8.悪夢 エーゲ海の島に、積み木のように軒を連ねる白亜の家。 あごひげを湛えたストラティスが微笑んでいる。 「石畳の道を歩いていくと、ストラティスと私のお店があるのね。   窓には赤い花があって、あなたは料理に腕を振るうの。  オリーブオイルやレモンの香りにつつまれて・・  私は、にこやかに料理を運ぶの。」 ストラティスが、大きくうなづく。 「いつか、きっとね、約束して」 聡美は手をのばして、小指と小指を絡めようとする。 「きっとね・・・きっとね・・・きっとね」 突然に、ストラティスの声が歪み、加工された音声のように不気味な低音になって 詰まる。 疾風が砂埃を巻き上げる。 その後、突如として大竜巻が現れて 彼の体が飲み込まれてしまう。 「待って!」 聡美も、そこへ飛び込もうと跳躍するが、大きな蔓のようなものが伸びてきて 足を掴まれ地面にたたきつけられてしまう。 這いつくばる聡美の体。 冷たい豪雨が叩いている。 辺り一面闇と化し、雨足は強まり、とどろく雷鳴。  雨は身を切るようにますます冷たくなっていく。  聡美のからだは硬直して動かない。 悲鳴をあげるが、そのまま固まって 表情も変えられない。 ようやく上げた手を何者かにがっちり掴まれ、握りつぶ されてしまう。辺りを覆う真っ赤な血の海。。その中を滑るようにして、下へ、谷底へと どこまでも、どこまでも・・・堕ちていく。 「ストラティス、寒い・・・助けて・・助けて・・」 「助けて・・」 「聡美、聡美、起きなさい」 目を開けると、母の滋実が覗き込んでいる。 「聡美、だいじょうぶ?」 「さ、寒いっ」 聡美はベッドの上に身を起こして、母の体に かじりついた。 暖かい肌の温もりが伝わる。 ゆっくりと、回りの 景色が鮮明になっていく。入れ替わりに、今、自分を支配していたものが 遠のいていった。 「聡美、部屋の温度を下げ過ぎよ」 枕元のリモコンは19度を表示している。 「・・いじっているうちに眠ってしまったみたい」 布団をズルズルと引き寄せて体を包む。 「降りてこない? 美味しいケーキを買ってきたから。 熱いお茶 でも飲んで体を温めたら?」 「うん、今いく・・」 「それにしても、すごい悲鳴あげてたね。 何の夢見ていたの?」 「・・・雨。 雨に叩かれていたの」 「そう・・・疲れているんだったら、早く休んでね」 聡美は、布団を頭まですっぽりかぶって、しばらく横になっていた。 肥田の道場を訪れた日の午後だ。 壁の時計が4時をさしている。 自分が以前使っていた部屋。 こうして見上げる天井の小さなポツポツ、好きなスターのポスターが 張られていた部分だけ色が綺麗な壁・・。 ベッド脇の机の引き出しが目にとまる。中身は、まだそのままなのだろ うか。 聡美はけだるそうに、腕を延ばして引き出しの一つを開けてみた。 指先を動かすと、ツルツルした表面に触れる。 ・・写真。 引き寄せて、被写体を確かめた。  「あ、やっぱり・・」 それは、大学時代の写真だった。 美恵子や遙香と初めて合コンに出席したときのものだ。 3年の秋頃、他の大学の男の子たちと飲みに行ったときのもの。 美恵子は、モデルの仕事を始めて、少しずつカタログにも載るよう になっていた。 服装もお洒落になり、表情は明るい。 この時、美恵子の横に並んでいる子とは、彼女は、3ヶ月ぐらい つきあっていたかな・・。 私は、そう、私は・・・。 遙香とは、誕生日や体格だけでなく、好きな俳優や男性の好みも 似ていた。 それで、お互いに好感を持った相手まで同じだったという わけだ。 大野隆士、彼も聡美に目をつけていた。 聡美は、始めのうちは、 他の男と話し込んでいて、大野は間に入る機会を逃していたのだ。 それに気づいた遙香が、大野の横に座る。 「聡美のことが好きならば、私が取り持ってあげる」 と言ったのはアプローチの口実だった。 そうして、二人の会話は弾んでいた。  遙香は、好きなタイプの男とつき合えるかもしれないと期待に胸を膨らませた。  やがて彼女のリクエストしたカラオケのイントロが流れる。  その滑らかな歌声に声援がどっと沸いて、遙香もすっかり上機嫌だった。  ところが、歌い終わって戻ろうとすると、自分の座席は、もう空いてはいな かった。そこに聡美が座っていて、遙香にきづいた隆士が、聡美に言った のだ。  「キューピッドの遙香さんですよ。 聡美さんと僕の間を取り持って  くれるそうです」 遙香は、笑っていたが、聡美と隆士が夢中で話している間に消えてしまった。 その隆士と聡美は、 大学を卒業するまで続いた。 美恵子も聡美もデートの約束が頻繁だったけれど、遙香は、誰かとつきあ っている様子は見せなかった。 聡美は、写真を元の場所へ戻して、居間へ降りていった。                 ☆ 赤ん坊が、まだまだ2〜3時間置きの授乳で、何かとキッチンの横は便利だ。 両親が寝室として使っていた1階の和室に今は、美実(みみ)と寝ている。  この数日の間に母乳の出が少し悪くなり、粉ミルクも足すようになった。  「美実ちゃんをギリシャになんて連れていったら、お爺ちゃんは 淋しいぞー」  父、晴彦は、1ヶ月の間にすっかり孫の虜になってしまった。  美実は、晴彦が足元から顔を覗かせると、ケラケラ笑う。 その表情は、ストラティスにそっくりだった。 以前なら、近所の目や世間体を気にしていた晴彦も、平気で美実を 胸に抱いて、サンダル履きのまま、表通りに出るようになっていた。 「赤ちゃんって、その家族にいろんな贈り物を持ってくるっていうけど、  本当ね」 母の滋実は、ほほえましそうに夫を眺めている。 「よかった、美実にもそんな使命があって」聡美も胸のつかえが ひとつ下りたような気がした。 さっき見た悪夢は、どこかへ吹き飛んでいた。 (つづく)
(話の続きへ)


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