38.澪(みお)
5月中旬に和彦は宗一郎から電話を受けた。
学院創立40周年の祝賀パーティが催されるので
出席しないかとのことだった。
改めて父と分かってから聞く宗一郎の声は、
和彦の耳に違う印象を与えた。
パーティの席でにこやかに挨拶をする父、
その父親と何度か目が合う。
おかしな事に彼の胸に、以前もっていたような
父に対する嫌悪感は、あまり涌いてこなかった。
むしろ、なにか身近なものが感じられ、
その声にもっと触れてみたい気さえする。
姉花代の横顔が目に留まる。実の姉なのか。
おかしなものだ。 今までよそよそしく接していた
殆どの親族と自分は血が繋がっているというのだ。
家庭の事情をよく知らない者が寄ってきてお世辞にか、
「羽織に袴が本当によくお似合いですね。
なんだか後ろ姿がお父様にそっくりでいらして」と微笑みかける。
「え、僕が、父に?」 思わず父の背中に目をやる。
後ろで笹峰マツが、
「本当にそうですわね」とにっこり答えた。
「マツ先生・・・」 和彦が振り返ると、
「若先生、血は水より濃しといいますわね」と言う。
その後、マツは宗一郎に歩み寄って耳元でなにか囁いた。
帰り際にホテルのロビーに父の姿があった。
和彦のほうへ近づいてきて、
「和彦、よく来てくれた」と言う。
思わず、「お父さん」という言葉が口をついて出る。
宗一郎は、少し酒の入った赤い顔をしていたが、さらに照れくさそうに、
「いつでも学院に戻ってくるといい」と彼の肩を叩いた。
「・・・・」
「お前は、私の息子なんだから」 微かに微笑みを浮かべている。
「体を大事にしなさい」そう言って、立ち去った。
タクシーに乗ってからも、暫く父のその声が心の中に響いていた。
胸のあたりが温かかった。 ただ、母の顔が浮かんでくるたびに
疑問が頭をもたげてしまう。
さっきの父の言葉を聞いたら、母は喜んでくれただろうか。
いや・・喜んでくれるはずだ・・。 そう思うことにした。
☆
この今の気持ちを誰かに伝えたい。
そう思って、和彦は、そのまま東長崎のビイのところに立ち寄った。
ずっと連絡がつかなかった彼女の部屋の窓に明かりが灯っている。
ところが、部屋に入ると、そこはいつもとは違う雰囲気だった。
流しのたらいに漬け置きされたままになった食器類、溢れ返るゴミ箱。
スリップ姿のビイが、座卓に上体を投げ出して眠っている。
「ビイ?」
「・・・・・んん?」 彼女が顔を上げる。
「いったいどうしたんだ」 そばに寄ると息が酒臭かった。
「あー、和彦かー」 そう言って、あははと笑った。
「何かあったのか?」 彼女の豹変ぶりに驚きを隠せなかった。
「これはこれは名家の若様、今日はまた一段と麗しくて」
そう言いながら一升瓶の栓をあけると、コップになみなみと酒を注いだ。
ビイは、酒を浴びるように口元に運んだ。酒がこぼれて肩や胸に流れ込む。
「やめろよ」和彦は、酒瓶を彼女の手からもぎ取った。
「放せ・・・酒、返せよ」声をこわばらせて和彦の手を叩いた。
「ビイ、いつもの君はどうしたんだよ」
その言葉に反応するように、ビイが彼を睨んだ。
「アンタなんかに何が分かるのよ。 私のことなんて愛したことも
ないくせに・・夫ぶるのはもうやめて。 アンタの追い続ける幻の
身代わりになって・・あたしは7年もアンタに抱かれてきたのよ。
アンタが悲しいっていえば一緒に泣いて、苦しいって言えば一緒に
苦しんで・・・。 でも、アンタはあたしのことなんてこれっぽっち
だって愛しちゃいないのよ・・・分かってんの? このエゴイスト。
ペテン師・・・・変態!」
髪を振り乱して、彼に感情をぶつけた。
「ビイ・・・」
「だいたいが、あたしはビイじゃないの、名前があるのよ、知ってる?」
「・・・・」
「とにかく帰ってちょうだい。 会いたくないの、会いたくないのよ」
叫びながら、彼を玄関へと押しやっていく。
「来ないでよ、来ないでー」
ビイは、和彦を閉め出すと、ドアチェーンを掛けてしまった。
☆
和彦は、仰向けになり天井を見つめていた。
ビイがあんなに荒れた姿を見たのは初めてだった。
とても怖かった。何か一人で悩んでいる様子だが、何があったのだろう。
「貴方の追う幻の代わりになってきた」と彼女は言った。
いったいどこで何を知ったのだろうか。 ため息が漏れた。
それから暫く、どちらからも連絡をとらなかった。
☆
6月になった。
和彦の元に一通の招待状が届く。パパンドレウからだった。
友人と家族を呼んで仮の結婚式をするという。
どうしても素直に祝う気になれない。
幻を追い続けている・・か。
誰がそんな嘘っぱちの式になんて出るものか。
和彦は、そそくさと欠席に○をつけて出してしまった。
