27.誤算 (籠の中の鳥)
1994年6月。 霧雨の降る朝。
和彦は、8階の部屋の窓から外を見ていた。
一戸建ての立ち並ぶ住宅地の真ん中に彼のマンションがある。
遙か遠くの高層マンションから、こちらを見ている人は、
まず、いないだろうな・・。
もう1ヶ月ちかくビイと話をしていない。
元々、彼女に会う以前は、休日に人と会うことなど殆ど無かった。
音楽やテレビの他には音のない暮らしが当たり前だった。
5年前までは・・。
・・あれから少しずつ何かが変わったんだ。
それほど会話を交わすでもなく、食事をして、眠って・・・
そんな日々が過ぎて、彼女がいなくなってみると、
なんだか生活に張り合いがなかった。
部屋の掃除をしていると、ふと天袋が目に留まる。
あそこには何が入っていたかなあ。
脚立に乗って引き戸を開けてみる。
・・あ、ここにあったのかー、昔のアルバム・・・。
奥の方へ押しやられて手が届かない。
つま先だちになって、手をぐっと伸ばしてみた。
指先がアルバムに触れた瞬間、足元がぐらついた。
足が滑り、脚立が後ろへ倒れると同時に、「く」の字を描くように
体は前へ倒れた。押入の襖に顔をこすりつけるように落ちて、
膝から下が脚立の上に着地する。
その瞬間、右のくるぶしに激しい痛みが走った。
ううっ、くくくううううーっ。 その後は、唸ることしかできないほど
苦しくて、のたうち回るだけだった。
どれくらいの時間がたったのだろう。 どうにか座ってはみたけれど、
右足が、みるみるうちに腫れ上がっていく。
動かす度に、焼けるような痛みに襲われた。 居座りながら、
ダイニングにたどり着き、コードを引っ張って、壁の電話から
受話器を引きずり下ろす。
ところがプッシュボタンは、本体にあり、下からは手が届かない。
痛みをこらえながら、ドア枠につかまり、左足に重心を置いて立ち
上がる。そのまま、短縮番号5番を押していた。
3度目の呼び出し音で相手が電話をとる。
「はい、もしもし」
「ビイ・・? 僕なんだ」
「・・先生!?」
「お願いだ、今すぐ来てくれ、足を折ったみたいなんだ」
「足を・・・大変、 すぐに行くから待ってて」
時計は、9時半を指していた。それからの時間がとても長かった。
1時間後に、鍵を開ける音がして、彼女が飛んできたが、
涙で顔が歪んで見えた。
「先生、可愛そうに」
ビイは、和彦の頭を胸にもたせかけた。
「応急処置をするわね」
そういうと、バッグの中からシップ薬を取り出し、患部に張り、
添え木代わりに木材を当てて、上からグルグルと包帯を巻きだした。
「たぶん、これでいいんだと思うけど」
ビイは、今度は、電話帳を取り出して、できるだけ近くの接骨院に電話
をかけ、その後タクシーを呼んだ。
「さあ、先生、私の肩につかまって」
「ビイ、ありがとう」
「いいのよ、早く」
「うん」 彼女の細い肩に腕を回した。
それから、しばらく入院することになった。
全治3ヶ月の骨折だ。
せめてギプスが取れるまで、学院は休むことになるだろう。
ビイは、入院に必要な備品や着替えを買ってきて、ベッド脇の引き出し
や棚に振り分けた。
「ご実家に電話した?」
「うん、母が、明日の昼頃来るって」
「・・ちょっと、イヤなんでしょ」
「・・え?」
「先生、いつもお母さんの事話すとき、面倒くさい顔するから・・」
「・・知ってた?」
「・・・・」 ビイは笑いながら小さくうなづいた。
それから、夜までビイはそばにいた。
「ビイ・・この間は、ごめ・・」 和彦の口がビイの手に覆われる。
「そのことは、気にしないで」
「でも、今日は助かった」
「先生・・・私、知ってたよ」 急に声を潜めた。
「・・・・」
「先生が私を抱いているときに、時々心がそこにない気がした」
「・・ビイ」
「でもさ、それでもいいと思った。 少なくとも私は先生が好きだし、
好きな人に抱かれている私は幸せだったよ」
涙がこぼれないように天井を見上げている。
和彦は、その姿をいとしく感じた。
翌朝、静香が病院に着く。
