32.岐路 (95年11月) 枕元の時計が3時を指している・・。 「・・また夢を見たの?」 ビイが眠い目を擦りながら、和彦の手を握りしめる。 「僕は、今悲鳴をあげてたのかな?」 「うん・・何か叫んでた」  最近朝までぐっすり寝た試しがない。  「眠れる・・?」 「・・・・」 和彦が首を横に振った。。 「ココア、つくるね」 ビイは、カーディガンを羽織り、台所に立った。 「君も大変だね、毎晩僕につきあって」 「・・気にしないで。 大丈夫だから」  和彦は、夢にうなされて目をさますたびに、寝息を立てて眠るビイの 姿にほっと息をついていた。 ビイは、和彦の叫び声に起こされてしまう時でも、イヤな顔一つ せずに、彼の気持ちが落ち着くまで言葉に耳を傾ける。 ビイがつくる温かいココアに、心が癒される。 和彦は、立ち上る湯気をみつめて、ぼおっとしていた。 「あの時・・」 「・・ん?」 ビイが顔を上げる。 「・・父を殴って、思い切り首を絞めたんだ」 その時の感触がまだ手に残っている。 「仕方なかったじゃない? 自分の母親を見殺しにされたかも  しれないんだから・・」 「・・・・」 「僕は、学院を辞めるべきだろうな」 「・・貴方やお母様が力を注いできた学院なんでしょ。簡単に退く  なんて・・」 「本の執筆が終わったら、辞めるかもしれない」  両手でカップを包み込むようにして、ココアをすすった。 「母の人生は、何だったのかな。 いつも母の心の泣き声ばかりを  聞いていたような気がする・・」 「・・・・」 「僕は、何もしてやれなかったよ」 「お母様は、貴方が思うほどご自分を不幸だとは思ってらっしゃらな  かったんじゃないかしら」 「・・・・」  「自分を責めないで。 全てを背負うことは無理なのよ。貴方は精一杯  やってきたと思わない?」 「・・・・・」  「誰だって自分の船の舵取りで精一杯よ。 貴方は、今まで何度も  自分の船を置き去りにして、お母様の船を一緒に舵取ってきたわ。  お母様の船が沈めば引き上げに、燃料が切れれば補給に駆けつけた。  自分自身の船の管理はあまりしてこなかったじゃない?」 その船を修復するために何かできたら・・ビイは思った。 和彦も、 親身になって支えてくれるビイの懐に、いつも錨を下ろしてきた。 「みんな理想の生活を描いて、それを本来あるべき姿だと思うの。   でも、完璧な人生を生きられる人なんていないの。 誰だって  誰かを憎んで、誰かを愛して、何かを悔やんで人生を終わるの。  その荷物を子供が背負わなきゃならないとしたら、孫やひ孫は、  どうすればいい? 貴方がお母様の人生を背負って生きる分だけ、  貴方の子供も、また同じ思いをするわよ」 「・・僕は、子供は持たないし、たぶん・・結婚もしないさ」 私のお腹に貴方の子がいるのよ・・、ビイは、そう言いかけた。 もうすぐ4ヶ月目に入ろうとしている。 新しい命を宿している喜びを感じた。 和彦に話したら、何というだろう。 母親の影を背負い、自分の生き方にすら疑問を感じている和彦。 今の彼にとって新しい命の誕生は、どんな意味を持つのだろう。 「生めない場合は、3ヶ月までに」医師の言葉がよぎった。               ☆ ビイが友達に招待されて、吉祥寺のアパートを訪れると、その日は、 彼女の外国人のカレシがいた。 「彼が、私の友達に会いたいっていうのよ・・」 「お招きにあずかって光栄です」 「どうぞ・・狭いところですが・・」 ビイとパパンドレウが初めて会った瞬間だった。 二人は、居間のテーブルに可愛いギンガムチェックのクロスを掛けると、 台所から次々と料理を運んできた。 始終みつめあって、キスをする。 もう11月だというのに、そこだけ常夏のように暑かった。 「おいしそう、二人でつくったの?」 「このムサカとサラダは、彼がつくったの。 あとは私」 「お口に合うといいんですが。 どうぞ召し上がってください」 パパンドレウがにっこり笑って料理を勧めた。 ビイは初めて口にするギリシャの味に舌鼓を打った。 「わあ、おいしい」 「彼ね、将来ギリシャの島にレストランを持つのが夢なの。  彼は毎日料理に腕を振るって、私はひたすらそれをテーブルに  運ぶだけなんだけど・・」 「いいなあ。 こんなお料理が毎日食べられるのね」 ビイは友達の幸せそうな笑顔を嬉しく思う反面、とても羨ましかった。 こんな風に自分も和彦と寄り添って将来の夢を語り合いたい。 テーブルを片づけた後、パパンドレウはギリシャコーヒーをビイに 運んできた。 友達が皿を洗っている間、ビイは、パパンドレウと 話をした。 「2年前の8月に日本に来ました」 「日本語、お上手ですね」 「ありがとう。 毎日少しずつ勉強してますから」 「今、お仕事は何をしてるんですか?」 「あ、目黒の堀込女子高等学校で英語の講師をしてる・・」 「・・え?」  