5.過去から未来へと
夕食の後、母の滋実はすぐに風呂に入ってしまった。
「なんだか、体中、焼き魚のにおいがする」
孫にきづかってか、後かたづけもせず、とりあへず風呂に
飛び込んでしまった。 聡美は、テーブルの皿を集めて
流し台に運んでいた。
父、晴彦は、あまり多くを語らず、退院してきた孫を覗き込んだり
抱いたりもせず、食事の後、再び新聞を広げ始めた。
聡美は黙って、空になりかけの湯飲みに茶をつぐ。
奥の部屋で眠っている赤ん坊を確認すると、2階へ上がっていった。
「康ちゃん、入っていい?」
そう言うが早いか、ドアを勝手に手が開けている。そんな自分の古い
習慣を改めて認識する。
康平はベッドの背もたれに寄りかかって目を閉じている。
ヘッドフォンを耳に当てている。音楽がかすかに漏れている。
聡美は、トンと軽く肩を叩いた。
「お・・」半ば居眠りしていたような目で、ヘッドフォンを外す。
「康ちゃん、わたし、いづらいよ、お父さんたら赤ちゃんには
見向きもしないんだもの・・」
逃げ場を自分のところに求めてくる姉の困った表情に何か懐かしさを
感じる。康平は、昼間から家の中に漂う重たい空気に疲れを感じて
いた。「どうして姉貴がいづらいの?自分の家だろう」康平は枕元の
リモコンを手でさぐって、小型テレビのスイッチを押した。
あちこちチャンネルを変えてみるが、見たい番組はない。
「ねえ、康ちゃん、わたし、アパートに帰るよ、明日・・」
康平がテレビを消して、体を起こす。
「ねえ、姉貴・・」
康平は、自分がこの数日の間に見た知りうる限りを姉に話した。
☆
聡美がキッチンに降りていくと、居間には父の姿は見えない。
新聞が綺麗に折り畳まれ、湯飲みは空になっていた。
居間に足を踏み込んで、奥の和室を覗き込むと、赤ん坊の布団の
傍らに父が立て膝をして座っている。聡美は驚いて、気づかれない
ように、襖の影に身を潜めた。
「おじいちゃんも大人げなくてごめんなー」
晴彦は、そうつぶやきながら、孫の寝顔を眺めていた。
「元気に育ってくれよ、お母さんを困らせないで・・」
聡美は、胸を熱くした。 バタン・・。 風呂場のドアの音だ。
足音をひそめて、静かに廊下へ出る。滋実が脱衣場から出てくる前に
その前を通って階段を駆け上がろうとしたが、後ろから呼び止められて
しまう。
「しーっ」風呂から上がったばかりの母を2階へとせきたてた。
「どうしたのー?まるで忍者ごっこみたい」
「お母さん」 涙があふれてきた。
「心配かけて、ごめんなさい」
聡美が使っていた2階の部屋は、殆ど彼女がいた頃のままだ。
二人は聡美の部屋の窓からベランダへ出た。
「え?お父さんが赤ちゃんに言葉をかけていたの?」
「うん、なんだか嬉しいような、心苦しいような複雑な気持ちに
なっちゃった」
「そう・・」滋実がほほえむ。
「孫が可愛くないはずないものね」
「ねえ」滋実が、ベランダの隅に片づけられた2脚の椅子を前に
出す。 二人はそこに肩を並べて腰をおろした。
「聡美、お母さんねえ、お仕事は続けようと思ってるのよ。」
滋実は、新宿でメンタルクリニックの受付をしている。 もう30年
以上になる。
「だから、赤ちゃんの世話は、あまり協力してあげられないからね。」
「うん、わかってる」
聡美もそのつもりだった。 遠く離れていても、子供のことは真っ先
にストラティスに相談するようにしたいし、自分自身もいつどこの国へ
旅立つか分からない身だと思っている。
だから、両親の生活を極端に変えることはしたくない。
「とりあえず、お盆明けの17日まで出来る限りの事はするから」
「いつか言おうと思ってたんだけど、聡美も一人前なんだし・・」
「なに、改まって・・」
「うん、あのね」滋実は、聡美の顔をしげしげと
しばらく見つめていたが、決意したように言った。
「お父さんね、お母さんと結婚する前に家庭を持っていたの」
滋実は改めて、聡美の反応を伺った。
「え? 嘘」聡美は耳を疑ってしまう。
「やだ・・お父さんに限って。お母さん、冗談でしょ?」
昔から真面目で、筋の通らないことが嫌いな父だった。
家庭を捨てて、他の女性に走るような人間には思えない。
「お父さんは、26歳で一度結婚してるの、同じ銀行に
お勤めしてた女性と・・。それでね、男の子が生まれた
らしいわ」
・・らしいわ・・ということは、母は、その子供の存在を
あとになってから知らされた・・ということだ。 決して暖かい
