28.サントリーニ (揺れる想い) 7月。 最近、ビイはよく学生時代の友達と飲み歩くようになった。  「明日来ないか」と誘っても 「先生、明日はダメなの」と断られてしまう。 もうつきあって5年にもなるから、多少の駆け引きも あるのかもしれないが、あまり、「ごめんね、またね」 が続くと、他に男でもできたんじゃないかと、 妙に妬けてしまう。 それとは別にとても気になることがある。 ギリシャ人のパパンドレウは、まだあの子と つきあっているのだろうか・・・。 もう振られている頃だろう、そうだとすればいい気味だ・・。 いや、逆にそうなると、和彦自身、彼女の消息を失って しまうことになる。 「大変だ!」 和彦は、システム手帳を取り出して、住所録の「ハ」の欄を 開いた。 「もしもし、パパンドレウ? 覚えてるかな、魚住だけど」 「あー、魚住さん、めずらしいですね、元気ですか?」 発音が前より日本語らしくなっている。 「うん、仕事のほうはどうかなと思ってね」 「あ、お陰さまで、今では、生徒の人気者です」 「そう、それは、よかった」 「そうそう、そういえば、可愛い彼女・・・げんき・・かな?」 「あー、5月からつき合って、まだ続いています」 「・・・・」 「もう一緒に住んでますよ」 「・・え? 同棲・・してるの?」 「どうせい・・ですか? あーそういうんですね、そうです」 結婚するのか? その質問が喉まで出かかっていた。 「彼女、そこにいるの?」  今電話で繋がっているこの男の横で、彼女は何をしているだろう。 もしかして・・裸なんじゃ・・? 和彦は首を激しく横に振った。 「今、ここにはいないんです。 友達と食事に出ています」 「そ、そうなんだ・・」 なぜかほっとしている。 「魚住さん、今度遊びにきてください」 「うん、そうさせてもらうよ、じゃまたね」 なんだかそれ以上、パパンドレウの口から彼女の話を聴くのが 怖くなった。 日曜日の朝、突然に思い立って、吉祥寺に赴いた。 三鷹駅方面へ向かうバスに乗り、3つ目の万助橋で降りる。 以前パパンドレウから届いた手紙の住所を辿っていくと、その アパートは、バス通りに面して、30メートルくらい行った ところにあった。 すぐ目の前に彼らの部屋の窓がある。そこに きれいな若草色のカーテンが掛けられていた。 何の予告もなしに日曜日の朝から訪ねるわけにもいかない。 通りの向こう側には井の頭公園が広がっている。 公園を散歩しながら帰ろう、そう思って道路を渡ると、 垣根の向こうに、陸上トラックがあった。 Hey, wait. You run so fast. 若い女の声が響いている。短いフレーズだったが、英語のような気がした。  見ると、薄桃色の長袖Tシャツに黒いスエットの女の子がトラックを 走っている。 汗で顔中に髪がまつわりついている。  顔を紅潮させながら、こっちへ走ってきて、先にベンチで息も荒げずに 座っている男の前で、あー疲れた、もうだめ・・と言いながら、 前屈みで呼吸を整え始めた。  やがて、女の子が髪を掻き上げながら、頭をあげる。 ・・・香織。 香織似のあの子だった。 男も立ち上がって振り返る。 パパンドレウだ。 彼は、彼女の肩に 腕を回して頬にそっとキスをした。 二人がこっちに歩いてくる。 和彦は、急いで木の陰に隠れた。 10メートルくらい前を右から 左へと彼らが横切っていく。 彼女は、彼の胸のあたりに腕をまきつかせ、 すこし見上げるような角度でにっこり微笑んだ。 パパンドレウが 馬鹿だなあ、といった感じで軽く彼女の頭を叩いた。 ぺろっと舌 を出す彼女・・。  二人の後ろ姿は、それぞれ左右に注意を払いながら、2車線の車の 切れ目を縫うように通りを渡り終えて、さっきのアパートのドア の中へ消えていった。            