17.裏切り              その年は、12月早々、前橋の母から電話を受けた。 「和彦、元気なの?」 「あー」 そっけなく返事した。 「誕生日に送ったネクタイと靴下、届いた?」 先月11月8日に25になった。 「あのね、心配させたくはないのだけれど、私入院するの」 「どこか悪いの?」 病気となると、やはり気になる。 それでも、 母の声から、そんなに切迫したものは伝わってこなかった。 「それでね、週末にでも一度来てもらえないかと思って。 たまには、  顔を出してちょうだい。」 「うん、そのうちに行くよ」 気がすすまなかったが、週末に帰って みることにした。 自宅に戻ると、母は、数年ぶりに会う恋人を迎えるかのようだった。 「まあ、お帰り、和彦。 なんだか逞しくなったわね」 母の事は常に気に掛けているが、まつわりつかれるのは苦手だった。 ダイニングテーブルに腰掛けると、皿一杯に盛りつけた上等の刺身と、 利根錦のぬる燗が出てきた。 「このお酒が一番甘口で美味しいって、お正月に帰ったときに  言っていたわね」 母が、向かいに座って、酒を勧める。 「体の具合はどうなんですか? どこが悪いんですか?」 酌を受けながら、尋ねた。  「うん、ちょっと検査をしたのだけど」 そこまで言って、唐突に写真の束を取り出す。 「去年、高校を卒業した銀行の頭取の三女、朋美さん」 「学院の和裁の田端先生のお嬢さん、この方は年上だけど・・」 和彦は、不機嫌そうに酒を口に運んだ。 「お母さん、そんな話を聞きに来たわけじゃないですよ」 「分かってますよ」 母は、大きくため息をついた。 右の乳房の上にそっと両手を添えると、 「私ね、乳ガンなんですって」と、伏し目がちに言った。 癌・・。 耳を疑う。 とても深刻な響きだった。 「だから・・。 だから、早く貴方の結婚相手を決めてしまいたくて」 死を、母は恐れている。 「大丈夫だよ。 手術すれば治るんだろう?」 静香は、久々に息子が覗かせた、あどけない表情に心を踊らせた。 「そうよ、今の医学では、こんなの麻疹みたいなものだもの」 わざと、はしゃいでいた。 静香と和彦の会話は、表面的には、いつも明るく取り繕われ、 まるで、誰かに聞かせるように演技がかっている。和彦は、子供の頃 から、空元気や建て前の裏に隠された、母の本意の方を読みとろうと する習慣がついていた。 かなり強がりを言っているな、お母さん。 母の泣き声が聞こえてくるようで苦しくなった。 せめて、母が息子の自分でなくて、心の拠り所になる伴侶を得て いたら、自分の肩の荷も下りるのに。 そう思うたびに、自分と母を捨てた実の父親を恨みに思う。 「手術は、10日後なので、5日後に入院するわね」 「うん、また入院の日に来るよ」 そう言って、東京に帰った。                 ☆ 翌朝、学院に出る。  「あ、会長がお待ちですよ」  事務理事の風間が伝えた。 会長というのは、父魚住のことだ。 魚住を父と感じたことなどなかった。 言葉をかけたら、母静香にどんな影響を及ぼすのか、 そればかりを考えて、何も言ったことがない。 重役室に入っていく。 父の顔を見るのは、何ヶ月かぶりだった。 「実は、今日の東京体育館での剣道大会で、コメントを 頼まれていたんだが、すっかり忘れていたんだ。 他に用事があるから、代わりに行ってくれないかね」 どことなく他人行儀である。 「静香は元気だったか?」ぐらい訊いても良さそうなものだ。 「はい、行ってまいります」 気持ちとは逆の爽やかな笑顔で返事をしてしまった。 話の内容を組立ながら、社の車を運転して目的地へ向かう。 「・・・私自身も実は中学時代に剣道部に在籍しておりました。  今日、力強く戦う、選手の皆さんの精悍な姿を拝見させていただき、  改めて深い感慨を得ることができました。  ・・・・激しく戦う剣道、そして、厳かなる着物の世界は、  実は日本古来の文化の象徴であります」 学院代表として、5分ほどの挨拶をして、表彰式の来賓の 挨拶を終えた。   学院の前まで来ると、父の宗一郎が歩道を独りで歩いているではないか。 むこうは、和彦にきづかない。 その手には、 大きな袋をさげている。  車を横付けして、その様子を暫く探っていると、 もの凄いスピードで赤のシボレーが追い越していく。 運転していた女は、父の横で、クラクションを鳴らした。 父は、急いで車に乗り込む。  和彦は、後をつけていった。  「最近、こんな事ばかりだ」 車は、甲州街道を八王子方面へ向かい、 環八にぶつかる交差点を左へ折れた。 