1.運命
ストラティスに出会ったのは、新宿の旅行代理店に勤めて4年目の春だった。
最初はなにげなく店に立ち寄り、海外ツアーのパンフレットをめくっているだけ
だった。
が、いつのまにかその目線が聡美を追うようになっていく。彼女の接客や電話の
応対を見守りながら、ときおり目が合うとにっこり微笑むのだ。
出て行った後もしばらく心に残るような穏やかな笑顔だった。
1ヶ月後、実際に彼の航空券を手配することになった。
「さとみさんですか?」 胸の名札を読んだのが第一声だ。
「・・はい」
3日後にアテネに向かうとのこと、とにかく安くあげたいというので、P航空の
3ヶ月オープンの往復航空券を用意した。
一瞬、もうこの人が立ち寄ることはないのだろうかと少し淋しさを覚える。
それが伝わったのか、
「いとこの結婚式があるので帰ります、でも2週間したら戻ってきます」
という。
「帰ったら、ギリシャ料理でも食べに行きませんか」
そう言って手を振りながら去っていった。
夕方自動ドアが開くたびにふと外に目をやるのだが、その後、2ヶ月以上彼の顔を
見ることはなかった。
彼が聡美の前に再び現れたのは、彼女が出勤の日曜の昼だった。
ところがその日は、同じ年恰好の外国人女性を連れていて、聡美とは目も合わせないの
だ。連れの女性と終始話しをしながらパンフレットに目を通すと、とうとう会釈もせず
に出ていってしまった。
「・・からかわれたんだ」 聡美はため息をもらした。
「ねえ、今の人、ちょっと前までよくここで聡美を見つめてた外国人でしょう。
もうターゲット、変えたんだぁ。聡美は高嶺の花だって観念したのかな・・それに
しても大幅なランクダウンよねぇ?」
同僚の清水恵子が耳打ちしていく。
その数日後、恵子と居酒屋に寄り、注文しようとしているところに偶然彼がやってきた。
となりに別の女性を連れている。
呆れて知らないそぶりをしていると、向こうから
「聡美さん、ひさしぶりですね」と挨拶しながら、聡美たちの横に腰掛けてくるでは
ないか。
聡美が恵子に合図して立とうとしたとき、
「一緒に飲みましょう」と言ったのは彼の連れの女性だった。
「・・なんか面白そうじゃない」 恵子にひっぱられるまま聡美も再び腰を下ろしてし
まう。
連れの女性が英語まじりの日本語でしゃべりだす。
「私は、カナダから来たマリアン。彼はギリシャ人のストラティス。
彼が最近気になる女性がいるというので、お仕事場に寄ったんです。そしたら
帰った後でがっかりしました。でもここで偶然に会えるなんてラッキーです・・・。
貴女が聡美さんですね」
「え?」 いきなり指をさされて戸惑う恵子。「いえ、あの・・」しきりに
聡美を指差してマリアンの注意をそっちに促す。
聡美はにこりともしない。
いつもはさっそうとしているギリシャ人の彼は、いつになくもじもじしている。
ひたすらしゃべっているのは彼の連れだった。
「ギリシャ人って結構だめなんだから。日本人の男は、もっと手が早いよぉ」
と言いながらひじで彼を突いている。。
「あの聡美さん、カレシいますか?」と続けるマリアン。
「・・・・」 聡美は場に馴染めなくて返事もしなかった。
「・・よかった、いないみたい」とストラティスをひやかしながら場を盛り上げようと
するマリアン。
「私、帰ります」いきなり立ち上がる聡美。
「・・・・・」
「・・・・・」 顔を見合わせるマリアンとストラティス。
状況が把握できない恵子。
「そんなふうに誰でも食事に誘えるような軽薄な男性の気持ち、私には理解できません
・・・失礼します」 席を立つ聡美。
「・・待って」 一緒に立ち去ろうとする恵子。
「なにを怒ってるのかなあ・・・」振り向いて外国人ふたりに軽く会釈をした後で聡美
の後を追っていった。
翌日、仕事帰りなのかストラティスが以前のように夕方店に現れる。
今度は、直接窓口にやってきて、声をかけた。
「さとみさん・・・」
