30. 縦の糸、横の糸 95年9月。 その晩は、着物姿で帰宅した。 着替えもせずに夕食を取り、机に向かっていると、背中にビイの 視線を感じた。 「ふうん。 何て読むの?」 参考資料に覆われた文机の上で、湯飲みの置き場に困ったビイ の手が“8”を描いた。 「あ、これは、“からおり”って読むんだよ。 桃山時代に、  中国の明(みん)から渡来した舶来品は、すべて“唐物(からもの)”  と呼ばれていたんだ」  彼女の手から湯飲みを受け取る。 「唐織は、中国の織物・・」 「・・由来は、そうなんだ」  和彦は、桐箪笥の引き出しを開け、帯を一枚取り出した。 その一瞬の所作がとても優雅で、ビイは、思わず見惚れてしまった。 「ほら、見てごらん」 真剣なまなざしで帯を見つめながら、 「美しいだろう」 それを開いて、ビイのほうへ差し出した。 「・・綺麗な模様ね」 彼女は、手にとってみた。 「すごいわ、桃山時代につくられたのね、保存状態がいいわね」 ビイは、感心して帯を眺めている。 和彦は、とつぜん、腹を抱えて笑い出した。 「ビイ、ち、違うよ」  「だって、桃山時代に渡来した帯なんでしょ?」  和彦は、畳に転がっていた。 目に涙まで浮かべて、大受けしている。 「ビイ、桃山時代の舶来品なら、タンスの肥やしになんてなってないよ。   本物は、博物館に所蔵されているんだ」 「あ、そうなの?」 やっだー、とでも言いたげに彼の背中を叩く。 「唐織は、昔の能装束に織り込まれていたんだ。 今では、  打ち掛けや袋帯として親しまれている・・」 「・・打ち掛け・・。 花嫁さんの・・」 彼女の最後の言葉は、和彦の心には響かなかった。 「普通、表にびっしり刺繍を施した場合、裏を返すと、同じくらい糸  が盛り上がっている。 唐織りは、この糸の渡りが多くて  重かったんだ・・。 でも、今のは、模様ごとに綺麗に縫い分ける  ことで無駄をなくしている。 とても軽いんだ」 ビイは、帯を少し上下に揺らしてみた。 「あ・・。 なんか講義をしてしまったね」 和彦は、頭を掻いた。 「この帯は、どうしてここに?」  「あ、うちの母が、置いていったものだよ。 早く僕に  着物の似合う嫁さんが来るようにって、まじない代わりに  置いていったんだ。 着物と帯と、帯揚げ、帯締めと・・」 「・・・・」  「さ、しまおうか・・」 和彦は、彼女から帯を受け取り畳み始める。  「先生・・その着物、私に着せてもらえないかしら」ビイが言った。 そんな言葉が返ってくるような気がしていた。 黙っていると、 「ちょっとだけ・・ね?」と、胸の前で小さく手を合わせる。 しかたないなあ・・。和彦は、ため息をついた。  長襦袢を着せながら、着物に目をやる。・・あの子に着せたら、どんな だろうかと想像していた。 着物を着せるときも、・・これに、 最初に手を通してもらいたかったのは・・と彼女を思い浮かべた。 折り目ひとつない帯の手を二つ折りにして、手先を左の肩にかける。 ビイは鏡に映る和彦の表情、帯結びの手さばきを、惚れ惚れしながら 見ていた。 着付けが終わった後、ビイを姿見の前に連れていく。 彼女は、目を輝かせて、自分の着物姿に見入っている。 背中のお太鼓も映してうっとりと眺めた。  「先生、私にも、着付けを教えて・・。お月謝、払うから」 「月謝なんていらないよ。 やる気があるなら、教えてあげる」 その後、脱がせた着物を衣桁(いこう)に掛けて、壁に吊した。  「着物っていいだろう」  そう言って振り返った瞬間、 襦袢を着けたビイの白いうなじが目に留まる。 おくれ髪を耳に掛けるしぐさが、なんだか眩しくて、思わず抱き寄せ ていた。 自然に胸元へと手が伸びる。  光沢のある柔らかな素材の上で、手がスルスルとよく滑る。 懐に右手を忍ばせて、乳房を手のひらで包みこむと、 ビイの口から息が漏れた。 互いの和服姿に、なにか想像を掻きたて られて、つい興奮してしてしまった。 「先生、原稿を仕上げないと・・」 そう言いながら唇を求めてくる。 「分かってる。 分かってるけど・・」言葉と裏腹に唇が吸い付いていく。 押入を開け、ずるずると引きずり下ろすように布団を敷いていた。 ビイをそこに押し倒し、腰のひもをスルスルとほどく。  その衣擦れの音に言いようのない快感をおぼえて、心がおもむくがままに 彼女を抱いた。  体をくねらせる彼女の口から喘ぎ声が漏れる。 胸が上下にうねる度に体中に鳥肌が立つのを初めて見た。 (つづく)



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