「いったい、どこへ向かっているんだ」 間に車3台挟んだまま、暫く直進する。 信号が赤になる。  左手に清掃工場の煙突、右手に大きなガスタンク が見えてきた。 シボレーは、「千歳4丁目」の交差点手前で、 右折の合図を出す。 和彦もそれにならう。 あとは、道なりにどこまでも走り続けた。 道幅は段々と狭くなった。駒沢大学グラウンド前と いう交差点で信号待ちになる。 途中、間の車が 1台になり、急いでサングラスを掛ける。 その二つ先の信号で、車は左折した。 やがて、住宅地に入り、細い通りをくねくねと 右左折しはじめる。 2台の間には、1台も車両が走っていない。 ゆっくりと後を追う。 シボレーが右折した。 曲がったところで、すぐに停止 しているかもしれない。 注意深くT字で止まって右に目を やると、車は道路の斜め左前方にハンドルを切り、バックで 車庫入れしはじめていた。  美しいレースのカーテンが大きな出窓に掛けられた屋敷が いくつも続いている。 その5件目の車庫に赤いシボレーは 止まっていた。  「誰の家なんだろう」 入り口の門には、「小早川」という表札が掛けられている。 辺りは静かだった。 他に客の車は無く、何か特別な集まりが ある様子もない。 裏庭の方から、女の笑い声と子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。 車庫からそっと敷地に入りこみ、壁を背にして、耳を澄ましてみた。 屋敷の裏は、綺麗に刈り込まれた芝生の庭だ。 声は、屋敷の中から響いている。 「師走だというのに暖かいですね」 「この窓は、日中はよく日が当たって気持ちよい」 どうやらリビングの窓からデッキが張り出しているようだ。 「あーら、よかったわね、お父様に玩具を買っていただいて」 「3歳の誕生日に、そんな物で申し訳ない」 「誕生日を覚えていてもらえるだけでも有り難いわ」 「実の息子だからな」 「本当によかったわね、 宗也(そうや)」 和彦は、耳を疑った。 父に3歳の実子がいる。 「そうそう、玩具はほんの形だけの間に合わせで、本当に 用意しているのは、ほら」 宗一郎は、胸ポケットから何かとりだした。 女はそれを受け取ると 「え? ハワイのお正月? それも3人で。 嬉しいー」と、 飛び上がって喜んだ。 和彦は、覗き込んだ。 真っ赤なワンピースを着たその女は、まだ30代前半くらい に見えた。 父の膝には、カラフルなブランドの服を着た 小さな男の子が座っている。  太陽と同じくらい温かい眼差しでその子供をみつめる父がいた。 「もうすぐだ、待ってるんだぞ、宗也」 小さな息子に話しかけている。 「もうすぐ、お前は、魚住宗也になる」 「この子、父親と同じ姓を名乗れるんですね」 女も、ソワソワしている。 「ああ、約束するよ。 そのうち、ちゃんと妻に話す。  宗也には、私の跡を継がせるし、東京の学院と成城のこの家は全部、  宗也のものだ」 「奥様や息子さんは、どうなるのでしょう」 「妻には、高崎の学院をやる。和彦は、東京に残るも、高崎に戻る  も、自由にすればいい」 むなしかった。 自分や母は、金でつなぎ止められている、犬コロにも劣る存在だと 言うのか! はらわたが煮えくり返った。 このまま出ていって、気の済むまで魚住を殴ってやろうか。 殺したっていい、殺してやろうか。 拳を握りしめた。 母の姿が浮かんだ。 「悔しかったら、見返しなさい。お母さんも耐えるから」 子供の頃、魚住があまり家によりつかなくなって やせ細るほど悩んでいた。 「お母さんも耐えるから」 あれは、こういう事だったのか。 と同時に、今まで父の傘下で庇護を受けてきた 自分自身が情けなく、無力に思えた。 いや、学院で和彦が、父と肩を並べる立場に就くことを 望んだのは、母だ。  自分は、魚住の恩に報いて、学院のために、母親のために、 力を尽くそうと努力した。 全ては母のためにしたことだ。 静香には、魚住の子ができなかった。 こんなに学院が大規模なものに発展する事も想像しなかったに 違いない。 母が、子供をたくさん生んでいたら、自分の精神的負担も軽かったは ずだ。魚住だって、愛人に子供を生ませることもなかったかもしれない。 結局、いつも自分は、母の尻拭いをさせられている。 しかし、すぐに、否定した。 自分を激しく責めた。 「母は、何も悪くない」 悪いのは、、母と自分を捨てた実の父親だ。 肌のぬくもりも顔も覚えていない実の父を 激しく呪っていた。 (つづく)



(話の続きへ)


メニューへ