43.美しき人
2月下旬。
聡美は、高校時代の友人から結婚式に招待されていた。
母滋実が
「聡美も少しミセスらしい装いでいったら?」
というので、めったに手を通すことのない着物姿で出かけていった。
☆
和彦は、着物学院を継ぐように回りから奨められていた。
宗一郎亡き後は、姉花代が全てを取り仕切っていたが、和彦が実の弟で
あることを知って、
「貴方にお父様の跡を継いでほしいの」と言う。
宗一郎を死に追いやった人間を知っていながら黙っていることがとても
心苦しかった。 けれども、今となっては父や母が築いてきたものを
守り伝えていくことが、自分に出来る唯一の供養のような気がした。
「そうさせていただきます」
4月に学院に戻ることを約束した。
夕方、新宿の町を歩いていると、着物を着た美しい女性の後ろ姿が目に
留まる。 誘われるように足を前に運んでいるうちに、
女は足を停めて脇を見た。 その横顔に和彦は思わず息をのんだ。
彼女だ・・・。
☆
聡美は、結婚式の後、東中野から足を延ばして新宿へむかった。
なにか美実に可愛い服でも・・と思ってデパートに寄ってみたくな
ったのだ。 ところが途中、背中に視線を感じて振り向くと、そこに
花村が立っていたのだった。
先日のことがあるので、ただ無視もできなくなって、一応おじぎをした。
花村がにっこり微笑んで、
「聡美さん、和服がよく似合いますね」と言う。
聡美を上から下まで、目を皿のようにして見ている。
「結婚式だったんですか?」
手に提げている淡い色の紙袋に式場の名前が印刷されている。
「・・ええ」 聡美は、視線をそらした。
「色留め袖が本当にお似合いですね」
花村は、ため息を漏らした。
彼が続ける。
「扇子を散りばめた裾模様、ご祝儀にふさわしい文様ですね」
聡美は、目を白黒させて、花村をみつめた。彼の口から和服の用語が出て
くるのが意外だった。
「あの、私はあまり着物に詳しくないので・・」
「帯選びもセンスがいい、どなたが?」
「あ・・母が」
「全体的に控えめな色調の裾模様には、似たような色調の
袋帯を合わせるんです。 もっと着るといいですよ。こんなに
似合うのだから」
彼女の着ている着物や帯までをいとおしむ彼の瞳に、聡美は、
不思議なものを感じた。
「でも、私は着られないので・・」
「着付けは、簡単におぼえられますよ」
花村が腕時計に目をやる。
「今日は急ぎの用があるので、また。 本当によく似合う、いいなあ」
視線を彼女に据えたまま後ずさりしてから、駅のほうへと歩きだした。
聡美は、暫く背筋のシャンと伸びた彼の背中を見つめていた。
いつも鼻持ちならないと思ってきた花村がいつになくまともに見えた。
聡美の着物姿をさりげなく褒めて立ち去った花村。
彼が視界から消えてしまった後も、体中に何かくすぐったいものを感じて
いた。
☆
聡美は、帰りにレンタルビデオショップに寄り、高校生の時に
映画館で見た作品のビデオを借りた。
主人公は、誰なのだろう・・そう思えるほど、三人の役柄が
同じ割合で強く映し出されている。 仕事ばかりにかかりきりで、
家庭を妻に任せきりの夫。 浮気に走る妻。 それを知ってわけを
訊くが居直る妻に言葉の返しようがなく、夫は離れていく。
彼の全てを恋い慕う若い女がひとり、彼を追い求めていく。夫は、やがて
女と暮らし始めるが、ある日夫への未練に気づいた妻に言う。
「かつて君と分かち合った思いを新しい女と感じ合えるとは思えない。
それでも、俺は彼女と新しい暮らしを始めるのだ」と。
なんと意地悪な考え方だろうかと十代ながらに思ったものだ。
2人の女優がシーンごとに着替える着物の美しさ。 襟元。草履の足元。
普段着物を着付けている若い女が洋服に着替えたときの全く違った印象、
女の情念をこめて足袋にアイロンをかける姿・・・。
また見たくなったのである。
その晩のこと。
「あら、聡美、どうしたの?」
「・・んん? ちょっとね」
聡美は、母の衣裳箱から小紋と名古屋帯を出してきて本を見ながら
着付けを始めた。
「ねえ、お母さん、これ、どうしたらいい?」
帯をグルグル腰に巻き、垂れを後ろに引き上げた後、帯枕をどう入れて
よいのか分からない。
「聡美、着物の合わせがめちゃくちゃ。 でも、いったい
どうしたの? 突然に・・」
「着物が着たいのよ。 えっと、こうして、で、次は・・」
「あ、やっぱりできない。 ふーっ」
聡美は、帯をほどいて足を投げ出した。
「聡美、週に一度くらいなら美実を託児所に預けて習い事してもいいん
じゃない? 着付けを習いに行きなさいよ。 お月謝くらい、お母さん
が出してあげるから」
聡美は、着物を習いに新宿まで行っている友人に電話をし、
翌日週1のコースを申し込んた。 途中託児所に美実を置いてくるの
だが、多少後ろ髪を引かれる思いがした。
「美実ちゃん、ごめんね。 あとでいっぱい抱っこしてあげるね」
☆
4月になった。
ストラティスからもサキスからも何の連絡もなかった。
あれから花村の姿もみかけなくなっていた。
「着物が本当によく似合いますね」 花村の嬉しそうな顔が
時折、脳裏をかすめた。
どことなく育ちの良さを感じさせるスマートな身のこなし・・。