「貴方、大丈夫なの? 大変だったわね」
「骨折ですよ。 骨がくっつけば大丈夫ですから」
「なに、悠長なこと言ってるの、きちんと直すのよ。貴方、立ち居振る
舞いが美しいって評判なんだから」
「元に戻りますよ。 時期が来たらリハビリもするし」
「・・ねえ、病院、変えたほうがよくない?」
「お母さん・・声が!」 和彦は辺りを見回した。
「・・そうだ、これから誰がお見舞いに来るか分からないし。大学病院
へ移りましょう・・ね?」
「いいですよ、ただの骨折なんだから。お見舞いになんて誰も来させない
でくださいよ」
「いいの、いいの、あ、こうしていられないわ・・・」
そう言って出ていった。1時間くらいして戻ってくると、すっかり移動の
手はずが整っていて、あとは本人が着替えるばかりになっていた。
「人のツテで、特別ベッドが取れたのよ」
「お母さん・・・」
「大丈夫よ、個室だから、プライベートよ」
「お母さん・・・」 口を挟む間もない。 丁寧に説明をしてくれて、
温かいケアを施してくれた医師や看護婦に深く頭を下げてから、
母の呼んだタクシーに乗り込んだ。
それから暫く、学院の関係者からの見舞いが続く。
ビイは、仕事帰りに立ち寄ると、まず病室を覗き込んだ。
「相変わらず、ファンが多いみたいね」
いつも身の回りはデパートの包みや果物で溢れていた。
「気が重いんだ、これ全部にお返しをするんだろう」
「・・どうせ、お母様が全部なさるんでしょう」
「それもいやなんだ」
和彦は手を伸ばして、ビイをそばに引き寄せた。
ビイは枕元に腰掛け、彼の髪をなでつけた。
足元のほうで視線を感じて、二人が顔をあげると、そこに立って
いたのは、和彦の姉、花代だった。
「あら、なんだかおじゃましちゃった?」
花代の目は面白そうに笑っている。
「和彦にも、こういう人、いたのね」
「あの・・・」 ビイは戸惑いを感じて、和彦をみつめた。
「僕の姉だ・・」 和彦は、体を起こして、背もたれによりかかった。
「ふうん・・和彦の好みって、考えていたよりも」
花代は、ビイを舐めるように観察している。
「先生・・私、帰るわ・・・・失礼します」
ビイは、花代に一礼すると、病室を出ていった。
「出ていくこともないのにね」
花代は、顔を出して、その後ろ姿を見送っていた。
「あの人と結婚するつもりなの?」
「・・・・」
「ふうん、そうでしょうね」
「・・・・」
「和彦は、美人好みだものね」
☆
日曜日、朝はやくから静香が病室を訪れた。
そばでリンゴを剥きながら、訊いてくる。
「ねえ、本当?」
「なにが・・?」
「花代さんが、貴方の彼女を見たっていう話・・」
どうして、話したんだ・・。
「ち、違います。 友達ですよ、お見舞いに来てくれて」
「 どういう・・?」
その目は好奇心にあふれていた。
「ん・・だから・・それは」
言葉が出てこない。 ああ、いちいち真剣に答えることもないのだ。
「学院の後継者の妻にふさわしい人?」
「・・・・」
「結婚、考えてる相手なんでしょう」
「いえ、そんな深い関係じゃないですよ」
「・・枕元に腰掛けるような人でも?」
そんな細かい事まで・・。
「放っておいてもらえませんか」 怒りを声に出してしまった。
「・・・・」
「今、足を治すことが先決です、顔を見るたび、結婚、お見合い
ってやめてくださいよ?」 気が変になりそうだった。
「・・・・」 驚いた表情で和彦を見つめる静香。
「和彦、貴方変わったわね。 そんな風に私を邪険にすること、
今まで無かったのに」 額に青筋を立てていた。
「・・・・」
「私たちが今まで築いてきた物を、壊すような結婚はしないでね」
くぎを刺すように怖い目で彼を見た。
和彦は、心の底に渦巻く怒りを抑え込んでいた。
もし、全て吹き出したら、どうなるのだろう。
母は、受けとめることなどできないのに違いない。
怖かった。 自分の中に途方もない怪物でも隠しているような、
そんな気がした。
静香は、早めに帰っていった。
内に籠もった怒りが、彼に重たくのしかかっていた。
