56. 虚ろな瞳
聡美の元にギリシャに着いたストラティスから短いメッセージが
届く。
「美実と会えてうれしい。彼女はとても元気にしてる。
大事に育てます」
もし和彦に惹かれることなくストラティスだけを信じて
待っていたなら、たとえ今彼が誰と一緒にいたとしても
すべてを取り戻すことができたのかもしれない。
聡美は自分を責めていた。
話しかける和彦に、聡美はまともに返事も返さなくなる。
彼の目には、彼女がどこか一点を見据えて呪っているように見えた。
和彦も、彼女を自分のそばに置きたい一心で、多くの人間を巻き込んで
きたと思っている。
聡美を妻にすることはできたし、彼女のお腹には自分の子が宿っている。
けれども、展開を急ぎすぎて、聡美の心を置き去りにしてしまったのだと
思った。
目の前にいる彼女はいつの間にか抜け殻のようになっている。。
何度も抱きしめたが、妻は、彼の腕をすり抜けた。
「しばらく実家に帰ってもいい?」 朝食の食器を流しに片づけ
振り向くこともなくそう言うと、せわしく蛇口をひねった。
「ああ、そのほうが気持ちが落ち着くならそうするといい」
「・・・・」 聡美はひたすら食器を洗っている。
和彦も気持ちが塞ぐまま、玄関に向かう。後から聡美がやってきて
「和彦さん・・・」と呼ぶ。
ひさびさに名前を呼ばれ、嬉しくて振り向く。ところが、聡美は、
「お願い。結婚式を延期してほしいの」とだけ告げる。
そんな予感はしていた。
和彦は振り向いて、うっすら笑みを浮かべ、
「いいよ、君が望むならそうしよう」と答えていた。
「じゃ、行ってくるよ」 仕事に向かう。
結婚式の延期、それは多くの場合婚約破棄を意味する。
しかし、彼らは既に入籍している。 たとえば彼女が離婚を
考えていたとしても和彦はそれに応じる気はなかった。
それでも、もし聡美の決意が固かったら・・。
聡美はお腹の子供を始末してしまうだろうか。
その晩和彦は外で夕食を済ませて帰宅するが、
やはり聡美はいなかった。 静かな部屋で着替えた後、
台所の戸棚からコニャックを出してきてグラスに注ぐ。
テーブルにタバコとライターを置いた。
元々吸わないほうだったが、次第に本数が増えていた。
ソファにもたれながら、久々にクラシック音楽を聴いている。
それでもいっこうに癒されないのだ。
数日後、聡美の様子を伺いに高円寺へ向かう。
このところひげを剃る気力もない、あごを撫でると無精ひげがざらついた。
家の近くまで来て、ちょうど1人歩く彼女を見かける。
話しかけるタイミングを失ったまま、
以前のように、彼女の後ろを歩きだしす和彦。
環七沿いにまっすぐ歩いていくと、彼女の家とは逆の南口
方面に出る。 聡美は図書館に入っていった。
迷わず外国語の書棚に足を運ぶ聡美。
和彦は、気づかれないようにその様子を見守っている。
聡美は、上から2〜3段目までざっと目を通した後ですばやく
3冊の本を手に取り、テーブルに場所を移した。 まず一冊をぱらぱらと
めくるその目が心なしか輝いている。 おもむろに本の真ん中あたりを大きく
開いた。 目で文字を追う彼女の唇は何度も繰り返し同じ台詞をつぶやいた。
そのページを胸に抱きしめて大きくため息をつく。
聡美は、貸し出しカウンターで手続きを済まし三冊の本を借りて外に出た。
和彦は司書に声を掛けた。
「あの、今あの人が借りていった本、僕が借りたいと思っていた本
だと思うんです。一足遅かったのかな。今の何でした?」
さりげなく訊いてみる。 20歳くらいの女の子だ。
「え? あー」そういいながら片づけようとした図書カードを彼に見せた。
「ギリシャ語の単語集、現代ギリシャ語文法入門、現代ギリシャ語会話
ですよ、これですか。」
「あ、やっぱり・・・借りたい本が2冊もあったんだ・・」
和彦は残念さを装い、頭を掻きながら外へ出ていった。
今まで彼女とストラティスの間では、どちらの母国語でもない英語が
話されてきたはずだ。聡美の元をストラティスが去った今、彼女が
本格的にギリシャ語を勉強しようとしている。
その理由は何なのだろうか。
☆
笹峰マツは、学院の廊下を歩く和彦の背中を見つめていた。
どことなく寂しさが漂い、その足運びには入籍当初に感じられた力強さは
感じられなかった。 聡美が美実を子供の父親に預けて
しまったということは和彦から聞いていたが、事の真相はよく
