33.かげろう
ビイの細い指が、枕元のスポーツドリンクをさぐっている。
始めのうちは、必要なミネラルをカプセルで補給すれば、
どうにか動けたのだ。この数日間、仕事を休んでいた。
食べ物の匂いが無くても吐き気をもよおすようになり、
体がだるくて何もできない。 電話もずっと留守電にしている。
何日も連絡の途絶えた彼女を心配して、和彦がやってきた。
パジャマ姿のビイが、重々しい足取りで出迎える。
「だいじょうぶ? 夕飯食べた?」
「・・・・」
「なんかやつれたみたいだけど、どこか悪いの?」
ビイは、折れそうな腕を和彦の肩に絡ませた。
奥に布団が敷かれていて、掛け布団がめくれている。
「何も食べないなんてやっぱりよくないよ、疲れているなら、
僕が何かつくろう。 買い物に行ってくるから」
和彦が財布を手に飛び出そうとしたとき、
「私、食べ物の匂いはダメなの・・」ビイがようやく口を開いた。
「・・え?」
「貴方だけ外で食べてきて貰える?」
「・・じゃ・・そうするよ」
ビイは、表情も変えずに布団に戻っていった。
和彦は、ひとり駅前に出て、定食を食べていた。
飯を口に運びながら、ビイの様子を思い返す。
顔が青白くて精気がなかった。
ビイは、よほどの事が無い限りは、規則正しく食べるほうだった。
多少気分が悪くても、「少しは何か口にしないと」と言って、
敢えて食べるように努めていたものだ。
コンビニに立ち寄り、果物、デザート、ジュース類を
買い込んでから、ビイの部屋へ戻った。
何も食べていない彼女が、洗面台で苦しそうに吐いている。
水道の水が出しっぱなしになっている。
「病院へは行ったのか」 和彦は、背中を手でさすった。
「・・・・」 どんどん前のめりになるビイの体。
和彦は、彼女を抱き起こして、体を胸にもたせかけた。
「ビイ、どうしたんだ」 呼んでも反応を示さなくなった。
和彦は、急いでタクシーを呼び、彼女を救急病院へ運んだ。
何も摂れなくなったビイの体は極度に衰弱しており、すぐに点滴が
施された。
眠っているビイの傍らにいる和彦の肩を看護婦が叩く。
「あちらで先生のお話を・・」と、診察室へ通された。
「妊娠初期にこういう症状のある人もいるんです。 つわりが
極端にひどいと何も喉を通らないんですよ」
「・・え? 妊娠・・つわり」 縁の無い言葉だと思っていた。
医師は、改めて保険証に目をやった。
「患者さんは、おひとりなんですね。 赤ちゃんのお父さんですか?」
医師はじっと和彦をみつめた。突然に知らされた事実に彼は言葉を失った。
「2〜3日点滴を打ちながら、ここで様子を見てみましょう」
和彦は、ひとり自宅へ帰った。
ビイが妊娠している。そして、たぶんお腹の子の父親は自分だ・・。
予期しなかった展開に、ただおろおろとするばかりだった。
新しい命を尊重して、ビイと一緒になることが前に進むことなのか・・。
実感が湧かないせいか、ビイのお腹の子を自分が抱いている
様子が浮かばない。 代わりに母静香の顔が浮かんだ。
母は心満たされない上に子供を抱えていたから、不本意な道を選ばざる
をえなかったと、和彦は思っている。
・・ビイや自分が静香や実の父親の二の舞を踏むのではないだろうか。
そうなれば、その子供は自分と似た人生を歩むことになる。
3日後にビイはひとりで退院した。
彼女は、一度も病院から電話をかけてこなかった。
和彦も彼女の部屋に行くことができなかった。
連絡を取り合うこともなく更に4日過ぎた土曜日の朝、
ビイが彼の部屋にやってきた。
「先生、もう知ってるよね。 私・・」
「・・・・」 和彦が頷く。 それを見てビイがうつむく。
「それで、もう4ヶ月に入ってしまったんだけど、結論が出せなくて」
彼女の手に大粒の涙がポツポツ落ちる。
「・・僕は、あの」
そこまで言いかけた彼に手のひらを向けて、ビイが話の腰を折る。
「・・ずっと先生の気持ちを聞くのが怖くて延ばしてきたの。
でも、お腹に貴方の子供がいることが嬉しくて・・勝手かもしれない
けど、少しでもこの状態を感じていたくて・・」
「今の僕は、人の親になるなんて考えられないんだ」
「うん、そうだよね」 ビイは、何度も頷いた。
「申し訳ない・・・」
「んん。 謝らないで・・ わかってる」
暫くしゃくり上げてから、ビイは顔をあげた。
「先生。 それは貴方の出した結論なの。 でも私には
私の選択が残されている・・。 このままこの子を諦めるか、
自分で育てるかは、私の選択・・・」
「ビイ・・それは」
和彦の中で若かかりし日の静香とビイが重なっていた。
「私だけで育ててはダメなの? どうせ私なんて将来結婚したいって
いう人が現れるかどうかも分からないんだし、それでも子供は
