35.息を潜めて 打ち込みの途中で、外に目をやると、 その竹刀の先にパパンドレウが歩いていた。 門の方から人に呼び止められて彼は急に立ち止まる。 後を追ってきたのは、あの彼女だった。 その声は、彼を パパンドレウとは呼ばなかった。 その時初めて、それが彼の姓で、別に名前があることを知った。  彼女は、彼に何か伝え終わると小さく手を振ってまた出ていった。 別れ際に彼女のお腹にそっと触れるパパンドレウ。 和彦は、2日前に戸籍謄本を取り寄せていた。 やはり彼は養子という形で魚住宗一郎の籍に入っている。 そして実の父親の名前は、あの表札と同じだった。 実父の本籍は、東京都武蔵野市になっているが、今現在 その地区の電話帳に同姓同名は見あたらない。 同じ沿線の高円寺に移り住んだとすれば、やはりあれが 和彦の父親なのではないだろうか。 とすれば、目の前に今まで いた彼女は、 ・・異母兄弟ということになる。 ☆ ビイは、友達に会いたくなかった。 彼女のお腹の子が回りに祝福されながらもうすぐ生まれてくる。  ほぼ同時期にビイのお腹に宿った子はもうどこにもいない。 それともう一つ。 和彦の初恋の人に彼女がとてもよく似ていることが分かったからだ。 もう既に彼も何度か彼女を見かけているに違いない。 去年バレエの発表会で顔色一つ変えなかったのは、たぶん、それ以前 に彼女の顔を知っていたからだ。話をしたこともあるかもしれない。 彼女の友達が自分だからなのか、パパンドレウに気遣っているのか、 今の距離を狭めることができなかったに違いない。 彼女と自分の間には、学生時代と同じ運命がつきまとっていた。 ビイは、箪笥の奥にある彼女とお揃いの洋服を取り出した。 学生時代に一緒に買った傘もそこへ置いた。 部屋鍵に付いている ウサギのキーホルダーも外すと、一式まとめてゴミ袋に押し込んで しまった。 暫く和彦にも会わなかった。 3月の末にビイは上司の勧めで見合いをした。 島崎忠久。 商社につとめる2つ年上の男性。 真面目で優しそうな人だった。 その夜上司の奥さんからの電話で、先方が彼女のことを とても気に入っているが、彼女はどうかと尋ねてきた。 その場で、「おつきあいさせてもらいます」と答えてしまった。 次の日曜日に島崎がビイのアパートまで車で迎えに来る。 「お待たせしてすみません」 確かに約束の11時を10分ほど 回っていたが、彼は深々と頭を下げて彼女にわびた。 それから助手席のドアを開け彼女が腰掛けたのを見届けてから ドアを閉めて、運転席に座った。 「どこへ行きましょうか」「次は何を見ましょうか」 「何を食べましょうか」と、全てが彼女のペースだった。 それから2週間後、3回目のデートで映画を見て食事をし、 彼女を送る車の中で島崎がビイの手を握ってきた。 それに彼女も応えたが、心がついていかない。 むしろ、 「和彦を忘れたい」という念願のようなものを 込めて握り返したのかもしれない。  「貴方の部屋に寄ってもいいですか?」と島崎が言う。 ためらいがちに「・・ええ」というと、島崎は車のスピードを 心なしか上げていた。 ビイのアパートから3丁ほど手前に 来たときに、彼女は、駅へ向かって歩いていく和彦の姿を目にした。 サイドミラーの中で小さくなっていく彼の背中・・。 その瞬間心の中から熱いものがこみあげてきて、横にいる男の 存在はすっかり色褪せてしまった。  彼女のアパートの前に車が止まる。 ビイはさっさと降りて、 「申し訳ないんですけど、ちょっと頭痛がするので今日はこれで」 と言ってドアを閉めてしまった。 残念そうに、うっすら笑みを浮かべて島崎は車を出した。 ビイは、和彦の後ろを駆けていった。 その背中を目の前にしたとき、「和彦!」と大声で呼んでいた。 驚いて振り向く彼の胸にいきなり飛び込んで、 「和彦、もう遅いよ。私、貴方から離れることができない」と すがりつくように訴えた。 「・・どこかへ行っていたの?」 「離れない、貴方の跡をいつも追っていくから」 泣きじゃくりながら、その胸を何度も叩いていた。 (つづく)



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