34.たぐられし者
明けて96年。
1月7日は、小早川麗子の40歳の誕生日だった。
その日に宗一郎は、麗子と宗也を正式に籍に入れ、
三人は、名実ともに家族になった。
和彦は、母の形見になりそうな着物や帯の類を実家から持ち帰った。
前橋の家は、2月上旬に取り壊されることになった。
高崎校は3月に廃校になり、代わりに8月から調布校が開校する
ことになった。
麗子は、今まで鬱積したものを吐き出すように、魚住家や学院
を彼女の色に塗り替えていった。
和彦は苛立ちを覚えた。
かつて、「麗子や宗也のお目付役」と言って学院に加わった
姉花代も、麗子と連れだってパーティに出席し、成城の家にも
出入りするようになり、和彦は魚住家に於いて完全に浮いた存在に
なった。 宗也も4月に5年生になる。すっかり逞しくなり、
地元のサッカーチームで活躍している。 将来は、彼が
跡を継ぐのがふさわしいだろう。 「和彦を学院の後継者に」と
規律正しく育ててくれた母には申し訳ないが、もう新しい
生き方を見つけるべきだ、和彦は、思った。
そうして、10日の朝に、1月31日付けで辞める意を宗一郎に伝えた。
いつもならすれ違うだけの花代が、立ち止まって
「あの方とまだつき合ってるんでしょう」と言う。
「確かに初めて見たとき、貴方の趣味にそぐわないかもしれないと
思ったけれども、こんなに長くつき合うなんてねえ。
だったら、きちんと籍に入れて男としてけじめを付ける
のが筋なんじゃないのかしら」と静香のような口調で言うものだから、
思わず母に乗り移られているのではないかと、花代の顔をマジマジと
見てしまった。
「誰が本命なのかは知らないけれど、籍も入れられない
女に何年も気を持たせておくなんて残酷な事を
するものね」 そう言って去っていった。
☆
ビイは、平日に休みを取り、和彦のシステム手帳から写し取った住所を
頼りに、彼の前橋の実家を訪れた。
「あの人とあの人のお母さんの思い出が染み込んだ屋敷・・」
門を開けて中に入ると、主人を失い枝葉の伸びきった庭木が
雑草の中に立ち並んでいる。
広い敷地に立てられた平屋の木造家屋、離れの邸、
渡り廊下を歩く和彦の姿が目に浮かぶ。
川沿いを歩いていくと、向こうに学校の校舎が見える。 中学校だった。
門をくぐり、校舎の裏を歩いて体育館へと進んでいった。
中を覗いてみる。 和彦がここで竹刀を振っていたんだろうか。
「あのー、何か?」 後ろから呼び止められて振り向く。
「・・・・」
「どなたか探してらっしゃるんですか?」
「・・いいえ、知り合いがこちらの学校の卒業生なので、なんとなく」
「そうでしたか。 私はこちらの教頭の望月ともうします」
「勝手に入ってしまってすみません。あの勝手ついでにもし
ご迷惑でなかったら・・」
望月は、彼女を教頭室に案内した。
ビイは、76年に入学した生徒の写真があれば見せてほしいと頼んで
みた。
「当時、うちの運動部は県でも上位の成績でした。運動部の集合写真が
有ったと思います」
そう言って、 奥から古いアルバムを何冊か取り出してきた。
「76年に入学でしたら、翌年、2年生の頃に活躍していた
はずですね」
「あの、剣道部はありますか?」
アルバムを何冊か開いていくと、剣道部の県大会の写真が出てきた。
「あ、これです。この中にお知り合いの方がいらっしゃるでしょう」
望月の差し出した写真の中の少年達は、五分狩り頭で似たような顔をして
並んでいる。 その一つ一つを丹念に指でなぞっていくと、
・・・いた! 彼だった。 和彦だ。 今より顔が
小さくて締まっている・・・むっつり怒っているような表情をしている。
「ありがとうございます・・あのもう一つだけ。 体操部の写真を
見せていただけないでしょうか」
差し出されたアルバムには、跳馬や平均台で競う体操部員の
写真が並べられていた。
「あ、この年でしたか・・。この年は、剣道部も体操部も成績が
良かったと評判でした。 剣道では魚住という男子が、体操では、
糸川という女子が際だっていたようですよ」
「糸川・・・」 ページをめくりながら、どれが彼女だろうかと
眺めていった。
「あ・・・」その瞬間、ビイの顔が凍り付いた。
