18.鬼と仏と (25歳の魚住青年) 母親の入院で、5日後、また実家に戻った。 本当なら、父の宗一郎が、付き添うべきだ。 「私だけ、休んでいて悪いわねえ」 「何言ってるんですか。病気なんですよ。命に関わ・・」 まずい・・。 母がうつむいた。  「・・大丈夫です。 その分、僕ががんばりますから」 今年8月に取手校が開校して、学院は3校になった。 礼法、着付け、和裁が主な教科。 2ヶ月前に、通学生と通信教育生に3日間の着付け集中講座の募集を出し たが、1週間で満席になった。2日後に東京校に集まることになっている。 静香もその指導にあたるはずだったのだ。 和彦は、成城のあの屋敷で見た光景を何度も思い返していた。 「お母さんが、そんなに無理すること、ないんだから」 今、父を惹きつけているのは、あの若い内妻と3歳の息子。 これからの学院の繁栄は、彼らのためにあるようなものだった。 いかに母や自分が孤立しているかが浮き彫り状態になっている。 ・・お母さん、まだ、出直せます、この家を出て新しい人生の再出発 をしませんか?  そう言ってしまえたら・・。 「お父さんは、仕事が抜けられなくて来られませんが・・」 今日ばかりは、さすがの母も気持ちが沈んで見えた。 「大事にするようにと・・言ってました」 母がくすっ笑った。 そんなわけないでしょう、という顔をしている。 「そう、仕方ないわね。 でも、貴方がきてくれたから、だいじょうぶ」 ベッドに横たわり、無理に微笑んだ。 みつめる和彦に、 「貴方がいてくれると心強いわ。 私には、貴方しかいないものね」 と言う。 イヤな台詞を聞いてしまった・・。 母に真正面から頼られることは、子供の頃ならまだしも 今は、うっとうしくてならない。重い物が双肩にのしかかり、自分の 将来の夢や希望を奪われるような悲しみがこみあげる。  それを母に伝えられるわけもなく、誰に漏らすこともないまま、 心はどんどん無気力になっていく。 「手術の日には、来られませんけど、がんばってください」 そう言って病室から逃げ出した。 がんばって、とは言ってしまったものの、何をがんばれ・・と 言うのだ。 乳房を切り取るのだ、女としての命を奪われるような ものではないか。 母の不安な表情が残像のように、脳裏に焼き付いた。 母は、もう少し和彦にいてほしかったに違いない。 「私の気持ちも知らないで」と思うだろうか。 会議には出席しなくてよい、と父からも許可が出ていた。 しかし、母の存在は、彼女が思う以上に、和彦の心を大きく支配している。 物心ついた頃から、母の目ばかり気にしてきたから、何をするにも 彼女の言葉が第一に浮かんでしまう。 自動的に母が望まない行為をさけ、 母の納得する範囲で暮らしている。 自分でとった行動でありながら、 不本意な気持ちが常に残る。 もちろん、日に日に不満は鬱積していく のだった。                ☆ その足で東京の学院へ向かい、会議室に顔を出す。 当日、助手を務める先生方が多く集まることになっている。 父が正面に座っており、テーブルの角を挟んで隣に座っていたのは、 ・・赤いワンピースのあの女だ! 「魚住静香先生の代役を勤めさせていただきます、小早川麗子と  もうします」 着物姿の麗子は立って和彦に頭を下げた。 「小早川さんは、東京校の猪俣先生の姪にあたられる。  猪俣先生が学院で講師になられた後は、猪俣先生のご自宅  の生徒さんを教えてこられた。 猪俣先生に並ぶほどの腕だ」 父が紹介した。 どうなっているのだ。 自分へ向けられた挑戦状のように、 父の愛人が、学院に堂々と顔を出している。 それも、母静香の代役として・・。 頭が真っ白になった。 「魚住先生、今前橋からお帰りになられたばかりだから・・。  それに最近、お出かけになることが多くてお疲れになってるんで  しょう」 東京校のベテラン講師、笹峰が、場を和ませようとそう言った。 和彦の口から一言も発せられないので、講師陣は、怪訝(けげん)そうに 彼を見つめている。 和彦は、ときどき麗子に視線を移しながら父を見つめた。   ・・僕は貴方にとって何なのですか? と目で訴えかけた。 宗一郎は、表情一つ変えない。 麗子は、和彦が自分について何か知っているのを感じた。 彼の目の奥で何かが揺れている。 「魚住先生、あさっては忙しくなりますので、よろしくお願いします」 笹峰が、和彦に歩み寄ると、温かなまなざしを彼に向ける。 さらに、彼にだけ聞こえるような小声で、 「若先生も、いろいろとおありで大変でしょうが、がんばってください」 と付け加えた。 「さあさ、こちらへ」笹峰は、自分の座席の横に折り畳み椅子を挟み込むと、 和彦に勧めた。 左手で彼の背中を軽く2、3度叩いた。 口では、先生と呼びながらも、自分の息子をかばうような、そんな優しさが 伝わってくる。 それにつられて席についた。 和彦は底知れぬ屈辱を感じていた。  全ての感情を押し殺したまま、無我夢中で集中講座は務めた。                   ☆ 和彦は、学院の講師、笹峰マツの自宅で年を越した。 マツは、今年還暦を迎えた。 夫には、10年前に先立たれている。 正月には、毎年、娘夫婦が孫を連れてくることになっていて、 そのために準備をしていたのだが、娘の家族は、ツテで年末から ハワイに行くことになり、マツは、住み込みの家政婦の茅田(かや た)と年越しすることになった。 