょうか?」
「・・・・」 彼が笑みを浮かべている。
「何がおかしいんですか」
「聡美さん、素敵ですね」
「・・え?」 思わず表情がすこしゆるむ。
「赤ちゃんを抱き寄せる時の顔がなんとも言えなかった」
「・・・・」
「赤ちゃんは、女の子なんですね」
上から下までピンクずくめの服装だった。
聡美は、美実の顔を胸に押しつけた。
「もう来ないでください。 警察を呼びますよ」
そう言ってきびすを返す聡美の背中に鋭い言葉が突き刺さる。
「僕ら、もう他人じゃないですよね」
「え?」 どっきりした。
「だって、ひと月前・・」
心のどこかで多少、良心の呵責を感じていた。
ただ、ストラティスからの連絡を心待ちにしているうちに、少しずつ
記憶の奥に押しやられていたのだ。
「あんな事があったからどうだと言うの?何の証にもならないわ。
夫がそばにいないからって、馬鹿にしないでください。
私は、貴方のことなんて何も知りません。 」
「・・あんなこと?」
「記憶違いは止めてくださいね。 ただ抱き合って眠っただけでしょう」
背中のほうで花村の声がした。
「夫って・・・。 正式に籍は入ってないんですよね」
☆
土曜日、店先で鉢植えを並べていた。 視線を感じて顔を上げると
道の向こうに彼が立っていた。
目が合った瞬間に頭を下げてくる。
「ねえ、聡美さん、その鉢植え一つこっちに・・」
奥から浅川が出てきて、聡美の視線の先の花村を目に留める。
「お知り合いなの?」
「・・ええ、ちょっと」
「だったら・・30分くらい抜けてもいいわよ、私ひとりで大丈夫
だから」と言って聡美の肩を叩いた。
花村と聡美は、店の並びの喫茶店に入った。
「今日はいいお天気ですね」とコーヒーカップを口に運ぶ花村。
「・・・あの」 聡美はいらついていた。
「どうして私の跡ばかりつけてくるんです?」
カップを受け皿に戻しながら、花村は、迷わず言った。
「聡美さんが・・まぶしいから」
その視線は常に彼女に注がれている。
「他にすることがあるでしょう。 普段お仕事してらっしゃるんだ
から、週末は、趣味に耽るとか・・お友達と会うとか」
「いいんです。 僕は、ずいぶん長いこと、この距離、この角度で
貴女に会いたいと思っていたから。 だから・・」
「長いこと・・って?」
「聡美さんが困ることなんて何も無いですよ。 僕は、貴女を見たい
から見てるだけです。 それ以上、貴女が望まない限りは 何もしないし・・」
「・・・とにかく迷惑なんです」 困り果てていた。
聡美は、それからも何度となく、散歩や買い物の途中で花村を見かけた。
本当に視線を感じるだけで、こちらから接近しないかぎり彼は何もしなかった。
不可解ではあるけれど、カメラを向けられる芸能人の気持ちが何となく分かるよう
な気がした。
☆
ストラティスから音信が途絶えたまま、年が明ける。
2月に入って、美実が寝返りを打つようになった。
大きな黒目の丸い眼。 長いまつげ。 丸みを帯びた
桃色の唇。 以前に増してストラティスに似ている。
7日の夜から父も母も2泊で温泉旅行に出かけてしまった。
その週末だけは、仕方なく仕事を休むことになった。
康平は、夕方からシャワーを浴びて着替え、両親が出てしまった頃、
「姉貴、俺、今夜帰らないから・・」という。
にたにたと笑っている。
「あ、さては・・。 ねえ、康ちゃん。彼女、できたの?」
聡美は、肘で弟をつついた。
「んん・・。 まあ、そんなところだ。 火の元と戸締まり、
しっかりするようにな・・」 父親の顔と口を真似ている。
「はーい」 聡美が手を振る。
康平は、そそくさと出ていった。
夜、10時ちかくになって美実が急にぐずりだした。
昼頃からミルクの飲みが減っていたが機嫌は悪くはなかった。
ベッドを覗き込むと、頬が紅潮している。
体温計を脇の下に挟むとますます激しく泣き出した。
38度5分の熱・・。
聡美は、あわてた。 産後、ずっと順調に育って何も問題が
無いのが当たり前だった。 かかりつけの小児科もない。
美実は、火がついたように泣きつづける。
ところが、突然にぴたりと静かになったかと思うと、全身に痙攣が起き
始めたのだ。
「どうしよう」
聡美は、美実を抱いて外へ出た。 車で救急病院へ連れていこうと車庫を見る
が、そこに車が無い。
・・そうだ、康ちゃんが・・。
仕方なく救急車を呼ぼうと家に戻ろうとした時、後ろで聞き覚えのある声がした。
「聡美さん、どうかしたの?」
振り返ると、花村が車に乗っていた。 この男は、まだ・・・。
そんな場合ではなかった。
「お願い、病院まで乗せていって」
言い終わるより早く、助手席のドアに手を掛けていた。
美実は白目をむいたまま、ガタガタと震えている。
揺り動かすが元に戻る様子がない。
「どうしよう、お願い、急いで」 聡美の頭はパニック状態だった。
聡美は、病院へついて看護婦の顔を見るなり、めちゃくちゃに
わめきたて、自分でも何を喋っているのか分からなかった。
「お母さん、おちついて。 大丈夫ですよ。 熱性けいれんだから」
看護婦は、美実をひょいと抱いて診察室へ連れていった。
振り向きながら、
「お父さんは、奥さんの気持ちを鎮めてください」と、言った。
・・お父さん? 二人は顔を見合わせた。
「お母さん、心配ありませんよ。 突発性発疹だと思われます。
これは、3日間熱が続いた後、下がると同時に胸や背中に
赤い発疹が出てくるんです。 赤ちゃんが6ヶ月を過ぎる頃は、
お母さんから貰った免疫が無くなりますからいろんな病気が出始め
るんですよ」
聡美は、医者の説明を受けてようやくほっとした。
花村は、聡美たちを車で自宅に送り届けた。
頬ずりしながら優しく赤ん坊を包み込む彼女の腕や胸。
時々、背中を軽く叩きながら揺りかごのように揺れるのだ。
ふわふわの衣から小さな顔が覗いている。
彼は、今赤ん坊のいる位置に自分がいた時間のことを思い返して
いた。
聡美は、落ち着いた後で、やはり悔やんでいた。
いつも気付くと、花村の助手席に座っている自分がとても情けなかった。
(つづく)
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