45.ひととせ (一年)
ある日、学院の化粧室から出てくると、
目の前に着物姿の美恵子が立っている。
着物美人のポスターのモデルが美恵子なのだった。
聡美は、久々に彼女に電話してみた。
「あー、あれね。 着物が似合いそうだって抜擢されたんだけど、
それってのっぺりした醤油顔だっていわれてるようなもんじゃない」
「そんなことないよ、素敵だったけど・・」
「聡美、最近何してる?」
「うん、いろいろ」
「ははーん、聡美がいろいろって言うときには、本当に
何かあるんだよね」
彼女の声には張りがある。仕事や私生活が充実している感じがした。
「美恵子は、どう?」
「今すこしずつテーブルコーディネーターの仕事してるの、
結構楽しいよ。今日一日家にいるけど、聡美、こない?」
「うん・・子供連れていってもいい?」
この一年、ストラティスから連絡が無いこと、その後知り合った
和彦のことを彼女に話してしまった。
「ふうん、聡美ってそういう女だったかあ」
「どういう?」
「うん、もっとバリバリ仕事に生きるか、平凡な結婚をして
良妻賢母になるかのどちらかだと思ってた。 いつから
演歌路線に走ったの? 人には偉そうに説教ぶってたくせに
なんか本人はボロボロじゃない」
「自分で選んでこうなったわけじゃないわよ。
明るい家庭を築いて、将来小さくてもいいから二人
のお店を持ちたいって、そう思っていたのよ」
「聡美、なんかださーい」
美恵子の言葉が胸にチクチク突き刺さる。
「だいたい、結婚する前に妊娠しちゃうなんてタブーだよ」
「・・・・」
「基礎体温つけないの?」
聡美は首を横に振る。以前は立場が逆だった。
美恵子は、とてもパワフルになっていた。
「聡美、その魚住さんとはどうしたいわけ?好きなの?」
「・・わからない。 ただ常に彼の視線を体中に浴びてるうちに
なんだか・・引き込まれてた・・」
「ねえ、聡美。 そんな理性の無い女じゃなかったはずだよ」
美恵子のしぐさや声からは苛立ちが感じられる。
「ねえ、筋の通らないことが嫌いだっていつも言ってたじゃん。
いつも聡美には怒られてばかりだったけど、聡美の言葉を胸に置いてさ、
頼りにしてきたのに・・。イメージ、崩れちゃったなぁ・・」
「・・美恵子、ごめん。私、自分のことが一番分かってないのかも。
でも、いつの間にか、あの人のほうへ手繰り寄せられてるの。
なにかに呼ばれるように・・・」
「なによ、幽霊にでもとりつかれたようなこと言って」
ため息をつく美恵子。
「今まで何の苦労も無く生きてきたお嬢さんが、外国人なんて相手に
選ぶからおかしくなるんだよ。 誰か聡美を包んでくれるような
隆士さんみたいな男を選ぶのが、本当は一番あってるのに。
・・ねえ、素敵な男はいっぱいいるよ、聡美だって魅力的だし。
でも、妊娠とか結婚とかって、よっぽど気持ちが固まってからの
ことなんじゃないのぉ?」
「・・・・・」
「聡美のこと、前は羨ましいと思ってたけど、逆境にぶちあたって
もろく崩れる姿見ちゃうと、苦労なく子ども時代送ることが全てじゃ
ないように思えてくるよ。自分の家庭環境もまんざらじゃないような
気がするよ・・男もひとりに絞れない状態でよくも子供を先につくれるわね。
馬鹿じゃないの?理解できない!」
「・・美恵子、ひどいよ」 憤慨した。
「・・・聡美、男に幸せにしてもらおうとか、誰かの夢に便乗しようとか、
そういうのって絶対にだめだよ。 相手がいなくなったら自分は立ち上がれな
いじゃない?」
「・・・・」
「一度、ギリシャに行っておいで。 明日にだって立つべきだよ! たとえ彼の
実家に彼が居ないにしても、自分の目で納得がいくまで彼を探しておいでよ。
それが美実ちゃんのために、今しておくべきことでしょう。7月の下旬に
10日間ほど早めの夏休みを貰うことになってるから、美実ちゃんを見てやって
もいいから。」
「美恵子が・・・子供の面倒を?」
「・・むずかしいかな? でも、聡美さえその気なら奮闘してみてもいいよ・・」
そう言って美実から食べかけのビスケットを受け取る。
美恵子は、変わった。 人のために夏休みを丸々潰すような人間ではなかった。
なにか懐の深さのようなものを感じた。
☆
ストラティスがギリシャへ送還されてから一年たった。
彼の消息は何も掴めないままだ。
この3ヶ月アパートのポストにストラティス宛ての
郵便物は一切こなかった。
毎月自動的に6万円の家賃が引き落としされている。
そろそろ解約しなくてはならない。
帰りに駅の反対側に抜け、道場を覗いてみると、
和彦らしい男が試合中だった。 垂れを見ると「魚住」と書いてある。
ところが聡美が視界に映った瞬間、彼は相手に面を一本取られてしまった。
聡美は、あわてて後ずさりした。
手ぬぐいを頭に巻いた和彦が窓から顔を出す。
あどけない少年のような表情で、息せきって、
「一緒に食事しよう、待っていてくれないか」という。
素早く着替えを済ませて出てきた。
「おいしいラーメンの店をみつけたんだ」と和彦が言う。
聡美がぼおっとしていると、
「おいでよ」 彼女の腕を力いっぱい引き寄せた。
すっかり恋人きどりである。
ラーメンの湯気でお互いの顔がぼやけている。
「和彦さんもラーメン、食べることあるんだ・・」
和彦は固まった。
「今、和彦さんって言った?」
「え? そう?」
「うん、背筋がぞくっとした」
「礼儀作法の先生って思ってたより俗っぽいんだ」
聡美がからかうと、和彦が人差し指で彼女の額をつついた。。
「私ね、来週からギリシャへ行ってこようと思うの」
「え?」 和彦は、むせて咳こんだ。
真剣な面もちで聡美をみつめる。
「ストラティスから連絡があったわけじゃないの。 彼に会えないかも
しれないわ。 安否すら掴めないかもしれない。 でも一度そう
しないと、気持ちがすっきりしないでしょう、だから行ってくるわ」
“一度そうしないと”ということは、彼女に新しい目的が見え始めたと
いうことだ・・。
“行ってくるわ”ということは、“帰ってくる”ということだ・・。
・・帰国したら彼女が自分のところへ来る・・和彦は、彼女の言葉を
そんなニュアンスに受け留めたかった。
聡美が気持ちに踏ん切りをつけるためにギリシャへ行く。
たぶん、彼には会えないだろう。 彼の死を知るかもしれない。
どんな精神状態で帰ってくるのだろう。
彼の死が確定したら、自分も動揺するだろうか。
和彦は、水をもう一杯注いで、一気に飲んでいた。
(つづく)
(話の続きへ)
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