31.葬られし者
母親とろくに会話もせずに、1年が過ぎた。
10月に入ったある日、電話を取ると、母の家政婦、野田節子からだった。
「奥様のお体の調子がよろしくないんです」
「どんな容態なんでしょう」
「血圧が異常に高いようです」
「医者には・・?」
「お仕事がお忙しいからそのうち行くとおっしゃって・・」
「行ってないんですね」
「ええ、和彦さんの方から説得されたほうが・・」
「わかりました。ご親切にどうも・・」
日曜日に前橋に行くと、母は、自分の部屋で縫い物をしていた。
眼鏡を鼻まで落として、
「めずらしいわね。 どうかしたの?」と言う。
「・・体の調子が優れないって、野田さんから聞いたから」
「あら・・心配無いのに」
実際に、顔色は優れず、目が奥まって見えた。
母は、だいぶやつれていた。
「縫い物などせずに、休日ぐらい横になったらどうですか?」
静香が根を詰める質なのをよく知っている。
「そうなんだけど、この留め袖を、早く仕上げないと。竜次郎さんの
ところの楓さんが、今月の末に着たいんですって」
そう言って、あまり表情も変えずに、作業に戻った。
ときどき、肩を拳でコツコツと叩いている。
和彦は、静香の後ろに座り、肩を揉み始めた。 思いがけない息子の
気遣いに、目をぱちくりさせている。
「気は急くのだけれど。 やっぱり年には、かなわないわね」
ぽつりとこぼした。
染めている髪の生え際が白かった。
肉の落ちた細くて固い肩に触れていると、胸がいたくなる。
「体を大事にしてくださいね」 そう言うと、
「ありがとう」と小声で答えた。 語尾がかすれていた。
その日は、2時間ほど、母のそばにいたが、本のことが気になり、
「また来ます」と言って、東京に戻った。
母の誕生日、10月10日の翌朝に野田からまた電話を受ける。
「た、大変です・・奥様が亡くなられてます」という彼女の
言葉に耳を疑った。
「え? 今なんて言ったの?」
「奥様が・・お、お風呂場で・・・。 ど、どうしたら」
「何かの間違いじゃ・・・」
和彦は、取るものもとりあえず、急いで車を走らせた。
信じられない。 母が死ぬわけがない。 考えも及ばなかった。
市内に入ってから実家までの道のりがいつもより長かった。
玄関の引き戸を開ける。野田が顔をこわばらせて、廊下に立っていた。
「さっき、警察が帰っていったところです」
「・・・・」
「脳溢血だったようです。ゆうべの10時頃だそうです」
静香の寝室のドアを開ける。
「母さん」思わず呼んでしまった。
言葉は返ってこなかった。
布団が膨らんでいる。 母がそこに眠っているんだろう。
そばによると、白い布が顔に掛けられている。
ひざまずいて、怖々その布を取ってみた。
顔が真っ白で唇には血の気がない。
頬に触れると、氷のように冷たかった。
「う、嘘だ・・・!」
和彦の声は悲鳴に近かった。
「お母さん・・お母さん、どうして!」
母の枕元に泣き崩れた。
「どうして、こんな事になってしまったんだよお」
その後は、何が何だか分からなかった。
今何時なのか、どれくらいの時間が経過したのかも
定かでなかった。 とにかく母が死んだ実感がなくて、
夢を見ているようだった。
葬儀屋と祭壇や棺の打ち合わせをする宗一郎の声が聞こえてくる。
親族がちらほら集まり始める。
目にうっすらと涙をうかべる者、葬式慣れして町内会の集まりのように
おしゃべりに耽る者、家の中を歩き回る者・・・・。
馴染める顔は一つも無く、誰の言葉も嫌みに感じられた。
