19. 誘惑
正月も3日を過ぎれば、また平常通りの生活に戻るだけである。
3が日は、マンションでひとり音楽を聴きながら読書に耽っていた。
元旦の朝、母の病院へ行ったが、小一時間で戻ってきてしまった。
あの笹峰マツのこしらえた重箱を持っていった時、最初、母は、
和彦に恋人ができたと思ったらしい。
「あら、違うの?」
「違いますよ、そんな優しい彼女がいるくらいなら、連れてきますよ」
「・・そう」 少しがっかりしたようだったが、
「じゃ、やっぱりあのお見合いの話、どうする?」
と、無理やりそっちへ持っていこうとするので、
「いいです・・・結婚相手は自分でゆっくり探しますから」
ときっぱり言った。
「誰か、好きな人はいる?」 静香は目をぎらぎらさせて訊く。
「いることはいますよ、でも・・・」
「そう、どんな人? どこに住んでいるの?」
息子の結婚のことで頭がいっぱいの母をうっとうしく思った。
好きな女性は、具体的に1人にしぼられていないかもしれない。
中学生時代にお互い好きだったのを、うまくうち明けられないまま
不幸な死に方をさせてしまった、糸川香織の面影を引きずっている。
彼女は、いつまでも15歳で、清らかな笑みを浮かべている。
と同時に思い出されるのは、去年の6月、雨の中で見かけた女子大生の
事だった。
「結婚相手は自分で見つけます」
再度、念を押した。
「笹峰先生がつくってくださったのね」
重箱を広げると色とりどりの煮物、焼き物、香の物が美味しそうに顔を
覗かせた。
和彦は、笹峰マツの家で年を越したことは、母に言わなかった。
「笹峰先生は、心遣いの細やかな方ね」
静香は、遠い昔の思い出を振り返っていた。
「いつも、“息子さんは、お元気?”って、貴方の事を訊いてくれたわ。
貴方の誕生日に玩具をくれたり、お正月にはお年玉を・・」
それを以前から知っていたら、もっと礼を尽くして接するべきだったかも
しれない。
「笹峰先生の旦那様が、胃ガンで倒れられて、闘病生活の末、十年前に
お亡くなりになって。 それから、娘さんの住む千葉に移り住まれた
のよ」
静香は、15日に退院した。 入院中に、宗一郎は、たった一度
花や果物を持って見舞っただけで、 思いやりの言葉をかけるでもなく、
すぐに東京へ戻ったという。 病院へ迎えに行ったのは、和彦だった。。
☆
2月に入り、梅の花が満開になった。
取手校に行った帰りに、水戸の偕楽園に足を延ばす。
確か、その日は、笹峰マツが花見に行く予定で、お世辞にか、
「お時間がありましたら・・」と誘われた。 顔を出して
驚かせてやろうと立ち寄ってみた。
マツの事だから、また家政婦の茅田(かやた)と一緒にきているの
だろうと、二人連れを探したが、ようやく見つけた彼女は、数人の
親子連れの中にいた。
マツの横にいる女を見て、最初は誰なのか分からなかった。
化粧を落とし、髪を後ろで一つに束ね、帽子を被っていたからだ。
その女は、驚いた表情で固まった。 3歳くらいの男の子を連れている。
どこか見覚えのある子供だ。
やがて、その目鼻立ちが身近な人間のそれと重なる。
・・父、魚住宗一郎だ。 ということは、この女は・・
小早川麗子・・!
笹峰マツは、
「若先生、足を運んでくださったんですね」
と微笑んだが、動揺を隠せなかった。
横にいる麗子も落ち着かなかった。 こちらが彼女についてどれだけ
知っているのか、分からないのだろう。
和彦は、戸惑いを感じた。
自分の母の存在をないがしろにして、実質的には父宗一郎の妻の座に
いる女。 そして、ようやく見つけた癒しの存在、笹峰マツが麗子の横
にいることへの驚き。
かといって、すぐに背を向けて立ち去れないのだ。
マツに差し出された紙コップの酒を受け取ると、口をつけた。
「あ、宗ちゃん」 駆け出した子供の後を麗子が追っていく。
その後を追って、マツの娘親子も歩き出した。
「若先生、知ってらっしゃるんでしょう」
マツが悲しそうな顔で彼を見上げる。
和彦がうなづいた。
「学院に通ってるんです、うちの小百合。 会長が麗子先生のところへ
連れていったんですって。 娘の一番下の息子が3歳で親子ぐるみで遊
べるんじゃないかって」
「なんで、黙っていたんですか」
「違うのよ!」 マツは否定した。
「私はね、静香さんに申し訳けなくて、とても割り切れない
気持ちよ。 貴方の事だって、小さな頃から知ってるから」
「おうちに招待していただいて、本当に嬉しかったのに・・」
「私も楽しかった。 本当に知らなかったの。 今日娘に知らされたの
よ、その事を。 麗子先生とつき合いがあるなんて・・。