2日後の朝、もう一度吉祥寺に行って、今度は、駅の改札付近で 待っていると、スーツ姿で髪を上げた彼女が、やってきた。 和彦も後ろを少し離れてついていく。 隣の扉から同じ車両に乗り、 彼女の様子をうかがう。彼女は、バッグから本を取りだし読み始めた。 そのページをめくる細くて白い指先。 文字を真剣に追う視線。 ため息がでそうだった。 やはり香織とそっくりだ。  あまりにうりふたつなので、心の中で彼女を呼ぶときに、「香織」 と囁いていた。 そばにいって、話しかけたい。 彼女は、新宿で降りた。 ホームの人混みをかき分け、見失わない ように着いていく。 東口の駅前広場に出た。 アルタビルの 前の横断歩道を渡り、紀伊国屋書店の前を通り、2丁ほど行った所 で、彼女は左折した。 急いで走っていって、和彦も曲がった。 ところが、すぐそこに彼女が立ってたのだ。 和彦をみつめている。 まるで、そこで彼を待ち伏せていたかのようだ。 「あの、変な真似すると、警察に突き出しますよ」 と言う。 「・・え?」 「私のこと、ずっと付けてません? 電車の中でも私のほうを見ていたでしょう?」 「・・・・」 気づかれていたのか。 あ、それにしてもよく似ている。  ・・香織なんじゃないのか? 吸い込まれるように見つめていると、 「やめてください」 そう言って、走り去った。 追跡失敗。 顔を覚えられてしまったのだろうか。 じゃ、今度もし会ったり、パパンドレウを訪ねていくことがあれば、 「この人、痴漢よ」なんて、警察に突き出されることになるのか。 ・・おかしなことになってしまった。 運命の出会いには、ほど遠い のだろうか。               ☆ 年が明けた翌1995年1月。  ビイは、和彦のマンションに足を運ばなくなってしまった。 正月に、山梨の実家へ帰り、東京へ戻っているはずの5日過ぎになっても、 音沙汰がない。 去年までは、帰宅したその日のうちに土産を持ってやって きたものだった。 あまり電話がないので、ある夜、こちらから訪ねてみた。 彼女の部屋の窓に明かりはなかった。 とても不安な気持ちに 駆られた。 他の女にときめいて、尾行までしているのに、 ビイのことを失うのも怖かった。 彼女の存在は、すっかり生活の 一部になっていて、何日も彼女が訪ねてこないと、なんだか部屋 が無性に広く感じられた。 玄関先にもう30分以上立っている。 人影が外に見えるたびに、今度こそ・・と思うのだが、皆まえを通り 過ぎてしまう。 そろそろ帰ろうか・・とあきらめか けていた時、カツカツとヒールの音をさせて、彼女が帰って きた。 手に紙袋をいくつも下げていた。  「・・先生」 ビイは驚いた表情で彼を見ていた。 「待ってたんだよ。 入ってもいい?」 「・・え? うん」  彼女の声はあまり弾んでいなかった。鍵を差し込み部屋のドアを開けた。 こじんまりとしているが、こぎれいに片づいた部屋。 キッチンのテーブルの上に、彼女が鍵を置く。 ピンクのうさぎのキー ホルダーがついている。 洗面所で手を洗いながら、 「もうご飯食べてきちゃったけど、先生は?」と訊く。 「ああ、あまり空いてないよ、心配ない」と答えた。 居間の畳に座り、湯飲みに茶を注ぐ彼女に思い切って訊いてみる。 「ビイ、僕のこと、嫌いになったの?」と。 「・・・・」 彼女は和彦の目をみなかった。  「ねえ」 和彦は、ビイの手を握って腕を揺すった。 ふーっとため息をついて、ビイが目をあげた。 「先生、私が貴方を嫌いになるはずがないでしょう。だけど」 「・・・・」 「私は、今年で28になるの。 友達もどんどん結婚していくし、  私の親友も今結婚を前提として男の人と一緒に暮らしてる。  実家の母も、会社の上司もお見合いの話をもちかけてきてる・・」 「・・・・」 「先生と私は、今年の夏で6年になるわ。 