39.阿修羅 和彦は、シャワーを浴びた後、よく冷えたペットボトルの水を口に 含んだ。 外界の雑音が雨音でシャットアウトされた部屋。 独りで今日の出来事を振り返るのにちょうどよかった。 BGMにピアノ曲を選んでセットした。 壁に掛けた上着の襟元に顔を押し付けると、そこに甘い香りが残っている。 彼女が助手席に座った瞬間、車の中にも同じ香りが広がっていた。  彼女は、狂おしいほど、香織に似ていた。 その肩を抱くことで、ずっと触れたいと思っていた香織のぬくもりを 感じることができたような気がした。 自分だけに向けられる彼女のまなざし。 生きた彼女の声を聞いた。 パパンドレウがもうすぐ送還される。 5年は日本に入国できないという。 出産して何ヶ月か後に彼女はきっとギリシャへ赴くことだろう。 もしパパンドレウの存在そのものを消せることができたら、 彼女をとどめておくことができるのだろうか。 もっと彼女に触れてみたい。  和彦の欲望を堰き止めていたものが、 少しずつ壊れはじめていた。                  ☆ 7月24日のこと。 ビイは、酒を煽っていた。 来る日も来る日も電話が鳴り続け、寝る間もない。 精神的に限界にあった。 ・・死にたい。  彼女は、外をフラフラと歩きだした。 人通りの少なくなった道路を、どこまでも行くと、  路肩に停車しているRV車が一台。 エンジンが懸かっているのに誰も乗っていない。 雨で光る路面に映る信号機の黄・・・赤・・・青・・。 ビイは、迷わず車に乗り、ハンドルに手を掛けアクセルを踏んでいた。 酔っていて、実際に路上を運転しているような感覚がない。 シミュレーションゲームの映像のようにも感じられた。 500メートルほど進んだ所で、目の前の信号が黄色になる。  急いで直進しようとアクセルをふかす。  ところが目の前の軽自動車が交差点の手前で停まったのだ。 ビイは、誤ってブレーキでなくアクセルをフルに踏み込んだ。 彼女の運転している車が前の車両に、そのまま、突っ込んでいく・・・。 もの凄い衝撃を上体に受けると同時にフロントガラスが割れ、その 破片が飛び散り、体は背もたれとハンドルの間で何度も前後した。 夢を見ているのだろうか、どうにか体を起こすことはできた。 恐る恐る前を見る。 前方の景色がやたらと鮮明だ。 ボンネットが 前方の車にめり込んでいて、その車は信じられないくらいに奥行きを 失っていた。 前の車から誰も出てくる様子がない。 やがて、 目の前に赤いものがチラチラと立ち上ったかと思うと見る見るうちに 広がって、前方の車は炎上してしまった。 胸や首に鋭い痛みをおぼえた。 映画のワンシーンのような真っ赤な炎を見つめながら、車から転げる ように飛び出した。 辺りにひと気はなかった。 助けを呼ぶことも、前の車に近づくこともなく、ただ夢中で足を歩道の ほうへと運んでいく。 そうして、林の中を歩いていた。 どこまでも 進み道路に抜けた頃、遠くで消防自動車や救急車のサイレンが鳴り出した。  自分が事故を引き起こしたという実感がなかった。 ただ幽霊の ようにフワフワと歩きつづけて、酔いが醒める頃、自分の部屋へ辿り ついていた。  午前0時・・。 テレビのスイッチを押す。  チャンネルを次々と変えていくが、特別目だったニュースはない。 テレビを消してベッドに潜り、そのまま朝まで眠りに落ちてしまった。 朝、寝床から這い上がるように起きてきた。 首が動かなかった。 胸は呼吸をするだけで痛かった。  恐る恐る新聞を広げてみた。 そこには夕べ彼女の位置からは見えなかった惨劇がフルカラー で映し出されている。  黒こげになった車体を見てビイは戦慄した。 自分のした事の重大さをじわじわと感じていく。  