40. 別れ 9月にビイと吉祥寺で落ち合った。 彼女は、ほとんど和彦と目を合わさず、始終うつむいている。 「彼は?」 「・・・・・」 思い出したくない、そんな表情だった。 「彼と会えたのか」 「ええ。 彼の実家を訪ねていって、彼女から送られてきた  生まれたばかりの子供の写真を見せたら、すっかり  上機嫌になったわ。 その後、観光案内と通訳をお願いしたら、  つき合ってくれて。 それでサントリーニに行って、イアの  崖のところで夕日を見ているときに、彼の背中を押した・・」 ・・自分も和彦も悪魔の手先と化している、いつの日か地獄へ落ちてしまう のではないだろうか、ビイは、目を伏せた。 「今魚住家の財産はすべて押さえられているから動かすことができない。  落ち着き次第、この口座に君が要求していたくらいの額の金が入る  予定だ・・。そこに多少の色をつけよう。」 「・・慰謝料だというの?」 「・・そうだ」 和彦は無表情でそう告げて彼名義の印鑑と通帳を手渡し、席を立った。 ふたりの間にそれ以上の会話はなかった。 和彦の冷たい態度は、とても辛かった。けれども、ひとまず 家族を救うことができる、今はその解放感があったのだ。 彼が出ていって2分くらい後にビイも喫茶店を出た。 ところが、皮肉なことに店を出たところで、友達に出くわして しまった。 彼女は、乳飲み子を抱え、その父親が本国へ送還されて しまった身でありながら、以前と変わらぬ笑顔で、一緒に食事をしないか と言う。 かつて彼女と楽しく語り合っていた自分がそこに無いことを 知る。 ビイは、耐えられなくなって、振りきるように走り出した。              ☆ 和彦は、不思議とそれほど大きな罪悪感を感じなかった。 父親を殺した女のために、父の所有していた土地や建物を売って しまう・・そんな矛盾が時々、彼を襲ってきたが、心の全てが ある一つの目的に向かって知らず知らずのうちに動きだし、 細かいことに悩んでいる暇を与えなかった。 心の奥に蜘蛛の巣を被って眠っていた香織の白骨死体を甦らせる ように、ひたすら彼女に会いたいと願っていた。  暇を見つけては、菊谷家の周辺をうろつき、彼女の様子をうかがって いた。 ときどき彼女や彼女の家族が赤ん坊を胸に抱いて出てくる。  和彦自身、右も左も分からない幼少期に回りの大人に大きく運命を 変えられてしまった人間だった。 なのに、自分もまた同じことをしていた。              ☆ ある日、和彦がマンションへ戻ると、消して出たはずの明かりが どの部屋にも灯っている。 台所に人の入った形跡を感じた。 辺り一面に細かい紙片が散らかっている。 そのひとつを拾い上げて驚いた。 香織の日記の切れ端だった。 風呂場の蛇口から水の出る音がしている。 ビイか・・・。  中を覗き込んで、彼は思わず悲鳴をあげた。 浴槽に張られた水が真っ赤に染まっている。 波打つ水の表面にビイの右腕が上下している。 彼女は、壁に背中をもたせかけて、目を閉じて座っていた。 恐る恐るちかづき触れてみた。 ・・脈がない。  「ビイ、しっかりしろ」  「死ぬな、死ぬなよ」  和彦は、彼女を担ぎ上げ、車に載せて病院へ急いだ。 彼女は間一髪で息を吹き返した。  翌朝、病院でビイが目を覚ました。 「・・和彦」 「なんで自殺なんて」 「・・私、生きてるんだ」 自分の死に損ないを悔いている。 「ねえ、訊いてもいい?」 「・・・・なに?」  「貴方は、彼女のつもりで私とつきあってきたの?」 和彦は暫く考えた。 彼女をこれ以上傷つけたくはないが、 もう嘘をつくのもいやだった。 「そうかもしれない」 そう答えた。 「・・・・」 ビイは黙って和彦をみつめた。 「いつまでも香織が心から離れなくて。何度も振り払おうとしたけれど  完全に忘れ去ることができなかった。 でも」 「・・・・」 「それができていたなら迷わず君に向かっていけたんだと思うよ」 「中途半端な事は言わないで」 涙が頬を伝い落ちる。 「僕がいつか君の幻を追う日も来るのかもしれないよ、ビイ」  本当にそう思った。 「分かったわ・・」 ビイはうなづいた。 「彼女を追うのね?」 「そうしたい」  「貴方の香織さんではなくても?」 「・・・そうだ」 和彦の決意は固かった。 「わかったわ。私は、どこか遠くへ行くけど」 ビイは、和彦に背を向けた。 「遠く?」 「心配しないで。 もう死ぬなんてこと、考えたりしないわ。  もう行って・・・」 「ああ」 和彦は、ビイを一瞥して頭を下げると病室を後にした。                ☆ 土曜の朝、車を走らせて、菊谷家の前まで来ていた。 彼女が門から出てきた。 高円寺の駅へ向かっている。 彼女は下りの快速に乗っていった。 彼女の行き先は、もしかしたら・・。 和彦は、中央自動車道を山梨方面へ向かって走りだした。 ラジオが、台風警報を告げていた。  風がだんだんと強くなっている。 (つづく)



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