聡美は顔も合わせることなく、ひたすら書類の整理をしている。無視していれば
いつか帰るだろう、と思っていたが、
「さとみさん、僕の話を聞いてください」
いつになってもその場を去らないので、昨日一緒だった恵子が彼の前に立った。
「あの・・ほかのお客様のご迷惑になりますので」と小声で告げる。
「彼女と話がしたいんです」とストラティス。 聡美のほうを振り返る恵子。
聡美は仕事をしている。
彼は何度も首を横に振りながら、しばらく恵子に何か説明していたが、3分ほど
してから、
「さとみさん、今度いっしょに食事しましょう、また来ます」と告げて出て行った。
その背中を見送ることもなく作業を続ける聡美。
彼女がめくるファイル、ちょうど開いたページに彼の名前をみつける。
恵子がそばにやってくる。
「彼がなんて言ったか知りたくないの?」
「・・・え?」 何も視界に入っていなかった風を装う聡美。
が、少しいらついていた。
その日の帰りに恵子に誘われ喫茶店でしばらくお茶をする。
「・・聡美が関心が無いんだったらそれでいいけど、後になって言ってくれればよか
ったなんて言われたくないから言うけど、あの人、プレイボーイじゃないみたいよ」
オレンジジュースのストローを吸いながら、恵子が言う。
2階の大きな窓ガラスから外を行き交う車のライトをぼおっと見ている聡美。
「だって、いつも違う女の人連れて・・。私まで食事に誘って・・馬鹿にしてない?」
それを聞いて恵子は思わずストローを吹いてしまった。
「・・ほら、やっぱり気になってるんじゃない?」
「・・・・」
「あのね、あの人、何かの目的でお金をためてるみたいなの。それで日本に来た
観光客を相手にツアーガイドや通訳をやってるらしいのよ。昨日いっしょにいた
マリアンさんは、友達だって・・・。聡美のこと、あの人・・ずっと気になって
るみたいよ。いちど一緒に食事がしたいんだって・・」
「・・・・」
「ね? 思い込みとコミュニケーションの欠如は誤解の元だから、今度ちゃんとお話
してみたら・・」
恵子はくすくす笑っている。
彼は翌日もまたやってきた。が、今度は女性連れだった。ゆうべの恵子の話から、
たぶんガールフレンドじゃなく、彼の顧客なのだと察した。恵子が、聡美に目で合
図する。聡美は、うなずいて、窓口の二人の応対をした。
その翌日は彼がひとりでカウンターにやってきた。聡美ににっこり微笑みかける。
今度は、聡美も笑みを返して彼と向かい合った。
「聡美さん、仕事が終わるのは何時ですか?」と尋ねる。
「今日は7時までなんです」と答える聡美。
「いっしょに食事しませんか」
「・・いいですよ」
いつになく柔らかい聡美の態度に、彼の表情が明るくなる。
ストラティスは聡美を麻布にあるギリシャレストラン、タベルナに連れて行った。
そこで食事をしながら、思いを馳せる将来の夢を彼女に語って聞かせた。
彼はとても純真で一途な男だった。いつしか氷が溶けるようにすっかり打ち解けて
その夢を聡美も共有するようになっていた。ストラティスは、聡美より7つ年上だ
ったが、それだけの年齢差があるとこちらの我がままを包んでくれるだけのゆとり
が男性にあることを彼女は感じた。
「私もそこにいる?」
ストラティスはギリシャの島にレストランを持ちたいと思っていたのだ。
「こんな感じかしら」
エーゲ海に浮かぶ島に出てくるような白亜の壁のレストラン。
それを聡美が水彩絵の具で描いた。薄い色調の優しい絵に仕上がる。
「二人の店ができたら壁に飾ろう」
彼は、たいそう気に入って、それに合う額を専門店に探しに行った。
その後毎晩のように会うようになって、いつの間にか一緒に暮らし始める。
最初のデートから2ヵ月後である。
彼は、週に2日、都内の私立女子高で英会話の講師をしていたが、
吉祥寺にある道場で合気道も教え始めた。聡美も子供時代にそこで空手を習っていた
ことがあるのだ。
ストラティスには、マリアンを含め外国人の女友達が何人かいた。