死傷者・・・死傷者は・・。 震える指で文字を辿っていくと、見覚えのある名前が目に留まる。 「そ、そんな」 彼女は、ぶるぶると震えだした。 その後、女の狂ったような悲鳴が辺り一面に響きわたった。               ☆ 和彦が悲報を受けて、病院にかけつけたのは夕べのことだ。 まだ信じられない。 父宗一郎、麗子、宗也が乗っていた車が 追突されて大破炎上した。 麗子はほぼ即死の状態だったという。 宗也は後部座席で黒こげになって引きずり出された。 宗一郎は、 全身に火傷を負い、意識不明の重体だった。 病院に先に来ていた花代は泣きはらして真っ赤な目をしていた。 「父は・・・?」  「・・・・」 花代が首を横に振る。 「たぶん、助からないわ・・」  花代が和彦に歩み寄って顔を彼の胸にうずめた。 「父も麗子もふだん外車に乗っていたじゃないか、追突されたって  こんな大惨事になるはずが・・・どうして今日に限って」 「知り合いの家を出るときに、車の故障にきづいたらしくて、そこの奥さん  の軽自動車に乗って帰ったんですって。 いづれにしても、事故に巻き込まれ  はしたんでしょうけど・・」 朝白んでいく空を病院の廊下の窓から見ていた。 祝賀パーティの時、ロビーで最後に父が見せてくれた微笑み。 「お前は私の息子なんだから」 そう言ってくれた顔を思い出す。 「体を大事にしなさい」と初めて優しい言葉を掛けてくれた。 看護婦が、宗一郎が今し方息を引き取ったと知らせに来た。 和彦の目に涙があふれた。                ☆ 母が亡くなってからは魚住家の天下をとるように思われた麗子も、 魚住家の跡継ぎとして期待されていた宗也もあっけなく死んでしまった。 このわずか10ヶ月あまりの間に魚住家から4人の葬式を出すことになる とは、1年前の今頃、誰が予期していただろうか。 和彦の人の死に対する感覚が麻痺しつつあった。                ☆ 暫く鬱状態が続いた。 食事があまり喉を通らなかった。 ある朝、和彦が窓の外に目をやると、ビイが通りを歩いていた。 よろよろと足をひきずってはいるが、確かに彼女だった。 数分後、ドアのチャイムが鳴る。 開けると、やせ細り青ざめた顔の彼女が立っていた。 和彦も何も言わなかったが、彼女も無言のままで入ってきた。 すり減った土の付いた靴を脱ぎ、彼女はリビングに入っていった。   和彦が口を開いた。「父が亡くなったんだ」 ビイは落ち着かない表情をした。 「そう・・」  「なんだか気が抜けてしまってね」 「・・・・・」 「宗一郎が僕の本当の父親だと分かったんだ」 「・・え?」 ビイは、驚いて顔を上げた。 「母があんな死に方をして、前橋の家まで壊されてしまった後なのに、  なんだか急に父がいとしくなってきて。 これからようやく親子の真似事  ができると思うと嬉しかった・・・なのに、どこまで親に縁がないんだ・・」 和彦は、あふれる涙を拭った。 ビイは胸を詰まらせた。 「ねえ、和彦・・あのね」 彼女は、和彦の目を見て 「貴方のお父さんの車を追突したのは私なの」と白状した。 「・・・・」 和彦は、耳を疑った。 そんなはずがない。 「・・意図的にそうしたんじゃないんだけど、酔って人の車を勝手に  運転して・・前の車にぶつかって・・・そしたら」 「・・・・・・」 和彦の目が大きく見開かれた。彼は発狂した。 「本当に偶然に・・」和彦は、そう言いかけた彼女の髪を掴んで振り回 すように持ち上げた。その顔は憎悪に満ちている。 「なぜ黙っているんだ。そんな大それた事をして、どの面さげて  その辺をうろつき回れるんだ・・ええ?」 和彦は拳を振り上げた。 彼女を殴ろうとしたとき、 彼女のうなじ にグリグリと浮きぼっている頚椎が目にとまる。 