2.濡れネズミの御者
重たい足取りで管理局の廊下を歩いていた。
「あの、ストラティスさんの奥さんでしょう?」
振り向くと、どこか見覚えのある男がうっすら笑みを浮かべて立っている。
「どなたですか?」
男は、セカンドバッグから名刺を取り出すと一礼して聡美に
差し出した。
「花村 賢治。 私立堀込女子高等学校事務・・」
前に一度ストラティスの忘れ物を届けたことがあったけれど、受付の窓口
にいた人だったろうか。デートの日はよく校門の前で彼を待っていたもの
だけれど、よく部屋の窓から会釈してくれた、
・・あの人に違いない。
「お給料を、彼に渡しに来たんです。大変でしたね。あさって、15日
に送還されてしまうなんて」
「え? 5日間拘留じゃないんですか?」
「知らなかったですか?」花村は、首をかしげた。
聡美は、憤慨した。正式に結婚はしていないものの、職場の事務員でさえ
知らされていることを、どうして自分にだけ教えてもらえないんだろう。
出口付近がざわついている。
「予報じゃ、明日までは持つっていってなかった?」
「そう、さっきまで、すっごい炎天下だったのに」
強い雨が表のコンクリートをたたきつけていた。
自動ドアが開いて、外から人がシャツをペッタリ体に張り付け
駆け込んで来る。
雨は雷鳴を伴い、更にはげしくなっていく。
傘の無い人たちは立ちすくむしかなかった。
「ひどいなぁ・・」 聡美の横に花村が立っている。
聡美はだまっている。
雨でも晴れでも夜でも昼でもいい・・。
ストラティスがそばにいないんだから・・。
誰も肩を抱いてくれないし、上着を差し出しても・・くれな・・。
ノースリーブの肩にパサッと何かがかけられる感触があった。
あ、・・ストラティ、あなたなの?
顔をあげると、花村が微笑んでいた。
「すこし我慢してもらえますか? 車がそこに止めてあるんです」
「え? 車? 」
花村は、聡美の肩を抱いて人をかきわけながら進みはじめる。
「送りましょう。 申し訳ないですが、私も急いで学校へ戻らなくては
ならないので」そう言って軒先へ躍り出ると、20メートルほど
先に停められたグレーのステーションワゴンを指さした。
「今、ここに寄せますから、待っててください」
花村は、セカンドバッグを頭に乗せると車に向かって走り出した。
雨は滝のように降り注いでいた。 花村は運転席のドアの前に
暫く立っている。 あ、もしかして・・? 聡美は、彼の上着の
右ポケットに手を入れてみた。
「あ、やっぱり」 冷たい金属片のようなものに指が触る。
急いで戻ってくる正体不明の男にそれを手渡す。
「すみません」
彼は鍵を受け取ると再びダッシュしていった。
「いや、大変でしたね」 濡れた髪をタオルでふき取る花村。
後部座席のスポーツバッグが大きく開いていて、丸めこまれたシャツ類や
ジーンズが覗いていた。
最後部座席には、アイスボックスやテントの支柱らしきものが
無造作に積み込まれている。不思議そうに眺める聡美に花村もきづく。
「・・最近、那須高原でキャンプしたときのがそのままになってるんです。
あの、シートベルトしてもらえますか?安全運転はしますけど」
うっすら笑みをうかべる。
その顔にストラティスの顔を重ねていた。
ギリシャに送還された後、彼は、いつ帰ってくるんだろう。
出産後すぐに飛んでいきたい。
2年間、幸せな時間が流れていたから少し恐れていた。
二人の間に何か割り込んできやしないかと・・。
「お二人でキャンプすることはありますか?」
「え・・?」
花村が、何か話しているようだったけれども、聡美の意識には届いていな
かった。
「無理ないですね」
花村が、納得してうなづく。
それから暫く前方だけを見てだまって運転していた。
花村は、聡美を、彼女の実家のある高円寺の駅前まで送った。
「聡美さん、気を落とさないで、元気な赤ちゃんを産んでください」
そう言ってにっこり微笑む。
「どうもありがとうございました」
車の高い座席が少し怖かった。
「気をつけて・・あ、聡美さん」
運転席から降りてきた花村が、傘を広げて彼女に手渡す。
「まだ、少し雨が降ってるから」
「あ、これ・・」聡美も、羽織っている上着を脱いで、花村に返した。
花村は、笑顔で手を振っている。
聡美も再度、おじぎをした。
花村は、見えなくなるまで聡美を見送っていた。。
聡美は、しばらくアパートに戻れない気がした。
実家への途中、のどの渇きを感じて販売機で缶ジュースを買う。
すぐちかくまできて、彼女の足取りは重たくなってしまった。
聡美とお腹の子を突如襲った災難。
今までのストラティスとの生活を見守ってはくれた両親をこれ以上
悲しませたくはない。
彼女はジュースを飲み干した。
(つづく)
(話の続きへ)
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