その仕事は、彼女が和彦に紹介したものだった。  だとすれば・・。 「誰かの紹介があったの?」 ビイは尋ねた。 「・・ええ。 魚住さんに」 ・・やっぱり。 パパンドレウは、どこで彼に知り合ったんだろう。 「その人は、よくここへ・・来るの?」 「いいえ」 彼は首を横に振った。 「魚住さんは、あまり友達  づきあいはしないです。 那須のペンションのオーナーに  魚住さんを紹介されて、何度か会っただけです」 ビイは胸を撫で下ろした。 どうして、そこまで和彦を友達に引き合わせたくないのか、 自分でもよく分からない。 学生時代に合コンで知り合った男の子を 彼女にさらわれてしまったことを今でも引きずっている。 また同じ事が起こると想像するだけで胸が締め付けられるのだ。 パパンドレウは、ビイが飲み終えたコーヒーカップをソーサーの 上にひっくり返した。 「底のコーヒーが描く模様で占います」という。 「でも、当たったことなんて無いのよ」 台所から友達が戻ってきて彼の横に座った。 「本当に幸せそう」 ビイは友達に言った。彼女が一段と眩しく見えた。 「あのね、私今お腹に赤ちゃんがいるの」 友達が言う。 「・・え?」 ビイは一瞬、彼女に自分の心の中を読まれたのかと思った。 「まだ2ヶ月なんだけど、もうつわりがあるの」彼女は嬉しそうだった。 「・・・生むの?」 「うん、もちろん」 「二人の大事な子供です、結婚して一緒に育てます」 パパンドレウが言った。  彼は、照れくさそうに笑いながら、ビイのカップを手にした。  その模様を眺めながら、 「貴方は、今なにかを迷っていますね。 決断を迫られています」 と言った。 友達が笑いながら彼を指さして 「・・・ね? 当たらないでしょう」と、ビイに言った。 ☆ 和彦は、めずらしく学院の教壇に立った。 「このように礼を尽くして日々の暮らしを心がけたいものです」 礼法の授業を終えた後、生徒達が教室を出ていったが、 ひとりだけ残って、彼のほうを見ている者がいる。 誰もいなくなったのを見届けてから、前のほうにやってきて、 「先生、礼を尽くすって大切な事ですよね」という。 「ええ・・」 立場上、そう答えるしかない。 「今の若い人たちは、何かと個性とか自由とかいいますが・・。  うちの息子に、先生の爪の垢でも飲ませてやりたいです」 「息子さん、おいくつですか?」 「22です。 去年大学を中退してしまったんです。 それで  やっていることと言ったら、フリーターとバンド活動。  親のいう事なんて、ひとつも聞かないんです。 あんな子に  育てた覚えは無いんですけど、どこでどう間違えたのか・・」 和彦は、身の上相談をする気はなかったが、母静香より少し 若いくらいの女性なので、ほんの親孝行のまねごとのつもりで、 椅子を勧めた。  「お名前は、何とおっしゃいましたか?」 「田中です」 「田中さん、僕の爪の垢なんて飲ませる必要はありません。  貴方が愛情を込めて育てた息子さんなら、人の道に逸れるような  ことをするはずが無いじゃないですか」 「・・・でも、大学をやめたり・・」 そこに一番こだわっているようだ。 「確かにもったいないことです。 でも、自分の情熱を傾けたいと  思える物に出会ったんですよ、それに打ち込めるなんて素晴らしい  じゃないですか」 「プロになれるわけじゃないのに・・」 「分からないですよー、もしかしたらってことも・・」 「はあ」 彼から返ってくる意外な答えに納得のいかない様子である。 「お母さんが小言を言えば言うほど、息子さんは、ムキに  なるだけですよ。 彼が今していることは、今一番好きな  ことなんです。 それを否定されたら、ますます貴方から離れて  いくだけです」 「・・どうすればよろしいんでしょうね」 田中は首を傾げる。 「“楽しそうね”“がんばりなさい”と励ますことです。   息子さんの心がどれだけ温まることか・・。 絶対に貴方を  悲しませることなんてできなくなりますよ」 「・・・そうでしょうか」 「息子なんて、心のどこかでいつも母親のことを考えているもの  なんです。 でも、自分自身の人生もしっかり見つけなくては  ならない。 息子さんがする事は、必ずしも貴女の理解できる範囲  ではないかもしれない。 でも、息子さんが選んでいくことを祝福して  あげるといいですよ。 壁にぶち当たって苦しんでいるときは、  心の中で“がんばれ”と祈るだけで十分です。 そこから這い上がる  たびに男は強くなれるから・・」 和彦の目に涙が溢れている。 「先生・・」 田中は驚いた。 「・・すみません。 なんだか気持ちが高ぶって」 自分の母に向かって語りかけているような気がしていたのだ。 「どうもありがとうございました」 多少疑問は残っているものの、和彦の心のこもった助言を受けた田中 は、深々と頭を下げて帰っていった。  (つづく)



(話の続きへ)


メニューへ