しかし16日当日になると、やはり気になっていた。
和彦は、押入の奥にしまいこんだ香織の日記を取り出してめくってみた。
確か結婚式に触れているところがあった。 これだ。
『純白のウエディングドレスを着てみたい。 魚住くんと結婚する』
ウエディングドレスに身を包む香織の姿を見てみたい。
和彦は、急いで那須高原の教会まで車を走らせていた。
車を降りて、向かいの教会を見ると、ちょうど扉が開いて
中から国際色豊かな参列客が出てくるのだった。 道場の肥田の
姿も見える。 しかしどこにもビイの姿は無かった。
やがてタキシード姿のパパンドレウと真っ白なウエディングドレスを着た
彼女が出てくる。
和彦は、背広のポケットからカメラを取り出した。
できるだけパパンドレウを外して、彼女だけが写るように
ズームした。 レンズの中の彼女の白い肌、こぼれる笑顔、
美しい目元、・・・・今にも飛んでいって抱きしめたい。
香織を抱きしめたい・・・。 次々とシャッターを切っていた。
そこから少し距離を置いた場所にビイが立っていた。
彼女は羨望のまなざしで花嫁をみつめた。 そして通りの向かいで
花嫁にカメラを向ける和彦を恨めしそうにみつめていた。
☆
6月の終わりにビイの元にもうひとりの学生時代の友人から電話があった。
「どうしてる、元気?」
「うん、どうにか生きてる。 モデルの仕事はどう?」
「うん、年が年だから、段々と仕事が地味になっていくの」
「2月頃に雑誌の特集貰って見たよ。 凄いね、インタビューなんて」
「偉そうなこと言ってたでしょ。実際には行動が伴わないんだけど」
彼女もビイにとってまぶしい存在だった。
「ねえ、結婚式には、どうして来られなかったの?」
「・・ああ、今、とっても忙しくて・・。 日曜日でも抜けられない
大事な仕事を任されているの」 嘘だった。
「へえ、儲かっとりまんなー」
「ぼちぼちでんなー」 無理にはしゃいでいた。
「それより聞いた? 彼女の外国人のカレシ・・。 来月早々ビザが
切れるって。 10日って言ってたかな。 それがさ、15日
まで仕事が入っていて、それまで更新できないから、1週間のあいだ
観光ビザで仕事するんだってー。 他の人にはあんまり言えない話
だけどね。 まー、たったの5日間だから心配は無いんでしょうけど、
もしその間に入管に捕まったら、本国へ強制送還だもんね。
もうすぐ出産なのに危ない橋を渡るものよね」
「・・・え? そうなの? へえ」
「強制送還になれば、あれ確か5年くらい帰ってこれないんだよね。
ま、そしたら彼女が向こうへ行くんでしょうけどね」
「彼女がギリシャへ・・・」
「そうなるでしょう?」
彼女がいなくなる・・・ビイは、心の中で繰り返しつぶやいた。
☆
7月12日の午後、入国管理局に電話する者がいた。
「あ、もしもし。 観光ビザで働いている外国人が吉祥寺に住んでます」
彼の住所、目黒の高校や吉祥寺の道場の名前を告げて受話器を置いた。
☆
7月13日の朝、和彦は車に防具類を積んで道場へ向かった。
もうすぐ他流試合があるせいか、手合わせに大勢あつまってきた。
気持ちよい汗を流した後着替えをしていると、道場に背広姿の男が3人
ばたばたと入ってきた。 彼らは、今来たばかりのパパンドレウを掴まえて、
パスポートの提示を求めた。
「さ、いくぞ」 その場で彼は捕らえられ、車で連行されてしまった。
アッという間の出来事だった。
道場の外に肥田が立ちすくんでいる。
「大変だ、強制送還されてしまった。 どうして・・」
「強制送還ってギリシャ・・へですか?」
「そうだ。 信じられない。 誰かが通報したに違いない」
「・・・・」
和彦は、パパンドレウのアパートへ向かった。 臨月の彼女が
重たい足取りで出てくる。 真剣な表情で停留所まで歩いていく。
彼女はバスに乗り吉祥寺の駅で降りた。
和彦は、一度、部屋へ戻って、急いでシャワーを浴びた。 新しいシャツ
と背広に着替えて、ふと電話のそばのアドレス帳に目をやると、何か
白いものが挟まっている。 取り出すと、それは一枚の名刺だった。
和彦の中から一つの願望が顔を覗かせる。
今まで環境に支配され、人に運命を左右されて生きてきたけれど、
今一度だけ、自分は全てを捨てて、気持ちに素直になりたい。
それは、自分の中の香織の幻に決別するためでもある。
心の中にくすぶるものが有る限り、きっと自分は前に進めない。
しばらくの間、魚住和彦を捨ててみたい。
彼は、その名刺をセカンドバッグに忍ばせて部屋を出た。
(つづく)
(話の続きへ)
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