2日後の通夜も、その翌日の告別式も雨だった。
とても辛く長い時間だった。
思わず、横を向いて「疲れたね、母さん」と言いそうになる。
いつもなら、全ての行事を取り仕切り、忙しそうに走り回る静香の
姿はどこにも見あたらなかった。
☆
10月25日。 ビイは、仕事を休んだ。
先月、生理がなかった。 毎月20日前後に来るはずなのに、今月も兆しが
ない。 駅の反対側にある婦人科を訪ねた。
「・・おめでたですね。 今3ヶ月ですよ。」医師がにっこり微笑む。
彼女のカルテに、さっき超音波で覗いた胎児の静止画像が張り付けて
ある。目をそむけ気味にしていると、医師が、細かい話を止めて、
「生めない場合は、できるだけ3ヶ月までに」と言った。
☆
和彦は、鬱ぎこんでいた。
思い切って、仕事を休み、母のいない実家を訪れる。
部屋は、そのままになっていた。
玄関の戸が開く音がして、誰かが入ってくる。
「あ、やっぱり来ていらしたんですか」
家政婦をしていた野田だった。
「お庭でお車を見かけたから・・・」
「・・・・」
「お母様、お誕生日に亡くなったんですね」
「・・ええ」
23歳頃までは、誕生日に母と食事やコンサートに行ったものだった。
その後もプレゼントや花は欠かさなかったが、今年に限って何も
送らなかった事が、悔やまれる。
「こんな事を言って事を荒立てるのもイヤなんですけれど、
毎日気になって仕方がないので、お耳に入れておきたくて・・」
「・・なんですか?」
野田は、玄関を覗きに行って、誰もいないことを確かめて、内側から鍵
をかけてしまった。
「実は・・10日の夜、旦那様が見えたんです」
「父がですか?」
野田がうなづく。
「私は、一度家に帰ったんですけど、こちらへ9時頃戻ってきたんです。
誕生日プレゼントの帯締めを渡し忘れてたものですから。
そうしたら、居間のほうで言い争う声がして・・」
「・・言い争い」
「離婚するとかしないとか・・。 宗也さんに跡を継がせるとかどうとか」
「母は、どんな様子でしたか?」
「絶対に離婚はしないと。 宗也さんのことは認知してもいいけれど、
離婚届にだけは判は押さないって、言ってました」
母さん、その後、何があったんだ・・。
「それと・・」 野田の話は続いた。
「奥様の亡くなった時間に、旦那様がこの家にいたような気がして」
「どういうこと・・ですか?」
「それまでサイドボードにナポレオンなんて無かったんですよ」
「ナポレオン?」
「奥様は、ビールか日本酒で晩酌・・。洋酒は召し上がらないですよね」
「父がよく好んで飲んでますね・・」
「それが、翌朝来たときにサイドボードの中に有ったんです。
少なくともグラス2杯分は空いてましたよ、あれは。
そんなに飲んだ後、すぐに運転して帰りますか、普通」
野田は、くびをかしげた。
和彦は、母が利用していた酒店へ行ってみた。
「ああ、あの日は、奥さんから注文の電話をいただきました。
誕生日のお祝いに旦那さんが戻られるとかで。 夜7時半頃、
最後の配達で、うちの息子がお届けに上がりましたよ」
「父が誕生日を祝いに来るって言ったんですね?」
「・・・ええ。 でもまさかその晩に亡くなられるなんて。
旦那さんは、そばにいなかったんですか?」
父が母を見殺しにしたのかもしれない。
目の前で死にかけている母を、助けもせずに眺めていた・・。
晴れて麗子や宗也と家族になるため、母に交渉に来たが断られた。
だとしても、絶対に許すわけにはいかない!