お茶のみして情報交換しあうだけの友人である。
ところが彼にとっては自然な挨拶の行為に聡美は違和感をおぼえる。
長く目の前で抱き合ったり、頬へのキスが口づけ混じりになるとなんだか
馬鹿にされたような気持ちになる。
不機嫌そうに黙って歩いていると、ストラティスが
「聡美、君は鯛だよ」と笑って言う。
「どういう意味?」
「鯛を知らないの? 最高級の魚だよ・」
「・・・・・・」
「誉めてるつもりなんだけど」
「・・女の人を魚になんて譬えないでしょ」
「とにかく最高だっていうことさ」
「そう」
しかしそれが落ちですまなかった。
「でも・・鯛を毎日食べたら飽きるかな」
すこし聡美をからかいたくなったのだ。
「ときどきアジやサンマも食べたくなるかもね」 あははとひとりで笑い出す。
「・・・・・」
聡美は振り返らずにひとり足早に歩いている。
彼は、少し意地悪が過ぎたかなと思いながら後ろをついていく。
「違うよ、僕はいつも君を見ているよ」
その言葉に嘘はなかった。
立ち止まって振り返る聡美。
「愛してるよ、You know that」 聡美の肩に手をかけるストラティス。
払われたその手で、今度は思い切り彼女を抱き寄せる。
「後で言い訳するくらいなら、最初からそんなこと言わなきゃいいのにぃ」
むくれる聡美のひたいに自分のひたいを押し当てるストラティス。
「・・おたがいをもっと信じれば」
その温もりにつかの間の焼餅も次第に薄らいでいく。
何度も唇を重ねているうちに口げんかの原因も忘れてしまうのだけれど。
☆
1年半後、聡美の妊娠がわかり、聡美の両親から急いで入籍を勧められるが、
その時になって、ストラティスが、実はギリシャに別れた妻がいて法的に
離婚していないと告白する。
「ギリシャでは、離婚するのに、裁判で何百万円というお金を払わなくて
はならないんだ。もう何年も彼女とは会っていない、籍以外、一切関わって
いないから・・」
「必ず聡美と結婚します」彼女の両親に約束した。
5ヶ月頃から、周囲の目にも彼女の妊娠は隠せなくなり、聡美は、退社する。
自宅でギリシャ語を勉強をすることにした。
ストラティスは、仕事に励んだ。学校と道場の収入は20万円にすこし満たない。
スケジュールの合間にツアーガイドのバイトを入れて収入の足しにした。
聡美にとってつましい生活は苦にならなかった。野菜の皮でも切れ端でも無駄なく
使って、開いた地面を見つけてはハーブや花を植えてポプリをつくるのだ。
「貴方がちゃんと離婚できるようにお金、ためましょう」
「頑張って働くよ、だから君も僕の言葉を覚えてね」
「普通の言語は、否定の言葉の頭にNがつくのに・・
ギリシャ語では、 「はい」がネエで、 「いいえ」がオウヒ・・」
ピラピラと本のページをめくる細い指先。
聡美は家事のあいだもヘッドフォンを放さなかった。
彼女は常になにかしている。こまめに洗い物や洗濯をし、家の中もかたづいていた。
珈琲の空き瓶のラベルを剥がしてペイントを施し、中にポプリや小物を詰めるのが好き
だった。聡美には愛用している香りがあった。ラベンダーである。その趣味は、高校時
代に修学旅行で富良野に行って以来つづいている。オーデコロンから手作りの石鹸まで
すべてラベンダー入りなので彼女のそばに長くいるとその香りが衣服に移ると言われて
いる。
とにかくふたりの生活は音楽と色彩と香りで溢れ毎日が楽しく過ぎていく。
生まれてくる赤ん坊の前掛けがひとつできたといっては喜び、美味しいケーキが焼けた
といっては歓声を挙げる、恋人にしか見せない聡美の素顔がいとしくて、ストラティス
は始終、「かわいい、かわいい」ともらすのだった。
6月。友人たちが形だけでもと勧めるので、ストラティスの友人夫婦が住む那須高原の
チャペルで結婚式を挙げる。その後、友人夫婦が営むペンション内のレストランで披露
宴をもうけた。ゆったりしたデザインではあるが、純白のウェディングに身を包む聡美