知らなかった。
マツは、聡美の友人の寛子に声を掛けた。
「最近、聡美さんはお元気?」
「・・マツ先生、それが・・」
寛子は不安げに歩み寄ってきた。
「聡美が、このところ実家に帰ってるんです」
「まあ・・」
「私も本人に聞いたわけではないから何とも言えませんけど、
魚住先生の過去の女性関係が絡んでいるという噂も飛んでます。」
「貴女・・」 マツは彼女の言葉を軽率に感じた。
「聡美さんのお友達でしょう。真相も分からないのにやたらと言いふら
してはだめですよ。」
寛子は、ため息をついた。
「最近の聡美のことは私にはよく分からないです。高校生時代は
もっとキラキラしてたんですよ、可能性に満ちていて。 それが
外国人男性との同棲、妊娠と意外なことばかり。 それで今度は
魚住先生との入籍ですよ。 そこまでの経緯は想像もできません。
確かに結婚はおろか今つきあっている男性もいない私には羨ましい
ことばかりです。 でも、彼女にはどうしていつもハッピー
エンディングが無いんでしょう。それが一番理解に苦しみます」
「結婚式の3週間前にキャンセル? 政財界の方もお見えに
なるのよ。 外国からのお客様の飛行機やホテルの予約はどうする
つもり。 この先、日を改めてお招きしても、来て下さるか
どうか分からないわよ。お父様のお友達や学院の恩のある方たちに
はなんて言えばいいの。これからの学院の信頼にも関わることでしょう。
みっともないわね」 姉の花代は、怒った。
「申し訳ないですが、花嫁の体調がすぐれないということにして
もらえないでしょうか」
「そうなったら、今度はどこの病院に入院しているのかという話になるで
しょう。 お見舞いをいただいたらどうするの?」
花代はいらだっていた。
「で、離婚・・するの?」
「・・・・」
「お腹の子は?」
「・・・・」
「聡美さんは子供を生むの、生まないの?」
「・・わかりません」
「男の子だったら、この家の跡継ぎなのよ。 別れるんだったら
そのあたりをきちんと話しておきなさいね」
和彦は何も言わずに学院を出る。
その日は、午後からクリニックに予約をしていた。
このところ眠れなくて安定剤が欲しかった。それから聡美の母と話がしたか
った。
クリニックは、学院から歩いて3分程度のところにある。
窓口に聡美の母がいなかった。
「あの・・」
「あ、菊谷さんのお嬢さんの・・。今ね、遅い昼食を取りに出てる
んですよ。魚住さんのカウンセリングが終わる頃には戻ると思い
ますけど」
和彦は、30分後に窓口で安定剤を受け取ったが、まだ滋実は
戻っていなかった。
「たぶんね、通りの向かいの喫茶店にいると思うわ、行ってみる?」
受付の金井が勧める。
和彦は、その喫茶店は初めてではなかった。
滋実がクリニックから出てくるまで待っていたときも、聡美の友人の
美恵子が訪ねてきたときも入った店である。
和彦が歩道を歩いていると、窓際のテーブルに座っている滋実が
目に留まる。
「いいですか」
「・・ええ」 滋実は、セットメニューを頼んだようだ。
メイン料理を終えてデザートを食べていた。
和彦は、コーヒーを注文した。
「聡美は、どうしてますか?」
「気になる? よかった」 滋実は、うっすらほほえんだ。
「もちろんですよ」
「和彦さん、不便な思いなさってるでしょう」 滋実は同情した。
「・・でも、彼女の気持ちを思うと何も言えないですから」
滋実も深くゆっくりうなづいた。
「多くは語ろうとしないけど、毎日考え込んで
いるようで、見ていてもつらいわ」
「僕が、ストラティスと聡美を引き裂いたんです」
「え?」滋実は知らなかったようだ。
「そうなの? 前から聡美を知っていたの?」
「実はだいぶ前から。 ずっと会いたくて、ようやく出逢えた
と思ったら彼女にはストラティスがいてお腹には彼の子供が・・」
「貴方のやり方、とても横暴ね、人をおもちゃのように動して」
「・・・」
「あの子は、とても傷ついてるの。 子供とも離ればなれで」
滋実は、フォークを置いてしまった。
「・・・・」和彦は深々と頭をたれた。 ウエイトレスが滋実と和彦の
コーヒーを持ってくる。
「聡美は今でもストラティスのことが好きなんだと思うわ。
確かに音信不通が長かったから、子供を抱えてとても不安だったと思う。
そこに貴方が現れて惹かれてしまったのね」