「そ、そんなはずが・・」 背筋が寒くなる。
一瞬にして、どれが和彦の初恋の相手であるのかが明らかになった。
☆
和彦の目に、宗一郎親子の姿はまぶしかった。
そして母のことを思うと辛かった。
ある日、泡粒のように立ち消えて、その痕跡さえ抹消されつつある母。
唯一静香の残したものといえば、和彦自身であるような気がした。
学院に於いても、魚住の家に於いても、何の力も存在感も無い自分・・。
なにも思い浮かばず、なにもふっきれないまま、眠れない夜が続いた。
買い物を思い立って池袋まで行き、帰りにサンシャイン通りを歩いて
いると、道沿いに武道具店をみつけた。
引き込まれるように入っていって、久しぶりに竹刀を手にしてみる。
・・また思い切り振ってみたいなあ。
「この辺で剣道のできるところは無いでしょうか」
店の主人に訊いてみる。
「道場ならたくさんありますよ、代々木とか吉祥寺とか・・」
何故か吉祥寺の道場を紹介してもらっていた。
「ここの肥田先生というのがとても良い方で・・」
「そうですか、近いうちに行ってみます」
和彦は、1月いっぱいで学院を辞めた。
暫くは仕事をせずに、自分自身をみつめながら、今後の身の振り方を
ゆっくり考えてみようと思った。 彼は、上京してからずっと恵比寿に
住んでいるが、物はあまり買わず、人と飲み歩くことの殆ど無い生活を
送ってきて、或る程度の蓄えがあった。
2月に入り、吉祥寺へ行き、道場長の肥田に会った。
「ほう、中学、高校と剣道部におられた」
「もう止めてから15年ちかくなりますから、体が動くかどうか・・」
「では、しばらくは、スケジュール表を見て、剣道の時間にいつでも
練習に来てください」
ある日、昼過ぎから出かけてみた。
着替えをしながら、見覚えのある人間に出くわす。
「あ、パパンドレウ」
「魚住さん、こんにちは。 意外なところで会いますね」
「何をしてるの?」
「私は、ここで合気道の師範をしてるんです」
和彦は、その日来ていた山口という男と手合わせをした。
「どうぞお手柔らかに」
きちんと一礼してから、相手の身支度を待つ。
二人は間合いをもって向かい合った。
その日は、相手に一本胴をとられた。
道場の入り口にパパンドレウが立っていた。
「魚住さん」
「あれ、昼食を取りに帰ったんじゃなかったの?」
「妻が家にいるので、食べに帰りました。 午後の練習があるので
また戻ったところです」
・・妻、結婚したのか。 パパンドレウに誘われ、近くの喫茶店で
コーヒーを飲むことになった。
「回りには妻だと言ってます。 実際にはまだ届けを出していません」
「・・どうして?」
パパンドレウの言葉を、ビイに対する自分の無責任な態度と重ねている。
「私は26のときにギリシャで結婚しました。ところが、1年後
妻に他に好きな男ができて・・。 ある夜帰宅すると、妻が
部屋に男を連れ込んでいたのです。 妻は恋人を選んで、離婚すること
になりましたが、ギリシャでは離婚するときに多額の金を払わなければ
なりません。それで正式に離婚できないんです。だから、今彼女とすぐに
結婚することができないんです」
和彦は憤慨した。 僕なら今すぐにでも彼女と結婚するよ、彼の心は
そう叫んでいた。 和彦自身が驚いている。 ビイには、
結婚しない、親になれない・・と言っている自分が、彼女だったら
すぐにでも籍に入れるのか・・と。
おかしな話だ。 ただ香織の面影があるというだけで、彼女のことを
よくは知らないのに。
「彼女、今妊娠してます。 4ヶ月です。 会社を辞めました」
和彦は、耳を疑った。 何かで頭を殴られたような衝撃だった。
こいつ・・よくも香織に・・・。 傍らに置いた竹刀でパパンドレウを
思い切り叩きのめしてやりたくなった。
「必ず決着をつけます。 そうして彼女を正式な妻にします。
彼女とお腹の子供を絶対に守ります」
パパンドレウは、口を真一文字に閉じて、拳を握りしめた。
その後彼が取り出した写真の彼女は、おどけた表情で笑っていた。
「絶対に彼女と結婚します」 パパンドレウが改めて宣言する。
和彦は、その“絶対に”を何か彼に対する挑戦のように感じていた。
☆
夜眠れなかった。