先生のことを考えるだけ  で毎日が楽しかったから、感謝してるの。 でも、これから先は  つきあうほどに自分がダメになってしまいそうで、怖いの」 「ビイ・・・別れたいの?」  「・・別れたくない・・でも、私も人並みに奥さんって呼ばれる  立場になって、子供の手を引いて歩きたいのよ。 もうそういう  年齢になってきてるのよ。 分かるでしょう」 ビイの瞳が揺れている。 このまま、結婚しようよ、と言ってしまえ ば、何もかもうまくいくのだろうか。 そうすれば、彼女は、これから 先も、ずっとそばにいてくれるのだろう。 でも、結婚相手というのは、 一度に一人しか選べないものだ。 和彦は決断を下すことができなかった。 「先生、好きな人がいるんでしょう。 それもずっとずっと想って  いる人・・。 誰なの? どんな人なの? 正直言うと、  私、その見たこともない相手に長いこと、嫉妬してきたのよ」 「・・・・」  緑色の傘の女なんだ・・香織なんだ・・そう心の中でつぶやいた。 「先生、もし私とのこと、そういう目で見てないんだとしたら、  あんまり来ないでくれる?」 彼女は、宙を見ながらそう言った。 「ビイ・・好きだよ」 和彦は、ビイに抱きついて唇を奪った。 求めていたように吸い付いてくる彼女の唇。 けれども、すぐに 彼を振りきった。  「お願い、やめて、先生」  彼女を無性に抱きたかった。 上に覆い被さるようにして、両手首を 押さえ込んだ。 「やめてよ」 その体を左右に激しく揺り動かして 拒まれた。 けれども、今そのまま手を緩めてしまったら、永遠に 彼女が戻ってこないような気がして、ムキになって服を剥がして いった。 下から突き上げるようにキッと睨むので、思わず その頬を2、3発、平手で叩いてしまった。 そのまま、畳の 上で和彦は彼女を抱いた。 ビイは泣いていたが、徐々に彼の 体を受け入れた。 「ビイ、一緒に旅に出ようか」 「先生、ほんとう?」  すこしずつだったが、その声はいつもの調子にもどりつつある。 「うん、4月の末あたり。ゴールデンウィークにでも、行こうよ。  そうだな、ギリシャ、エーゲ海がいいかな」 そんなことを言って、彼女の反応をうかがった。 「先生と一緒に旅行に行くなんて初めて・・。 本当かな」 楽しそうに思いを巡らしている。 ・・これで暫く彼女をつなぎ止めておける。 そんなずるい考えが よぎった。 4月の末から5泊7日で旅に出た。ギリシャだ。 最初の晩は飛行機の 中で眠った。翌日からアテネに2泊した。町の中を散歩しながら買い物を する。 ファーストフード店のカウンターを覗き込むと、 数種類のパイのようなものが並んでいる。店員は、チーズパイを指して ティロピタと言い、アップルパイを指してミロピタと言った。 一つずつ買って、それをパクつきながら、また歩く。 トローリーバスに乗りシンタグマ広場で降り、パラソルの下で ギリシャコーヒーを飲みながら、アクロポリスを見上げる。  ビイは、ペリプテロと呼ばれる町中のキオスクで記念の絵はがきを買った。 夜は、ホテルのレストランで、キャンドルのライトに照らされながら、 ギリシャ料理を満喫した。ビイは、朝から晩まではしゃいで、今までに 無いほど幸せそうな顔をしていた。  3日目に港から船に乗り、エーゲ海巡りをした。 サントリーニ島に 泊まった日の夕方、イアに赴き、断崖に座って夕日を眺める。 「今ここから突き落とされても、誰もきづかないわね」 「うん・・・え、ええ?」 背筋が寒くなった。 「わあ、こんなに美しい光景、今まで見たことないわ」 「うん、そうだね」 ふたり手を固く結び、うっとりしながら、日の入りを見守った。 (つづく)



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