心の中から何も涌いてこなくなった。
捕らえられた心は、目的を失い、目は、天井を見据えていた。
和彦は、3日後に無理やり退院してしまった。
それから毎日、母静香からの電話攻撃が続く。
ずっと留守電にしていたが、耐えかねたのか、
休みをとって、マンションにやってきた。
しぶしぶ、部屋へ通す。
「貴方、どういう事なの? 断りもなく退院だなんて」
「だって、足以外、どこも悪くないんですよ」
「その足が大事なんじゃないのー」
「でも、病院にいると、気持ちが塞ぐんですよ」
「・・・・」
「お母さん、いつだって、そうやって一方的にしゃべりまくって、
僕の気持ちは何も聞かない。 それが、もう耐えられないんだ!」
とうとう、言ってしまった・・。
「な、なんですって?」 静かは動揺した。
「僕は、貴女の一部じゃありませんよ」
「・・・・」
「貴女に自分の気持ちがあるように、僕にも僕の気持ちがあるんです」
「・・・・」
「僕の事は全て仕切らないといけないんですか? もう30なんですよ。
貴女の知らない僕がいたっていいじゃないですか。
それを大事にすることが、何故いけないんですか」
「・・貴方、よくもそんな驕ったことを!」
「驕りでもなんでもいいですよ。 貴方は表向きは、いつだって
立派そうに取り繕って、結局、それが無理な背伸びだから、苦しく
なる。 その愚痴の受け皿は、いつだって息子の僕だった!」
「そんなこと・・」 静香は目を白黒させた。
「僕は、貴方が涙を隠して笑顔をつくる姿ばかり見てきたから、
だだをこねることも、わがままも、捨ててきたんです。
どこの家庭だって、皆当たり前のように、父には母が、母には
父が寄り添っている。 子供が少しぐらい憎まれ口を叩こう
が、心配をかけようが、それが当たり前のプロセスであるかのよう
に、鼻で笑って、見守って・・・」
「か、和彦・・・」
「なのに、僕は、貴方に心配を掛けるたびに、罪悪感に苛まれて」
「いい加減にしなさい!」 母は、和彦の頬をぴしゃりと叩いた。
「見損なったわ・・私が耐えて、笑顔できたからこそ、今の貴方の
豊かな暮らしがあることを、分かってないわ、貴方」
和彦は、ため息をついた。
彼女には、何も通じないようだった。
確かに、心に鬱積した感情は、重たい。 それと同じくらい、母に
感情をぶつけることはつらかった。
もう今日は、それ以上、衝突したくはない。
静香も、無言で出ていった。
☆
その夜、ビイが会いに来た。
「ビイ・・」 いきなり、彼女の肩にしがみつく。
ビイは、何も言わずに、和彦を抱きしめた。
「つらいんだ、母を苦しめたことが」
「先生、自分を責めないで・・必要な事だったのよ、きっと」
ビイは、彼の腕を自分の肩に掛け、ベッドへ運んでいった。
「先生、じっとしてないと骨がつかなくなるわよ」
「ビイ、僕は・・」
和彦は、子供のように彼女にすがりついた。
「先生、・・なにか食べたの?」
「ううん、食欲がないんだ」
ビイは、台所でにぎりめしをこしらえてきた。
梅干し、かつおぶし、昆布の佃煮・・。
和彦は、次々に平らげた。
「母が憎いよ」
「でも、お母様には貴方しかいないのよ」
「・・・・」 責めるような目をする和彦。
「ごめんなさい。 それが分かっているから、貴方は、今まで
なにもかも一人で背負ってきたのね」
「母のそばにいると苦しくて、自分がどんどん潰れていくんだ。
でも、こんな風にぶつかっても、またつらいんだけど・・」
☆
8月初旬に、ギプスが外された。
週に2度、近くの接骨院と自宅の間を、タクシーで往復して
リハビリは、怠らなかった。
母からは、連絡が途絶えていた。
あれほど、母から逃れたいと願っていたのに、
その後の静香の気持ち、健康状態・・・気になってしかたがない。
もどかしくて、どう転がっても、母から解放されることが難しかった。
(つづく)
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