37.波紋
風薫る5月になる。
ビイに結婚を匂わせておきながら、
何も話を進めていない。
それどころか、パパンドレウの彼女が自分の妹でないと
分かってから、気持ちがそわそわしていた。
ビイからも殆ど音沙汰が無くなっている。
こちらからたまに電話するが、いつも留守だった。
☆
ある晩、仕事帰りの笹峰マツが和彦のところにやってきた。
「先日は、結婚式に出席していただいてありがとうございました。
遅れて申し訳ないんですけど、息子夫婦の新婚旅行のお土産なんです」
そう言って、包みをいくつか取り出した。
「あの子たちスペインに行ったんですよ。 それでオリーブオイルと
ビネガーを入れる陶器のセット・・それからチョコレートなんです
けど、つまらないもので、返っておじゃまかもしれないけれど」
「いいえ、男所帯で何もないものですから、嬉しいです。さっそく」
開けてみると、薄紫の地色に茶の手描き模様をあしらったポットが二つ
入っている。 指で摘むほどの小さな蓋がついている。 それらを
載せる8の字の形をした同じ素材のトレーもついている。 殺風景な
キッチンテーブルの真ん中に置いてみた。
そうだ、魚住家を古くから知るマツのことだ、何か知っているかも
しれない。
「マツ先生は、ご存じですか? 僕が宗一郎の実の子だってこと・・」
「・・え? どなたにうかがったの?」 そう言って茶を一口すする。
「母の別れた前の夫に、会ってきたんです」
「それは、よかったわね、若先生」 にっこり笑った。
「静香さんが、高崎に嫁いで暫くたってから、菊谷さんが学院長に
会いにきたことがあったんですって・・」
「父に・・ですか?」
「おかしいのよ、菊谷さんが、学院長に向かって“和彦をよろしく
お願いします”って頭を下げたっていうんだから」 急に言葉を崩した。
「・・父は、何と?」
「“当たり前だ、私の子供なんだから”って言ったとか・・」
「父が・・ですか?」
マツはくすくす笑いながら、目を伏せて二、三度頷いた。
一瞬、和彦は胸の辺りにくすぐったい物を感じた。
「静香さんが本当に思いを寄せていたのは、菊谷さんだったようね。
でも、貴方が学院長の子供だから、高崎にとどまったんでしょう。
学院長だって、婚約当初は、静香さんを大事にしてたのよ。
でも静香さんがたまに東京へ出向いていくのを見て、“密かに会ってる
んじゃないか”“縒りを戻すんじゃないか”と気をもんだんでしょうね。
プライドが許さなかったんじゃない? それで、貴方のことまで
“菊谷の子だ”って言ったのよ、きっと」
「でも、籍を入れるときに、僕を養子として・・・」
「静香さんも困ったことでしょうね。菊谷さんからも学院長からも
貴方を見放されて・・。 それで、結局は、学院を選んだ・・。
貴方にとっても、彼女にとっても、将来良いと思ったんでしょう。
だから、学院に全てを賭けるように全力を傾けていたものね」
「・・・・」
「私、思うんだけど、静香さんにはその後子供ができなかったんじゃ
なくて、作らなかったんじゃないのかしら。 たぶん、そうなんだと
思うのよ。 でも、結果的には、あと一人でも魚住の子を生んで
いたほうが貴方たちのためだったかもしれないわね。 だから、
あの時・・小早川麗子と初めて対面して動揺していた静香さんに
私、耳打ちしたのよ。 これは、貴女が選んだことの結果なんだって。
でも、貴女が築いてきたこともあるから、それには誇りを持ちな
さい・・ってね」
温かいまなざしで和彦を見つめるマツ。
「貴方は、悔いやわだかまりを残さない幸せな結婚をしなきゃね」
「それには、気持ちに素直でいなきゃ・・・ね?」
ニッコリ笑って、帰っていった。
☆
ビイは疲れた体をひきずりながら帰宅する。
だいぶ酒も入っていた。 毎日のように母親や債権者からの電話が
鳴るのだ。 億単位の莫大な借金をどう支払えばいいのか分からない。
既に、回りに内緒で以前働いていたソープに勤めている。
教材会社は辞めてしまった・・というより、辞職するように会社の
ほうから要求があったのだ。 和彦が「結婚しようか」と言ったとき
の表情がいつも頭をよぎる。 それが辛くて、酒を浴びるほど飲んで
いた。
「なんだかお父さんと同じになっていくようだわ。 どうして私が
こんなにボロボロにならなきゃならないのかしら・・・私が、私が
いったい何をしたっていうのよー」
ベッドに顔を埋めて大声で泣いた。
「くそー、意地だって幸せになってやる、負けない」
拳で布団を何度も叩いた。
☆
和彦が道場を出ると、そこにパパンドレウがいた。
めずらしく夕方の稽古に来ていたのだった。
「魚住さん、うちで夕食を食べませんか」
「・・え?」 彼女が家で待っているのだろうか。胸がどきどきした。
ところが期待は裏切られる。