亡くなる数日前に触れた母の肩のぬくもり、
冷たくなって横たわった母の姿が頭から離れない。
瓦礫と化した前橋の邸を想像していた。
ふと正月明けの5日に新宿で見たものを思い出す。
新宿駅の南口改札から出てきた着物姿の女だ。 静香ぐらいの
年齢のように見えた。 甲州街道を横断してきて、和彦の目の前
を歩いていく。
その背中のお太鼓の絵柄に、母の言葉を思い出していた。
「御所車と秋草・・源氏物語を思わせるような帯だったの。
貴方のお父さんと結婚していたときに唯一買ってもらった
贈り物だったけど、置いてきてしまったわ」
その女は、暫く行った通り沿いのビルの中に入っていった。
エレベーターのドアが閉まった後、そこに立って頭上を見守って
いると、数字は5で停まる。 横の壁に目をやると、その階は、
「沖田メンタルクリニック」になっていた。
そんな事を2月の今になって思いだし思い切って出向いてみる。
セカンドバッグからサングラスを取り出して掛ける。
あの時の女は、受付に座っていた。
「あのカウンセリングを受けたいんです」
「保険証をお預かりします。 次回からは予約をお願いします」
女はにっこり微笑んだ。
やがて名前を呼ばれ、相談室に入る。
院長の沖田が机に向かって腰掛けていた。
「どうしましたか」
「夜眠れないんです」
「貴方の今気にかかることを、できる範囲でいいです、話して
くれますか」
「ええ・・」
和彦は、去年亡くなってしまった母のこと、中学生時代に自殺して
しまった香織のことを少し語った。医師は、事細かにそれをカルテに
書き取っていく。 その日は精神安定剤を貰い、次回を3日後に予約
して家に帰る。
毎回医師と顔を合わせるまでは、サングラスを掛けていたが、その黒いフィ
ルターを通して覗く受付の女が気にかかる。あの御所車に秋草の帯が自分と
母の過去に結びついているかもしれなかった。
ある日、ビルの向かいの喫茶店でコーヒーを飲みながら女が出てくるのを
のを待っていた。夕方仕事を終えた彼女が出てくる。女は、茶色のニットの
上下にクリーム色の柄物のスカーフを襟元に巻いていた。なにか若作りな感じ
で、娘の服でも借りてきたようにも見える。
南口の改札を抜けて、中央線のホームへおりていく。
彼女は高円寺でおりた。 駅前の商店街にあるスーパーに立ち寄り、
買い物をする。 袋を片手に下げて、彼女は住宅地に向かって
歩いていく。 3つ目の路地を左に折れてから50メートルくらい
行ったところに、その家はあった。 彼女が玄関のドアを閉めた後、
走り寄り、入り口の表札を見た。 見覚えのある姓だ。
その姓を母が何度か口にしたことがあった。 そして、去年10月
に宗一郎の口から聞かされたのと同じだった。
「菊谷」という。 「きくたに」と読ませているか、「きくや」と
よませているか分からないが、和彦の実の父親は、「きくや」という
のだそうだ。 ふと門の脇をみると、家族の名前が書かれている。
和彦は、その戸主の名前を見て驚いた。
確かに和彦の父親と同じ名前の人間が住んでいるのだ。
暫くそこに立っていた。 フェンスの内側にはゴールドクレストの
木が4本並んでいて、木と木の間から内側の様子を見ることが
できた。 暗い部屋の向こうに見える明かりの灯ったダイニング。
そこで食事をしている家族がある。 こちらに顔を向けて座っている
あの女とその左に見える中年男の横顔、そして若い男の背中だ。
時々、女が何か言うたびに、向かいの男の背中が揺れる。その
左脇の横顔からも笑い声が漏れている。 楽しそうな家族団らんの
風景だった。 もしあの横顔が自分の父親だとすれば・・・。
そう思うと、なにやら怒りがこみ上げてくる。
その数日後の週末に、再びそこへ行き、辺りをうろついていると、
通り沿いを見覚えのある男女が近づいてくるではないか。
なんとパパンドレウとあの彼女だった。 和彦は急いで、物陰に
隠れた。 二人は菊谷という家の前に来て立ち止まり、暫くして
そのドアの中へと消えていった。 和彦は驚いていた。 また、そこに
集まる人間達と自分の間に深い運命のようなものを感じた。
(つづく)
(話の続きへ)
メニューへ