会長に招待されて年末年始にハワイに行ってたんですって。
ごめんなさい。 和彦さん」
マツは、敷物の上に土下座した。 マツの言葉に嘘は無いのだろう。
しかし、やるせなかった。
「いいですよ、僕こそ、せっかくのお花見にお邪魔しました」
和彦は、目に涙を浮かべていた。
「失礼します」 その場を後にした。
☆
それから4ヶ月が過ぎた。
梅雨の晴れ間に、珍しく夜ふらっと出てみた。
和彦は、新宿の繁華街をひとり歩いていた。
ふと前を見ると、見覚えのある後ろ姿が目に留まる。
1年前の雨の日に追いかけたあの背中が脳裏によみがえってくる。
・・まさか。 いや、もし彼女だとすれば、運命だ。
後ろ姿は、エリーゼというバーに入っていった。
迷わず、その店に入る。
カウンターには、たくさんのカップルが座っている。
左端の席に、その女の姿をみつけた。
間違いかもしれない。 しかし、確かにあの日の彼女と
同じ服装だ。 頭の上の方で結んだ長い髪を縦に巻き
肩に垂らしている。 横の席が一つ空いている。
「ここに座ってもよろしいですか」
思わず声を掛けてしまった。
振り向いたその顔を見たとき、彼の期待は裏切られた。
が、背もたれを掴んだ手が既に椅子を手前に引いていた。
「誰かお待ちですか?」
「いいえ、どうぞ」
和彦は、仕方なくそこに座ると、彼女に飲み物を運んできた
バーテンダーにマティーニを注文した。
手持ち無沙汰で落ち着かない。 後悔した。
すすり泣く声・・。
見ると、隣の女がグラスの柄に手を掛け、しゃくり上げている。
女はハンドバッグからハンカチを取り出し、涙を拭いた。
目の前にマティーニが運ばれてくる。
これを飲んだら、帰ろう、そう決めた。
ところが、突然に隣の女は、煽るように酒を飲み干すと、
「死にたい、死にたい」とつぶやいた。
死・・穏やかではない。 人にむやみに関わる気はないが、
「死にたいなんて、そんなに簡単に口にするものじゃないですよ」
と口走ってしまった。
女は、視線を和彦に向けた。 目に涙を溜めて彼を見ていたが、
「どうすればいいんですか、じゃ、どうすれば」
そう言うと、両手に顔を埋めて、大声で泣き出した。
・・困った。 回りの視線は和彦に向けられる。
「女、泣かしてるよ、あいつ」
そんな声がどこからか聞こえてきた。
「ねえ、泣かないで・・」
なだめてみるが、女はいつまでも泣きやまない。
店中がざわめいた。
困り果てた和彦は、気づくと、その女の手を引いていた。
二人分の勘定を済ませ、女の肩を抱いたまま、外に出ていた。
涙をハンカチで拭いながら歩く女。
その女の肩に腕を回している自分・・・。
行き交う人が覗き込んでいく。
・・僕は一体何をしているんだ!
不本意な結果を招いてしまうことはしばしばあるが、
こんな事は初めてだ。
女は、立ち止まった。 泣きはらした目で和彦を見上げると、
「ごめんなさい。 なんだか、ご迷惑をかけてしまって」
と言い、彼を振りきって1人歩き出した。
和彦は、内心ほっとしていたが、やはり気になって、後ろ姿を
見守っていた。
彼女は、よろけながら歩いている。 時々、やはり涙を拭いている。
・・まさか、このまま死ぬなんてこと・・。
女が立ち止まる。 そして、さっきのように両手で顔を押さえたまま
そこにしゃがみ込んでしまった。 彼女のところで前のめりになり、
よろける歩行者・・。
しようがないなあ。 和彦は女に駆け寄って、ふたたび彼女の肩を
抱き起こした。 女の呼吸は乱れていた。 和彦の胸に顔をう
ずめると、狂わんばかりに泣き出した。
新宿通りに出てタクシーを拾った。
「送るよ、家はどこ?」
「西・・国分寺・・」
タクシーは、甲州街道を走り出した。
国分寺市に入る手前で、駅のどちら寄りかと運転手が尋ねる。
「北口・・西恋ヶ窪」
女は少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
ようやく女のアパートにたどり着いた。
和彦は、タクシー代を払い、一緒に下りていた。
「だいじょうぶ?」
「・・・・」
「何が有ったかは知らないけれど」
「・・・・・」
「思い詰めないようにね」
「あの・・・」
女は、伏し目がちに、チラチラ和彦を見上げた。
「こんなに迷惑をおかけしてしまって、それでこんな事を言うのも
ぶしつけなんですけれど・・」
「なに?」 関わりついでだ、お金を貸してほしいと言われれば
多少なら・・と思った。 翌日の新聞に載るような事だけはしてほしく
ないと思った。
「少し、一緒にいてください」
「でも・・」
「ほんの少し、気持ちが落ち着くまでそばにいてください」