冬休みに入る前の晩に、 「若先生、うちへいらっしゃいませんか。 誰にも内緒ですよ」 とイタズラっぽく小声で言うので、つい乗ってしまった。 大晦日の夕方に、柏のマツの家に着く。 家の中に昆布や醤油の匂いが漂っていた。 台所では、天麩羅を揚げる油の音がしている。 まず風呂を勧められた。 早くも寝間着に着替えて居間に入っていくと、 マツが割烹着姿で、料理を運んでいる。 「若先生、家にいると思って、思い切りくつろいでくださいよ」 マツは、和彦のグラス冷えたビールを注いだ。 「ありがとうございます」 「気を遣わないで、大の字になってくださっていいんですよ」 「そうします」 和彦は、ビールをグッと一息に飲んだ。 そして、煮物や刺身に 遠慮なく箸をつけた。  次から次へと料理が運ばれてくる。 マツと茅田(かやた)が最後の皿を 持って、テーブルについた。 和彦は、 「先にいただいてます」 と微笑んで、二人のグラスにビールを注いだ。  「お婆ちゃんばかりで、ごめんなさいね、先生」 茅田が、申し訳なさそうに笑う。 「あら、先生だなんて。この人は、今日はうちの息子なんだから、 和彦でいいの。 ねえ、和彦さん?」 そんなマツの暖かい言葉が嬉しかった。 それから、マツと茅田は、あーでもない、こーでもない、言い合いをしな がら、延々と世間話をする。  「いつもこうなんですよ。勝手に話し込んで、ごめんなさい」 茅田が時折きづいて酒を注いでくれる。  「いいの、いいの、どうせしんみりしたって婆さんじゃ絵にならない  じゃない? お料理、どう? たーんと召し上がってね」 マツは、遠慮なく昔話に花を咲かせた。 「そうそう、和彦さんは、知ってるかしら、私は、貴方がまだ小さい頃  から学院にいたんですよ」 「え? そうなんですか」 「あら、やだ」 マツは、和彦の膝をポンと叩いた。 「私は、元々は、高崎の学院で講師をしていたの。 静香先生に着付け  や和裁を教えたのは、私なんだから・・」 「ということは、うちの母の師匠・・ということになりますね」 「・・なのかしらねえ」 一切の事情は、記憶になかった。 和彦は、母が忙しそうに仕事を している、その背中しか覚えていない。 学院の事は、話にも聞かな かったし、 そんな事を聞くほど、親子で食事をしたことも頻繁では なかったからだ。  「静香先生は、苦労したわ。 新しく入られた先生方はそれを知らない。  横の連絡を密にして、葬儀だ、結婚式だっていえば、お香典を出したり、  祝電を打ったり・・。 生徒達の鞄のデザインを変えたのも、小物を  使いやすく改良したのも全部、あの方が・・。 なのに、  あのタヌキ親父ときたら・・あら、ごめんなさい」 「いいんですよ、タヌキ親父で」 宗一郎の顔を思い浮かべて、和彦も  大笑いした。  「和彦さんは、お嫁さんを貰ったら大事にしてくださいよ」  こんな風に誰かと食卓を囲みながら、話をするのは、何年ぶりのこと だろうか。 マツと茅田は、殻になった大皿、小皿を台所にかたしはじめて、 今度は、年越しの天ざるそばの用意を始めた。和彦も薬味をテーブルに 運んだ。 既に満腹になっていたが、なんだか雰囲気に飲み込まれ、 余りの刻み海苔まで、そばに混ぜこんでズルズルとすすった。 9時頃になって、二人は思い出したようにNHKの紅白を見出す。  「和彦さん、目や口もとが静香先生にそっくりね」 マツは、和彦をふと横目で見た瞬間そう言った。 「東京にいらした頃、銀行勤めしてらしたって言ってたけど、  窓口に座っている静香先生、さぞ可愛かったでしょうね」 話はいろいろに飛んだ。 母が銀行に勤めていた・・そんな話も初耳だ った。 「ねえ、聞いたことあるでしょう?」 マツがそう言うので、 「ええ」 合わせて、うなづいた。 それからも、マツは、娘時代の恋愛や学院の草創期の事、結婚生活に ついて、和彦に話して聞かせた。 気が付くと、テーブル脇の一升酒を半分以上あけており、茅田は、 ひっくり返って眠っている。  マツが茅田の上に毛布をかけると 「貴方も、横になったら」  そう言いながら、和彦に枕を手渡した。 和彦は、遠慮なく、テーブルとテレビの間に身を投げ出し、横になった。 部屋の振り子時計が11回、鐘を打って時間を知らせた。 「親戚の家っていうのは、普通こんな感じなのかなあ」  なぜか胸がジーンと熱くなった。 目の前の歌手の姿が涙でにじんでいた。 途中、眠り込んでしまったが、気が付くと、 横に布団が敷かれており、二人はその部屋にはいなかった。 枕元に、「ゆっくりお休みください」と書かれたメモが残されていた。               ☆ 翌朝、目を覚ますと、既に時計は9時をすぎていた。 マツと茅田の声が近づいてきて、和彦の目覚めに気が付いた。 二人は、だいぶ前から起きていた様子で、晴れ着姿で挨拶した。 「若先生、お節料理のお重を少しばかり作りましたから、後で  お母様のところへお持ちになってください」 マツは、そういうと、華やかな風呂敷包みをテーブルの上に置き、 「これから、お参りに行ってきます。 鍵を渡しておきます、  お出かけになる時に、牛乳箱の中に落としていってください」 というと、いそいそと出ていった。  (つづく)



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