「うちのカミさん・・・今朝喧嘩して実家に帰っちゃいました」
やれやれ、妻のつぎはカミさんか。
「いいけど・・」
「じゃ、行きましょう」 そう言って和彦の先をどんどん歩いていく。
サンロードを駅に向かって進み、右側にある三浦屋に入っていった。
買い物カゴを腕に下げ、「何を食べましょうか。 何が好きですか?」
という。 「なんでも・・」 そう答えていた。
「じゃ、まずサラダを・・」そう言って和彦の嫌いなキュウリを手にする。
思わずそれを取って元の場所に戻してしまった。
「魚住さん、好き嫌いはいけないですよ」
・・大きなお世話だ。
バスに乗り、3つ目の停留所で降りる。 アパートの部屋のドアを
開けると中は暗かった。 ラベンダーの香りがする。
明かりがつくと、下駄箱の上の皿の中にポプリが入っていた。
狭い4畳半ほどの台所を埋めるようなキッチンテーブル・・。
よく見ると、ところどころ塗装の剥げたスチールの収納棚が四隅に
置かれていて、4本の脚の代わりをしていた。
テーブルの真ん中には、それらをうち消すように綺麗な花が生けられて
いる。 綺麗に洗った空き瓶にペイントを施した花瓶だった。
右手に3畳の部屋があり、そこを殆ど通路のようにして奥の6畳に
入る。 元々、彼ひとりで住むつもりで探した物件だから狭かったが、
物がひしめきあっている様子も無かった。 さっぱりした性格の人
なのかなあ。 和彦は、想像をめぐらした。
6畳の部屋に座り、窓に目をやると、水玉模様の水色のカーテンが
かかっている。 ふと8年くらい前のあの雨の日の映像が脳裏から
甦る。
「このカーテンは、最近丸井でみつけたんです。 前に使っていた
のは、洗濯して子供のズボンを縫うそうです」
「へえ、結構しっかり者なんだね」
「ビデオ、見ますか?」 そう言ってパパンドレウがセットしたビデオ
は、彼女の実家で写されたものだった。 顔見知りの彼女の母親と父親が
映っている。 背中だけしか見たことのない、彼女の弟らしき人物も
いる。 楽しそうに食卓を囲んでいる。 彼女が何か口に運んでいる
シーンでズームアップしている。 レンズいっぱいに広がる彼女の
手のひら。 カメラを手にしているのはパパンドレウなのだろう。
一人分空いている席の醤油皿に、彼女の弟が思いっきりワサビを絞り
出すと、「やめてください」というパパンドレウの声がした。
「夕飯の用意をしてきます、ビデオを見て待っていてください」
パパンドレウは台所へ消えた。
こんな映像があとどれくらい入っているのだろうか・・。
それにしても香織がいるみたいだ・・。 彼女がとても眩しかった。
突然信じられない映像が目の前に映し出される。
これを彼女は知っているのだろうか・・隠し撮りだろうか・・。
裸の男女が抱き合っているシーンだ。
時々男の肩から覗くその顔は、確かに彼女だ・・。
一瞬目を覆いたくなったが、しっかり目を凝らして見てしまった。
その後、しっかり全裸まで見てしまった。
しばらくそんな映像が流れて、また前の実家の風景に戻った。
空いたビデオがなくて、とりあえず間に合わせにそこに被せた・・
という感じだったが、他の男に自分の彼女の裸を見せてしまうなんて
なんという馬鹿な男だろう。
嫉妬と怒りと興奮の混ざった複雑な心理状態だった。
それからパパンドレウが台所から料理を運んできて、
「これは、パプツァキというナス料理で中に挽肉が入ってます」
「これは、カラマラキア・・イカリングですね」
と料理の説明をしていたが、全く頭に入らなかった。
確かに味は絶品だった。 だが、目の前にいる男を殴りたい気持ちで
いっぱいになり、始終こぶしに力が入ってしまう。 食べ物が喉を
すんなり通っていかないので、グラスに注がれた酒で流しこんでしまった。
喉が焼け付くようだった。
「ウゾだったのか?」
「魚住さん、凄い、酒豪ですね」
「ウゾー(嘘ー)」やけくそになって、そんな駄洒落まで出てしまった。
料理をつまみながら、チビチビ酒を飲んでいるうちに、すっかり酔って
しまった。
「女ってどうしてこう我が儘なんでしょうね」
とパパンドレウがこぼす。
「なにをー。 そんなにいやなら別れろー」そんなことを叫んでいた
ような気がするが、その後の記憶が途切れてしまった。
翌朝、目覚めると、自分の部屋にしっかり布団を敷いて寝ていた。
今まで見たどの悪夢よりもうなされるような一夜だった。
翌週、吉祥寺の駅前で連れだって歩くパパンドレウと彼女を見かけた。
何も無かったかのように笑顔で見つめ合う二人。
和彦の目の前をあのビデオの映像がちらついていた。
(つづく)
(話の続きへ)
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