はまぶしいほど美しかった。お開きになって着替えた後、彼女は、ひとりでハーブハ
ニーガーデンに赴いた、もちろんラベンダーのグッズを入手するのが目的である。
7月。臨月に入る週。 ワークビザ(仕事目的で渡航する外国人のビザ)で滞在してい
たストラティスは、期限が7月10日に迫って再申請の手続きのために一度いづれかの
隣国に出なければならず、近いうちにマニラへ渡ることに決めていたが、仕事のスケジ
ュール上、どうしても7月15日まで日本を離れるわけにいかなくなってしまう。
「どうするの?」
「しようがない、5日間は観光ビザで仕事するよ」
「でも、それは不法なんじゃ・・・?」
「しかたないよ。 その間に入国管理局の誰かにパスポートを見られないように
注意しよう・・」
ところが、入管(入国管理局)が道場にストラティスを訪ねてきたのだ。
出産を約3週間先に控えた7月13日の朝のことである。
聡美は、一度昼御飯に戻るはずの彼を、食事の用意をしながら待って
いた。 ところがドアの前に立っていたのは入管の職員だった。
「ストラティスさんの同居人の方ですね。 今日、観光ビザで仕事
をしているストラティスさんが管理局のほうへ送られました。
5日以内にはギリシャに強制送還されます。 彼の荷物を事務所へお届け
ください」
そう告げて、所在地の地図を置いていった。
聡美には、状況がよく飲み込めなかった。
・・・ストラティスが、捕まってしまったなんて! 。
もうこのアパートへ戻ってくることは無い。
「今日の昼ご飯は、すき焼きにしてね」
そう言いながら出ていった彼の笑顔。
強制送還という言葉は不似合いだった。
今にも彼が 「何かあったの?」と飛び込んできそうだ。
鍋がグツグツ煮えている。
・・私の家庭を守らなくては・・。
「だいじょうぶよ・・」お腹の子にも言い聞かせた。
・・そうだ、赤ちゃんのために・・
聡美は、まず力を着けるために食べようと思った。
食事を口に運びながら辺りを見渡し、詰めていく物を考えていた。
ストラティスの旅行鞄に着替えや彼の好きな本、二人で撮った写真の
アルバムを入れて横浜の関内へと急いだ。
二人は予想しなかった場所に向かい合って立っていた。
係員が見張る中緊迫した雰囲気が漂っている。
聡美は、バッグから包みを取り出した。
「今日、お昼ご飯に、一緒に食べようって・・」
すき焼きとご飯の入った弁当を手渡そうとした。
強制送還になってギリシャへ戻ったらしばらくは一緒に食事もできない。
それどころか、顔を見ることもできない。
子供の誕生の日に、日本にすらいない。
立ちはだかる鉄格子の間を包みは通らなかった。
「差し入れは一切、許可されておりません」
職員が、遮った。
聡美が懇願するように再度突きだす。
それでも相手は表情ひとつ変えなかった。
その場の冷たい雰囲気に、急に事態が現実として突きつけらた。
彼が大罪人のようで悲しくなった。
「ストラティ、ストラティ・・」
聡美は鉄格子にしがみついて彼をみつめた。
ストラティスも困惑していた。
肩を抱くにも手をのばしきれなかった。
ふたりは、ぎこちなく頬を寄せて短い口づけをした。
「・・どうしてこんなことに?」
「・・I have no idea.」
「私もギリシャに行く」
「聡美、信じて。 僕は、また帰るよ」
「そろそろ時間です。 荷物を預かります」
旅行鞄が彼女の手からもぎ取られていく。
「心配しないで。Satomi, my love. また一緒に暮らせるよ。
いつもそばにいるよ、独りじゃない、淋しくないよ」
ストラティスの笑顔を塞ぐように厚いドアが閉められた。
押し流されるように、聡美は廊下へ出された。
小さなハンドバッグと、弁当箱を持って、ポツンと立っていた。
そこをしばらく離れることができなかった。
(つづく)
(話の続きへ)
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