57.河の流れ
マンションから出てきた聡美。ちょうど向こうからタクシーがやって
くる。手を挙げて止めたつもりだった。 それに乗って空港へ急ごう
と思ったのだ。ところが開いた後部座席のドアから顔を出したのは弟の
康平だった。
「さあ、姉さん、早く乗って」
「え、どうして・・」
「いいから、早く」
凄い血相でせかすのでそのまま飛び乗った。
「どうしたの?」
「母さんが倒れたんだ」車は病院へと向かった。
滋実は、午後3時頃仕事場で倒れて救急車で大学病院の脳外科に
運ばれたらしい。 クリニックの金井から自宅に電話が入り、
その後晴彦から康平の銀行に連絡があったらしい。
「軽い脳梗塞だって・・・。 処置が早くてよかった」
「お母さん、このところ辛労がたたっていたのね。 私が
心配ばかりかけているから・・」
「姉貴・・その荷物・・」康平は聡美の足下の旅行鞄に目をやる。
「うん、ちょっとね・・」
夜の病院は静かだった。 5階に上がっていくエレベーターの
中で聡美は少し緊張した。 脳外科病棟の廊下を康平と、母の名前
を探しながら歩いていく。 菊谷滋実の名前を4人の患者の名前の
中にみつける。 ちょうど右手前のベッドのカーテンの中から父が
顔を覗かせる。
「お母さん・・・」 聡美は横たわる母に声を掛けた。
母は、すぐに聡美の顔をみつけてうっすらほほえみ、
「・・だい・・丈夫よ」と答えた。
康平も母の手を握りしめた。
「2〜3日で退院できるそうだ」と晴彦が告げる。
3人はしばらく滋実の様子をうかがうようにベッドの回りに座って
いた。 担当医が立ち寄り、既に晴彦に説明した病状を再び子供達に
話していった。 30分くらいしてから康平と晴彦は家に帰って
いったが、聡美は残ることにした。
「お母さん、心配ばかりかけてごめんね」
滋実は、首を横に振った。
「違うの・・聡美のせいじゃないの」母はしばらく何か思い起こす
ように天井をみつめていた。
「今日、来たわよ、和彦さん・・」
「え? じゃ彼が何か・・・」
「ストラティスと聡美を引き離したのは彼なんだってね」
そんなことを彼はわざわざ話しに・・。 聡美は憤慨した。
「お母さんね、聡美にあまかったかな・・って思ったの」
「・・・」
「ストラティスとの同棲も、和彦さんとの再婚も、貴女の思い
つくままにさせすぎたから・・何の歯止めも掛けてあげなくて」
「・・そんなこと・・」
「それからね、もう一人・・和彦さんが来る前に喫茶店で会ってた人
がいるのよ。 私に・・会いに来てくれたの・・」
「・・・・もう一人?」
「聡美・・誰にも言わないで」滋実は上体を少し上げて辺りを
見回した。
「お母さん・・無理しないで。大事にしなきゃ・・・」
滋実はうなずきながら目を閉じたが、再び天井をみつめて
て、少し目を潤ませ、
「私の娘が会いにきたの・・」と言った。
「・・え?」 聡美は耳を疑った。
「聡美・・今まで黙ってきてごめんね。 でも、今日は興奮を
抑えられなくて、ちょっとだけ話をさせてちょうだい」
聡美は予期せぬ事情にとまどいを感じたが、母の話に真剣に耳を
傾けようと椅子を引いた。
「お母さんの子供は私と康ちゃんだけじゃなかったの?」
点滴の針のついていない方の手で、滋実が聡美の手を握った。
「貴女には、普通のお嬢さんに育ってほしくて、お父さんも
お母さんも極力過去の事は隠してきたの。 でも、血筋なのか、
育て方を間違えたのか、こうして聡美も複雑な人生を送ること
になって・・」
しばらく黙っていろいろと考えていたが、
「私も、お父さんとは再婚なのよ・・」と言った。
「え?」
「前に結婚していて、娘が二人いたの。 貴女より4つ年上の・・
そう和彦さんと同じ年の子と、それより二つ下の子・・。 まだ下の
栞(しおり)が赤ちゃんの時に・・私・・家を出てしまった・・主人は
その後、自分のいとこと再婚して群馬の方に移り住んだらしいけど
私は消息を探らないようにしてきたの」
「その娘さんが今日・・お母さんに会いにきたのね・・」
母はこっくり頷いた。 そしてその後で
「両親と東京に住んでるんだって・・もう9年くらいになるって。
隣の板橋だなんて近いから驚いちゃったわ。でも、ショックだった、
上の娘がね、中学生のときに・・ 自殺しちゃったんだって・・・。
・・・しっかりしてたけど、たしかに繊細な子だった・・・」
と言って顔を布団で覆うと声を押し殺すように泣きだした。
10分くらいして、滋実は、真っ赤に泣きはらした目を抑えながら
「こんな事、話してごめんね、ホントにごめん・・」と何度も
謝った。 今まで全てに冷静で笑顔の絶えることがなかった母
だった。 少し驚いてはいたけれど、聡美には今の母を一人の
人間として、同じ女性として見つめることができそうに思えた。
「きっと深い事情があったんでしょう。でも、もう自分を
責めないで・・・今は安静にしなきゃ・・ね。 さ、もう
目を閉じましょう。」
そう言って毛布を整理する聡美の手を握って、滋実は言った。
「聡美・・。 ねえ、どこかへ行こうとしてたんでしょ、今夜」
「え?」
「・・だって、かばん・・」
「・・知ってたの? やだ。 お母さんには何でも見られちゃう」
「聡美・・。 お母さんね、基本的に貴女がすることには何でも
賛成。 どんな失敗も遠回りも含めて聡美の人生だと思ってる。
貴女は何でも分かってる子だから私が言うまでもないけれど、
今、聡美のお腹にいる子供・・・大事にしなさいね」
「うん・・」聡美は頷いた。 話題を自分に振られて、少し落ち着か
ない気持ちになる。
「なんだか顔色も良いみたいだし、3日後には退院できるって
先生も言ってくれてるから、私も・・・帰るわね」
母の枕元の時計が9時を回っていた。
病院の入り口でタクシーに乗り、実家へ戻っていく。
とりあへず暫く海外へ行くことは見合わせることにした。
(つづく)
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