家庭を壊して、恋人を奪ったのではないということだ。
聡美は、ドキドキしていた。すこしでも、母の身の潔白を確認
したい、自分や康平が略奪愛の末にできた子供ではないことを
信じたかったのだ。
「お父さんね、亡くなったお爺ちゃんに、子供の頃、虐待を受けて
育ったのよ」
そういえば、父の体の各所には、いくつかの切り傷や
火傷の痕がある。 子供の頃よく風呂に入って、理由を尋ねたもの
だが、答えは、
「負傷兵なんだ」
「アクションスターだった」
そのたびに違った。
「それで、自分は良い父親になれると信じていたけれど、
ふとした瞬間、感情が抑えられなくなって、抱き上げた
赤ん坊を畳にたたきつけていたらしいの。」
父、晴彦が、聡美や康平に手を挙げたことは一度もない。
いつも遠目に笑って、仕事に励みながらも家族を見守っている
という感じだった。
「でも・・」 下の階にいる我が子の寝顔が浮かぶ。
身の毛がよだつ思いに襲われて立ち上がってしまった。
その様子を滋実も感じ取って、大丈夫・・と言いたげに、手で、座る
ように勧める。
「いつも、今度こそ良い父親になるって葛藤していたらしいわ。
でも、ある日、感情が高ぶって、公園の石段2段目から2歳の息子の背中
を蹴落としてしまって、もうわけが分からなくなったらしい。
顔をすりむいて泣いている我が子をただ呆然と見つめていた。きづいた
奥さんが悲鳴をあげながら飛んできて子供を抱き上げた。そのまま2度と
帰らなかったそうよ」
「・・信じられない。だってお父さんは、そんな人じゃないわ。穏やかで・・・」
聡美は、母が言うような父を一度も垣間見たことがない。
この28年間、父から叩かれたこともない。
「それで、二人はみつかったの?」
滋実はこくりとうなづいて、続きを語った。
「奥さんは、長野の実家に帰っていたらしい。お父さんが何度も
足を運んだけど、もう会いたくないと突っぱねたらしいわ。
それから、お父さんは、カウンセリングを受けにうちのクリニック
に来たの。お母さんも、もうその頃から事務をしていたでしょ、
そこで知り合ったのよ」
聡美は、全ての事情を初めて聞いた。
父が以前、家庭を持っていて、子供もいた。
自分より4つくらい年上の異母兄弟がどこかで暮らしている。
母が自分の手足をパンパンと叩き出した。
「あら、やだ・・やっぱり、蚊取り線香が要るわね」
見ると、聡美の手や足にも数カ所、刺された痕があり、それが
分かると突然に痒みをおぼえた。
「入りましょう」今度は母が、椅子をそのままにして、
聡美を部屋の中へと追いたてた。
まだ続きが聞きたくて、聡美は、エアコンのリモコンに手をかけた
が、下から父の呼ぶ声を耳にして、ドアを開ける。
「おーい、泣いてるぞぉ」
一瞬、さっきの話が赤ん坊の泣き声に重なって、恐ろしい映像が
脳裏をかすめたが、時計を見上げると8時をさしていた。
授乳の時間であるのに気づく。
「聡美、これから大変ね」
「赤ちゃんって正確なのよね。身二つになるとあわただしいのね。」
ふたりは、部屋の明かりを消して階段を下りていった。
☆
お盆の間、家族の生活は、まるで聡美がいたころのようだった。
聡美は、まだ代理店に勤めていて盆明けに出勤するような錯覚をおぼえた。
盆とはいっても、父の親族の墓は、秋田にあって、今では殆ど
親戚づきあいがない。 母の実家は浦和にあるが、祭事を取り仕切っている
のは、母とは実際の血縁がない兄で、線香をあげに行くとすぐ帰ってきて
しまう。
「美実って決めちゃったのぉ?」
赤ん坊の名前を滋実もいくつか考えていたらしい。
「母さんたら、綾子とか加奈子とかいうんだぜ」
寝そべってテレビを見ていた康平が呆れた顔を見せる。
「私は、滋実で、あなたは聡美でしょ。だから、たまには
“子”がつく名前もいいなあ、って思って・・・」
「だって、いづれはギリシャへ行っちゃうんだろう。そっちで
加奈子っていう名前がおかしな意味だったらどうするんだよー。
もう、オバサンはそういう事に考えが回らないんだからさー」
「んもう」横に座っている母が康平の背中をパシンと叩く。
全ての雰囲気や会話は、子ども時代のようだったが、ストラティス
との出逢いは夢ではない。 そばで元気に手足を動かしている娘が、
いるのだから間違いはなかった。
(つづく)
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