46.悲しい再会
フランクフルトで飛行機を乗り継いで、
現地時間午後1時過ぎにアテネに着いた。
アテネからさらに飛行機に乗り、テッサロニキまで飛ぶ。
そこからバスに揺られてストラティスの育った町に着いた。
英語が殆ど通じない。 ギリシャ語の本を携えてはいるが、
いざ会話に入ると、どの言葉や表現がどこのページに載っているのか
みつけにくい。 探しているうちに相手がどこかへ行ってしまう。
殆どジェスチャーの世界だった。
林檎を売り歩く少年からリンゴを一つ買い、パパンドレウさんの家は
この辺にあるか・・と尋ねると、指をクネクネ動かして何かを説明
してくれた。 数字や単語と指の動きを組み合わせる。 どうやら
道なりにまっすぐ行って2つ目を左折し、少し歩くとガソリンスタンド
がある、そこがそうだ・・と言っているようだ。 間違いない、そこだ。
彼の両親がスタンドを経営していると聞いたことがある。
ガソリンスタンドをみつけた。 出入り口から太った白髪の女性が出て
きて、聡美ににっこり微笑んでから、家の奥に声を掛ける。
中から出てきたのは、ストラティス・・? いや、たぶんサキスだ・・・。
とても冷静な表情だった。
「聡美さん、ここまでよく来られましたね。 ちょっと待ってくれ
ますか。 今車を出しますから」という。
「ここは、貴方の両親の家じゃないの? ねえ、今のはストラティス
のお母さんなんでしょう?」と訊くが何も答えない。
「乗ってください」
彼の言う通りに助手席に乗ると車は家からどんどん離れていった。
「ねえ、どういうわけ? ストラティスはどうしているの?
元気なの? ねえ答えて」 聡美は、拳でコツンと彼の肩を叩いた。
車は、古びたレストランの前に停まる。
サキスが降りて入り口の方へ歩いていくので、聡美も黙って付いていく。
中に入ると、常連らしい作業着姿の男達が五人ほど食事をしていて、
日本人が珍しいのか、ヒューヒュー声を挙げて冷やかす。
サキスが“黙れ”とでも言ったのだろうか、彼らは前を向いて食事を続け、
その後は殆ど振り返らなくなった。
サキスは、 何種類かの料理とパンとワインを注文した。
「ねえ、どういうわけなの?」
「今まで何の連絡もせずに申し訳ありませんでした」
初めてまともに聡美の目を見て英語で謝った。
「日本からシビレを切らしていらっしゃったんですね」
「ストラティスはどうしているの? 消息は掴めたの?」
それが知りたくてここまで来たのだ。
「兄は生きてます。 今は・・・」
・・生きているって当たり前でしょう・・?
「どういうこと?」
「サントリーニ島に美しい夕日が見られるイアというところが
あります。 その崖から兄は足を滑らせ転落していたのです」
「まあ・・・そんな事。 いつ知ったの? 今どこにいるの?」
「半年間、意識が戻りませんでした。 その後、奇跡的に目を覚まし、
最近までリハビリ生活を送っていました」
「じゃ、どうして教えてくれなかったの?」
聡美は、悔しかった。 夫が死に瀕している間、自分はそれを全く
知らずにいたのだ。
「今でも記憶が無いんです。 弟の僕や両親すらおぼえていないん
ですよ・・たぶん、聡美さんのことも分からないと思います」
「それでもいい・・それだって彼には違いないじゃない。 今すぐに
彼のところへ連れていって・・お願い・・・」
聡美は、テーブルの上に突っ伏して泣いた。
「お願い・・」
回りの客が振り向いた。 サキスが再び何かを言うと、やれやれ・・
というそぶりでお互いに仲間と顔を見合わせる。
「聡美さんに連絡しようと思ったんですけど、できなくて」
「どうして!!」
「アテネの病院に入院中、日本人の女性が兄の看病に付ききりでした。
体を拭いたり、着替えをさせたり、妻のように付き添って、
意識を取り戻した後も、リハビリ中もずっと彼女が一緒です。
それで・・・両親に、彼女が聡美さんだと言ってしまったんです」
「そんな、ひどいわ、日本人・・? 今、どこにいるの?」
「アテネです。 アテネの郊外に部屋を借りてその人と・・・」
店員がテーブルに料理を運んできた。 サキスは、聡美に料理を
勧めたが何にも手をつける気になれなかった。
サキスが食事を済ませるのを待ってから、聡美は、空港まで送って
ほしいと頼んだ。 今来た長い道のりを戻っていく。
・・日本人の女・・もしかしてそれは・・・
たぶん、それは・・ずっと消息の途絶えた・・彼女かもしれない。
車を降りて急いで航空券を買い求める。
飛行機でアテネまで戻る。 空港からタクシーに乗り、サキスから
貰ったメモを運転手に見せると、30分ほどでそこに辿りついた。
五階建てのアパート。 玄関のドアは締め切りになっている。
横を見ると、縦横五列のボタンが並んでいて、小さな表札が付いている。
あった・・・パパンドレウだ。 懐かしい文字だ、ここにストラティス