和彦は、その足で東京の学院へ向かった。父の姿は、重役室にあった。
和彦は、宗一郎の顔面をいきなり殴りつけた。
勢い余って、腰から崩れ落ちる宗一郎。
「この野郎、人を見殺しにしておいて、よくもこんなところで
礼儀作法なんて教えていていられるものだな! 古狸め!」
「な、なんのことだ・・」
「お前は、麗子や宗也可愛さに、母を見殺しにしたんだろう・・。
今度は、僕がお前を殺す」 和彦は宗一郎の首に手をかけた。
「は、放してくれ」 和彦はその手に力を込めて締め付けた。
「は、放せ・・・」
「お前が母の人生をめちゃくちゃにしたんだ・・」
「違う・・ううっ」 宗一郎は、目を白黒させた。
ドアのノックを耳にして、和彦は手をゆるめた。
もう一歩のところで彼の息の根を止めていた。
麗子が覗き込んだ。
「貴方、どうかしましたか?」
激しく咳き込む宗一郎、殺気だった目をして立っている和彦。
麗子は、ただならぬ空気を感じた。
「い、いや、大丈夫だ。お前はあっちへ行っていなさい」
「・・・・」
「今、行くから」
「はい」
麗子は、不安げにドアを閉めた。
父は助けを求めなかった。
「私は、あの晩、9時半には、家を出たんだ」
「死人に口なし・・ですか?」 和彦は彼を鼻で笑った。
宗一郎が、真剣な眼差しで和彦を見上げている。
はじめて、まともに目と目を合わせたような気がした。
「ナポレオンをグラス2杯も空けて、すぐに車を運転するか?」
「信じてくれ。 お前も唯一血の通った母を失って、さぞ気が動転して
いることだろう」
「お悔やみの言葉なんてお前からは聞きたくもないんだよ!」
そんな凄みを利かせた表情を、和彦は、今まで見せたことがなかった。
「僕は、貴方を告訴するつもりです。 よろしいですね」
今度は極端に声のトーンを下げて言った。
「どう話したら、分かってもらえるのか・・」
宗一郎は、机に向かって腰掛けると、頭を抱えてしまった。
ため息が一つ漏れた。
「信じてくれないか。 あの日は、静香に会いに前橋に行ったわけ
じゃないんだ。 車を運転していたのも私ではない。
事務理事の風間君だよ・・。 グラス2杯コニャックを空けたのも、
1杯は、私で、もう1杯は静香だった」
「嘘だ、母は洋酒は飲まない」
「いや、飲むこともあるんだよ、本当だ・・」 宗一郎が笑った。
「お前の父親は、東京に住んでいるが、会ったことはあるか?」
急に違う話題を切り出した。 実の父親のことは、あまり耳にした
ことがない。
「静香が、前の結婚から逃げたのは・・」
和彦が首を横に振る。「母が逃げたんじゃない。 蒸発されたんですよ」
「イヤ、逃げたんだ」今度は、宗一郎が否定した。
「お前の父親が、お前がまだ赤ん坊の頃から虐待していたんだ。
それが耐えられなくなって、静香はお前を連れて飛び出したんだ」
「・・・嘘だ!」
「本当のことだ」 宗一郎は、真剣な面もちできっぱり言った。
「・・・・」
「お前が2歳のときに、私は静香に惚れて毎晩、店に通い詰めた。
他の愛人とは違い、繊細で心遣いが細やかで、いい女だった。
それで、1年後に籍を入れんだ。 お前のことも、私は懐いてもらおう
と思って、散歩に連れていったり、玩具を買いにいったりしたんだ」
しみじみと振り返りながら、微笑んだ。
「ところが静香は、何かというと東京へ出るようになって。
ある日、付けてみるとお前の父親の様子を見に行っていたんだ」
「嘘だ・・・。母に全てをなすりつける気か」 和彦は拳をふるわせた。
「静香はお前を連れて飛び出したものの、本当は戻る気でいたんだ。
お前の父親は、1年後には、もう別の女と暮らしていた。
静香は、私と再婚した後も、時折その様子をうかがいに行っていたんだ。
裏切られていたのは、私なんだよ」
「・・・そんな話」
「・・・・」 宗一郎は、目に涙をうかべて、両手で顔を覆って
しまった。
子供の頃から、宗一郎を悪者にして、生きてきたのに、拍子抜けして
しまった。 母に問いただすこともできない。
何が真実なのかは、分からなかった。
(つづく)
(話の続きへ)
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