そう言って、頭を下げた。
「わかった・・」 和彦は、彼女についていき、アパートの階段を
上がっていった。 2階の一番右端の、角部屋が彼女の部屋だった。
ドアを閉め、一瞬暗い闇の中に立っていた。 明かりがつくと
下駄箱の上に可愛らしい縫いぐるみがいくつも並んでいる。 奥へ
入ると、4畳半くらいの部屋に2人用の白いキッチンテーブルがあり、
その上にコーヒーや砂糖の瓶の入った籠が載っている。その横に開かれた
大学ノートの上には、映画館のチケットや古い映画のスクラップが並んで
いた。 さらに奥の6畳の壁にベッドが横付けされていた。
「こっちの部屋でいい?」女は奥の部屋へ彼を招いた。
「ええ・・」 和彦はためらいがちに、奥の部屋に足を踏み込んだ。
「こっちのほうが落ち着くから・・。 今、飲み物を持ってくるわね。
熱いのと冷たいの、どっちにします?」
「じゃ、何か暖かいものを・・」
女は台所に飲み物をとりに行った。
和彦はメルヘンの世界に包まれていた。 あたりは、ピンクや水色の
パステルカラーで埋め尽くされている。 女は、スリムな厚手のグラスに
飲み物を注いで戻ってきた。 手に取るとレモンの香りがした。
湯気がほんのり立っている。
「アルコールのほうがいい?」
和彦は首を横に振った。
女は、和彦の前に座ると、髪をほどいた。
「君の名前は何て言うの?」
「名前・・・ね、お店ではビイって呼ばれてるけど・・」
「ビイ?」
「ブスの頭文字のBよ」
「店って?」
「新宿のクラブでね、夜働きながら大学に行ってるの」
「女子大生・・?」
そうだ、和彦の好きな娘も・・・。
どうして彼女の後ろ姿はこんなにもあの子と似ているんだ。
「中央線沿線の大学に行ってるのよ」
なんとなく誇らしげなしぐさをした。
和彦はズボンのポケットから財布をとりだし、中に自分の名刺が無いか
確かめてみた。 1枚だけあった・・。
それを何の迷いもなく彼女に差し出した。
「へえ、着付けの先生なんだ、男性も着付けするの?」
彼女は、面白そうに、その肩書きや名前の文字を指先でなぞった。
「だって、男だって、紋付きや袴を着るでしょう」
彼女は、少し間をおいてから、うなづいた。
「ビイっていったっけ?」
・・おかしいな、 ふと和彦は思った。 本名を名乗らない相手に
仕事の名刺を渡して実名を教えてしまったのか。
「・・私、今日お店をやめてきたの・・」
「クラブ・・を?」
「明日から・・」 彼女は再び暗い表情でうつむいた。
「ソープで働かなくちゃならないから」
「ソープ?」
「ソープランドよ、知ってるでしょ」 苛立っている。
「どうして?」
「だって、うちの父が・・・」
思い出して、再びすすり始めた。
「父親が祖母を刺し殺してしまったのー」
畳に伏して、大声で泣き出した。
家族を刺して殺す・・・。 あながちあり得ない事ではないかもしれない。
和彦の脳裏を静香や宗一郎を一突きにするシーンがかすめる。
ビイは、下に5人の弟や妹がいて、母は病弱であると言った。
涙で泣きはらした目で、ビイは言った。
「私を抱いて・・」 彼女が体をおしつけてきた。
「今、なんて?」
「お願い、今晩だけでいいの・・」
「・・・・・」 数時間前に会ったばかりの女じゃないか。
「いや? 私みたいなブ、ブスじゃいや??」
苛立って、舌がもつれている。
「私、バージンなんですよ」 少し卑屈な目つきをした。
「え?」
「ほら、やっぱり笑った」
・・馬鹿にされた、そんな目つきだった。
「い、いや、そんな事ないよ、ほこりに思うべきだと思うよ」
馬鹿にするはずがない、否定した。 なぜならば・・
「僕だって、そうなんだから」
女にこんなに素直に話してしまうなんて・・。
「・・・・・」
お互いに照れくささを隠すように、レモネードをすすった。
ビイの顔がゆっくり和彦の方へちかづいていった。
そして、二人は恋人のように自然に唇を合わせていた。
畳の上に寝ころんで、しばらくぎこちなく抱き合っていた。
「ベ・・ベッドへ・・」ビイが和彦の背中を叩いた。
「う、うん・・」
二人は、なだれ込むようにベッドへと移動した。
「あ、あの」 再びビイが和彦の背中を叩く。
「なに?」 荒い息のままで彼女を見つめる。
「明かり・・消して」
和彦は、立ち上がって照明のスイッチを押すと、再びベッドに潜り込んだ。
薄明かりの中、ビイが髪をあげて、そのうなじを覗かせるたびに、和彦の
心は躍った。 あの緑色の水玉の傘を持った女を抱いているような気が
した。
(つづく)
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