がいるのか・・。 相手の女は、聡美の知っている人間なのか・・。
恐る恐るボタンを押す・・。 手が震えている。
「はい」 女の声だった。
「パパンドレウさんはいらっしゃいますか、日本から来たものです」
と言うと、暫く沈黙があった。 すこししてから
「どうぞ」という声が聞こえて、目の前のドアが開いた。
エレベータに乗り五階まで行く。
廊下を歩きながら、表札を覗き込む。
あ、あった・・・ここだ。 体中がぶるぶる震える。
たとえ誰と顔を合わせ、どんな話を聞こうとも、再びストラティスの
顔を見ることができるのだ。 あの日、入管で引き離されて以来、
その顔を一度も見ていない。 その声に触れることができるだろうか。
ドアのブザーを押した。 ドアがカチャリと開いた。
暫く足を動かすことができなかった。 怖くて怖くて体の震えが
止まらない。 思わず心の中で「美実ちゃん」と娘の名前を呼んでいた。
そこには、遙香が立っていた。
「・・どうして、貴女がここにいるの?」
「聡美、来たんだ・・」
「だって、私はストラティスの妻なのよ、当たり前でしょ」
遙香は怯まなかった。
「聡美、今は私が彼の妻なのよ」と言う。
「どうして、いつから?」 聡美は、遙香の両腕をつかんだ。
「いつから・・って、日本に居たときから私たちはできてたの!」
遙香は、言い放った。
「嘘でしょ? 信じない・・」
「日本にいたときからつき合っていたの」 遙香が聡美の手を振り払った。
「遙香、ずっと友達だと思っていたのに・・どうして?」
聡美は、激しく首を横に振った。
「ねえ、ストラティスに会わせて・・。 一目会わせて・・」
聡美は、部屋に踏み込んだ。
「ストラティス、どこにいるの? 聡美よ・・」
居間の向こうにドアが2つある。 そのうちの一つを開けてみると、
誰かが背を向けてベッドに横たわっていた。。
「ストラティス!」 その人が寝返りを打って振り向く。
顔中に傷を負っている。 でも、ああ、確かにストラティスだ。
「あなた・・・聡美よ、分からない?」
そばにひざまずいて、頬に触れた。
「・・誰?」 表情ひとつ変えない。 ああ、ようやく会えたのに、
なのに・・なのに・・・。 涙が溢れて止まらない。
「ね? もう聡美のことも忘れているわ」
遙香が冷たい口調で言った。
「ねえ、遙香・・。 どうして彼はこんな姿に?」
彼に付き添って看病したい。 今すぐにここへ美実を連れてきたい。
そうしようか。 記憶だって取り戻すに違いない。
「聡美、私と彼は結婚したの。 それでハネムーンの途中で事故に
あったの。 今は、私が彼の正式な妻なのよ。 ほら見て、
私のパスポート・・・」
遙香のパスポートの名前が、Haruka Papandoreu になっている。
「強制送還されたのだって計画的なんだから・・。 知らないの?
彼自身が入管に電話したのよ。 どうしてか分かる?」
「・・・・」
「聡美から離れたかったの。 聡美から逃げたかったの。
彼は、私に一緒に来て欲しいって言ったんだもの。彼はね、聡美み
たいに可愛くて綺麗なだけの、ただそれだけで男を惹きつけようと
するだけの女よりも、私みたいに何でも話せて、清濁併せ持つ女の
ほうを選んだのよ!彼は、私を選んだのっ!」
すごい剣幕でまくしたてる。
「・・遙香、ひどいじゃない、親友だったでしょう?」
その言葉に遙香の瞳はさらに鋭くなる。
「なに言ってんの?アンタに私の何がわかるっていうの?何も知らない
くせに。いつも良い子しちゃってさぁ。ストラティスにも愛想をつか
されて当然よ。こうなることは必然ね。だから、 もう帰って」
「うそ、貴方と彼がつきあってたなんて・・」
その言葉になお反応して、
「なぜ?ねえ・・。私が貴女ほど綺麗じゃないから?」聡美の胸を激しくどつく。
「・・・」
そのまま、遥香は、聡美をどんどん出口へと押しやる。
「ひどいのは貴女のほうでしょ、もう来ないで! 他にいくらでも相手をみつけれ
ばいいじゃない? 美人なんだから、貴女は私とは違うんだから・・。
でもね、私はひとりの男を愛する心じゃ、貴女なんかに負けないわ。
ストラティスもきっとそれを知ってる。貴女と別れてせいせいしてる。
一年も音信不通だったのよ、それくらい気づきなさいよ」
「もう邪魔しないで・・・顔も見たくない」 遙香は息を切らしている。
「あなた、ストラティス・・・」 聡美の声に彼は反応しない。
「帰ってよぉ」 聡美に肘鉄を食らわす遥香、その目は狂気に満ちていた。
聡美は、ドアの外に閉め出されてしまった。
「2度と来るな」そう言ってつばを吐く遥香、さっさとドアを閉め鍵を掛けた。
その後、何度ブザーを鳴らしても、声ひとつ返ってこなかった。
(つづく)
(話の続きへ)
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