黒ずんだ皮膚が弛んで 首の回りに深いしわが刻まれている。 和彦は、拳を緩め、代わりに電話の受話器を手にした。 「警察に電話する・・すぐに自主するんだ」  彼の指がボタンに触れたときに、 「貴方だって疑われるのよ!」 ビイが豹変した。 「・・なんだって!」 「私が貴方のお父さんを死に追いやったと知ったら、世間は、貴方が  計画的に父親を殺したと思うわ!」 すっかり居直っていた。 「もし私を警察に突き出すのなら、私は、貴方にそそのかされて犯行を  犯したと言うわ。 私は貴男の写真を持ってるし、貴方のお姉さん  だって、私を見ているもの」  「どうして、そんなふうに変わってしまったんだ、ビイ!」 「ころころと態度をよく変えるのは、貴方のほうよ! 私にプロポーズ  したこと、もう忘れてるんでしょう。 なのに・・あの女を・・」 「あの女・・?」 「そうよ、私の友達のことよ。 相手の男が国に帰ってしまったのに  独りでもうすぐ子供を生もうとしてる可哀相な女よ!」 「ビイ、君が・・・」  「そうよ、私が通報したの!」  いい気味だと言わないばかりに、薄笑いをうかべている。 「君の友達じゃないのか」 「その友達の代わりに私を抱いてきたのが貴方でしょ!」 「・・・・」 「私を練習台にしてさ、恋愛シミュレーションは卒業したの?」 「こいつー」 和彦は、ビイを突き飛ばした。 彼女は、壁に激突して、頭は和彦の上着にもたれた。 「ラベンダーの香り・・」 彼女の表情がゆがんでいく。 ビイは、泣きながら和彦に向かっていった。 「彼女に・・会ったのね。 彼女に触れたのね」 思い切り拳で、和彦の胸を叩いた。 けれどもか細く弱ったその腕に 力が入るはずもなく、そこにへたり込んで泣くしかなかった。 「父を死に追いやったことは、許せない」 和彦は言い放った。 「金を持ってこいよー、もってこないと、お前の名前も  私の犯罪と一緒に世間にばらまいてやる」 ビイは顔を上げ、声を荒げて怒鳴り散らした。 「・・・・ビイ」  「お金が必要なの。 2億・・・2億・・払ってちょうだい。  私の父が工場に放火したのよ。 借金の取り立てで困っているの。  お金が払えないと、私も私の家族も心中するしか無いの。  お金を・・・ください。 そうしたら、どうなってもいいから・・」 ビイは、少しずつ前の柔らかい表情と声を取り戻していた。 辛かったが、今彼女にとれる唯一の手段だった。 ビイは、体の弱った母親が気の毒でならなかった。 「大きな額の手切れ金になるけれど、どうかお願いします」 懇願するようなまなざしで彼を見上げた後、両手を揃え、畳に額を押し つけた。 和彦は、過去の幾多の出来事を思い起こした。 今まで彼女に支えられた事、 彼女に対して自分がしたこと。 もう7年間もつきあってきて、彼女のためになる事をしてやったことがない。 実の父親を殺されたことは、許せることではない。  けれども、今窮地に置かれた彼女の家族を助けなければ、後で悔やむ ことになるような気がする。 「わかった。 9月まで待ってほしい」 和彦は、彼女の申し出を受け入れた。 「その代わりに」 「・・・・」 「ギリシャに飛んで、彼をイアの断崖に誘い出し突き落としてきて  ほしい」 「・・パパンドレウを・・」 「そうだ」 和彦は、引き出しから航空券を取り出し彼女に手渡した。 「貴方、自分の手で・・。 そこまでして彼女を」 「そうだ・・これが交換条件だ」 その声には固い決意が感じられた。 和彦は表情ひとつ変えることなく無言でビイを玄関先まで見送った。   (つづく)



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