彼はいったい・・・。 そこまで考えて、美実の顔を見た瞬間、
思い切り首を横に振った。
「私ったら、やだ・・」
全ての物語は偶然をきっかけに始まる・・とはいうけれども、
それにしても、着物を着たいと思った日にビデオを借りに行き、
翌日は教室に申し込み・・とは、あまりに衝動的だった。
それにしても、花村の後ろ姿・・。
花村のまっすぐ伸びた背筋を見たとき、そこに一本通った信念のような
ものを感じた。 その延長線上に何があるのかすこし気になった。
ある日の朝、滋実が、玄関の傘立てを指して
「あら、うちにこんな傘、あった?」という。
「え、どれ?」 それは去年の7月に花村に借りた傘だった。
「あ、それ、たぶん康ちゃんが友達から借りてきたの」
母が仕事に出た後、聡美は、ほ乳瓶や紙おむつを鞄に入れ、美実を
抱いて目黒へ向かった。 駅を背に、通り沿いを歩いていくと
ストラティスが働いていた女子校がある。 校門に立って中の様子を
うかがう。 以前、ここで彼が出てくるのを待っていたことが
あった。 そのときに・・ほら、あの事務室の窓に立っていた男、それが
花村のはずだ。 よく会釈をしてくれたものだ。
偶然にも同じ窓にその背中をみつけた。
少しずつ近づいていく・・・。
窓に背を向けている彼が振り返る・・・・。
聡美が笑みを浮かべて会釈をしようとしたときに・・その人の顔は、
聡美の知っているあの顔ではなかった。
入り口でスリッパに履き替え、事務室の戸を開ける。
「あの」
「はい・・どうしましたか」
背格好や頭の形、服装が花村に似ている。
しかしその顔は、聡美の知っている花村ではない。
「花村さんていう方はいらっしゃいますか?」
事務員なんてひとりだけじゃないだろう。
これだけの大きな学校なのだから・・。
「ええ、僕が花村ですけど」
「え? 花村賢治さん・・?」
「はい、そうです。 あ、もしかして貴女は・・」
「以前こちらで英語の先生をしていたパパンドレウ先生の奥さんでしょう」
彼は、聡美の顔をおぼえている。 それに引き替え・・・。
聡美が1度会っただけでは相手の顔を記憶できない性質なのと、
名刺という紙一枚の持つ信憑性。
聡美は、すっかり暗示にかかっていたのだ。
彼に初めてに会った瞬間、見覚えのある顔のように思えたのだが。
火曜日、着物教室へ通う道すがら、
気になってしようがなかった。
・・あの男は誰なのだろうか。
ずっと「花村さん」と呼んできたあの人は・・。
どうしてストラティスを知っているのだろう。
なぜ入管で聡美を呼び止めたのだろう。
どうして台風の日に山梨にいたのだろう。
「ねえ」 友達の寛子が意味ありげな目つきで聡美に呼びかける。
「・・・・」
「今日ね、新しい学院長の挨拶があるわよ」
「そう・・」 今までの学院長は女性だったらしい。
去年先代の学院長が事故で亡くなり、その娘が引き継いでいたという。
「さっきロビーでみかけたんだけど、結構良い男なのー」
彼女は、にたにたと笑っている。
まだ入会して数週目のことだから、あまりピンとこない。
早く着付けが上手になれれば、学院長など誰でもいい・・聡美は
そう思った。
全生徒が講堂に移動する。
「本日より装愛きもの学院の学院長に就任いたします魚住和彦を
ご紹介いたします」 事務理事の風間が挨拶した。
ステージの袖から現れる羽織袴姿の新学院長・・・。
中央の演台に立ち顔を上げる。
聡美は、思わず小さな悲鳴をあげた。
今頭の中を巡っていた人物・・・
正体不明の男・・
彼がそこに立っていた。
「皆さんは、いろんな動機で着物を始められたと思います。
映画の1シーンだったり、成人式で初めて振り袖を着たときの
感動だったり。 箪笥の奥に眠る古い着物を目にするたびに、
お婆さまやお母様の顔が目に浮かび、いつか着なくてはと
思っていたり。きっかけは何であっても、どうか着物に出会えた事を
喜んでいただきたいのです」
和彦の目が最前列にいる聡美の目と合う。
真顔になり暫く言葉を失う和彦・・。
咳払いを一つした後、
「みなさん、きものは、うつくしい女性の内面を引き出す
衣服です。 またそれを身につける技術にとどまらず、どうか
人を愛し慈しむ心を磨いて、よりいっそう着物の似合う素敵な
女性へと変身してください」
短い挨拶を終え退場した。
教室へ戻っていく生徒達。
聡美の横で彼女の友達が、
「ねえ、いい男でしょ」とはしゃぐ。
「聡美さん・・・」
後ろから聡美を呼ぶ声がする。
振り返ると、講堂の通路に学院長が立っていた。
「花村・・いえ、あの・・」
「着物、習いに着てくれたんですね」と嬉しそうに微笑む。
「どうして、嘘をついていたんですか?」
「ごめんなさい」 和彦は深々と頭を下げた。
「あんまりだわ・・」 聡美は、不機嫌を露わにする。
「行きましょう」 隣で固まっている友達の手をひっぱった。
「聡美さん、着付け・・上手になってくださいね」
大きな声が構内に響いた。
「ねえ、聡美、凄い・・どういう関係?」
友人がしきりに興奮している。
(つづく)
(話の続きへ)
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