「でも人の心は簡単に変えられるものじゃない」
「・・そうね。 私も主人も考えが甘かったのかもしれない。
もっと待つことを勧めてやるべきだったのかも。あの子、彼を待ち
きれなかった自分を許せないんだと思うわ。
美実がいた頃は見えなかったものが、今になってはっきりしてきた
んでしょう。身と心がちぎれるような思いね、きっと」
「もうしわけありません」和彦は再び頭を下げた。
「でも、ストラティスもあっちで新しい生活を始めたそうじゃない」
聡美の過ちを少し正当化するような口調で言った。 滋実は、その彼
の相手が誰であるのか知っているのだろうか。
「聡美にはそれもショックなのよ。自分だけに向けられていた彼の
愛情が他の女に注がれていることが信じられないの。
でももう元には戻れないわ。美実に会えないのは寂しいことだけ
ど・・あの子は、きっと父親の元にいたほうが幸せね」
「僕は、聡美を待ってもいいんでしょうか」
ポケットからタバコを出して火をつける。
自然にそうしてしまったので、思わず、「あ、いいですか?」と
滋実に訊き直した。
「和彦さん、いつの間にタバコを・・?」
「・・このところ、手持ちぶさたで」
「聡美は、いずれ貴方のところに戻るでしょう」
「・・どうして分かるんですか」
「あの子は、ああやってひとりで気持ちの整理をつけてるの。
昔からそうだった。 でもいつまでもウジウジしてる子じゃないから」
「でも・・彼女、ギリシャ語の勉強を必死でやってるみたいだし。
そのうち、飛んでいくんじゃないでしょうか、アテネへ」
「それは、どうかしら」滋実は、聡美の母親としていつでも彼女の
気持ちを掴んでいるつもりだった。
「考えてみて・・ねえ、聡美はこれから先も美実のことは忘れない
わよ。 そうでしょう、自分のお腹を痛めて生んだ子供な
んだから」
「ええ」 和彦は頷いた。
「その子がこれからギリシャで暮らしていくということは、日本語
を忘れてしまうことだからよ。 あの子はギリシャ語で生活していく
ことになるんでしょう。 いつか美実に再会したときに聡美が
話せなかったら困るじゃない。」
「・・なるほど」 和彦は感心して滋実の顔をみつめた。
「聡美は、きっと貴方のところへ戻ります」
「お腹の子を始末して僕と別れるつもりじゃないんでしょうか」
「聡美は簡単に命を粗末にできるような人間じゃないですよ」
「そうでしょうか」
「でも、あの子に一度に多くを期待しないであげてほしいの。
静かに待つことしか、聡美の気持ちを貴方に向かせる術は無い
と思うわ」
その頃、聡美は目黒のマンションに立ち寄っていた。
夜の飛行機でギリシャに渡ろうと思っていた。
和箪笥の引き出しからパスポートを取り出しそのまま出ていこうと
したが部屋の空気に違和感をおぼえる。
タバコの臭いの染みついたリビング。
テーブルの上の灰皿は吸い殻であふれ、和彦が座っていたと思われる
場所とテーブルの間に点々と灰がこぼれ落ちている。
脱衣場を覗くと、洗濯機の前には汚れた下着やYシャツが山のように積まれ
ていた。
どうやらタンスから毎日新しいシャツを出して着ていくだけだったよう
だ。 足りなくなって買い足したのか、Yシャツのビニールや厚紙が、タバコの
包みと一緒にくずかごに投げ込まれている。
灰皿の脇にねじってある白い薬の袋。 沖田メンタルクリニックの
ものだ。 「安定剤」と書かれている。 中のブリスターパックはすべて
カラだった。奥の寝室は布団が敷きっぱなしになっている。
「仕方ないわね」
シーツを剥がして衣類と一緒に放り込み洗濯機を回す。
布団を上げてベランダの手すりにかけて干す。
家中に掃除機を掛け、よく絞った雑巾で畳や床を拭き、洗面台を片づけ、
風呂磨きをし、食器洗いを済ませ、乾いた洗濯物を取り込んで引き出しに収めて・・・。
さて夕食・・と思わず冷蔵庫の扉に手をかける自分にきづく。
「・・早く出ないと」 時計が5時を回っている。
そんな事をしているうちに和彦が帰宅でもしたら。彼とかち合いたくない。
聡美は、期限の切れた食材を冷蔵庫から取り出し、ゴミ箱の中身といっしょに
大袋に空けて縁を結んだ。
「明日の朝、燃えるゴミを出してください。
夜には、洗濯物を取り込んでください。
しばらく旅に出ます。」
そう書き残して部屋を後にした。
(つづく)
(話の続きへ)
メニューへ