生んで育ててみたい。 だったら、自分が愛した人の子供がいい」
和彦の目には、ビイは心身ともに疲れ切って見えた。
責任は感じているが、彼女の今の決意に同意することはできない。
「先生、迷惑はかけないわ・・私がひとりで」
「すまない。 もうしわけない。 今回は子供を始末してほしい」
和彦は土下座した。 彼の背中が震えている。
「先生・・」 二人の間に沈黙が続いた。
「分かった。 先生がそうしてほしいというのなら」
ビイは、抜け殻のようによろめきながら立ち上がった。
「堕ろします・・」と言って玄関のほうへ歩き出した。
和彦は、暫く畳の上に額を押しつけていた。
・・どうするんだ、これが今まで支えてくれた彼女に対する答え方
なのか・・自分を叱咤してみたが、体は彼女を引き留めに立ち上がろうとは
しなかった。
それから10分くらいたっただろうか、うっすら聞こえていた救急車の
サイレンが徐々に大きくなって、すぐそばでピタリと止んだ。
窓を開けてみると、マンションのすぐ真下に救急車が止まっていて、
回りに人だかりができている。 軒先から救急隊員のヘルメットが見えたか
と思うと、タンカーに乗せられているのは・・・・ビイ・・。
和彦は、急いで玄関を出て、エレベーターのボタンを押した。
エレベーターはまだ1階に停まっている。 なかなか上がってくる
様子がないので、階段を転がるように下りていった。
「どうしたんですか。 彼女は、うちの客なんです」
人混みをかき分けて外へ出た。
「私、目の前で見たのよ」そう言って主婦のひとりが状況を
説明し始める。 彼女は、玄関先の3段ある階段まで来て足を滑らせ
前のめりなり、そこに停まっていた自転車に覆い被さるように地面に
倒れたという。 見てみると、自転車が横倒しになっていて、下の
コンクリートに血が垂れている。
「一緒に乗ってください」 救急隊員の指示で和彦は救急車に乗り込んだ。
目の前に横たわる彼女は、背中を丸くして手で下腹部を押さえている。
白いスカートの裾が赤く染まっていた。 和彦は、彼女の肩や頭を
覆うように抱きかかえた。
「あ、すまない・・ビイ。君を苦しめるつもりなんて
なかったんだ・・どうしてこんなことに・・」
「・・先生」 ビイは、和彦の手を強く握っていた。
ビイのお腹の子は、助からなかった。
和彦は、自分の気持ちが事故を招いたような気がしてならなかった。
ビイは、それから口を開かなくなってしまった。
暫く仕事を休んで、一日中泣きながら壁をみつめる日々を過ごしていた。
和彦も、2冊の本の原稿をようやく書き終えて暫く休暇をとった。
「ビイ、本当に悪かったね」
傍らにビイを抱き寄せ、ただ座っていた。
そんな風に時間をやり過ごすだけの日々が数日続いた。
その晩は、満月だった。
都会の青い夜空に白い月がぽっかり浮かんでいる。
二人並んで部屋の窓辺に座り、外に目をやっていた。
「和彦・・・」 ビイがつぶやいた。
「え? 今なんて言ったの?」
「・・和彦って言ってみたかったから」そう言ってうっすら微笑んだ。
「ねえ、話してくれない?」
「何を?」
「和彦の密かに好きな人のこと・・知りたい、いいでしょう?」
「・・・・」
「その人が貴方の心のどこかにいつもいるんでしょう」
遙か昔の初恋を引きずっていると知ったら、彼女は何と言うだろうか。
誰かに話してそこに新しいイメージが加えられて汚されるのは怖かった。
もう2度と会えない人とのセピア色がかった貴重な映像だった。
「彼女は、中学生時代に僕が好きだった人だ」
「・・中学校から」 ビイの唇が震える。
「僕は、剣道部で、彼女は体操部で、同じ体育館で練習していた」
「・・・・」
「2年で同じクラスになって、3年の1学期にお互い相手の気持ちを何となく
感じるようになって・・。 それなのに、僕は、うち明けてくれた彼女に素直に
応えるどころか・・・気のない振りをした」
「・・・・」
「それが元で彼女がおかしなゲームをし出して、僕らのそんなやり取りを感じた
馬鹿な連中が、寄ってたかって彼女にいたずらをしたんだ・・」
「・・・・」 ビイが見開いた目で和彦を見上げる。
「それが耐えられなくて、彼女は・・・死んだよ」
「死んだ」 和彦は、繰り返した。
ビイには分からなかった。 死んでしまったのに、その人の事を
まるで今も生きているかのように思い続けている。
そのために、和彦は半ば夫婦のように暮らしてきた彼女との
結婚も決断しないのだ。 せっかく授かった子供も堕りて
しまった。 いったい、どうして彼女の存在がそんなにも鮮明に
彼の中で息づいているのだろうか。
(つづく)
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