20. 目覚め
朝、まぶしくて目が覚めた。
枕元のカーテンが揺れて、光がさすたび顔を照らしていたのだ。
見慣れない風景だな・・。
キッチンで、油のはじける音がする。
そうか、ゆうべは・・。
部屋は開いているけれども、ちょうど襖が足元側に寄っている。
みそ汁・・卵焼き・・・? 匂いにつられて腹が鳴った。。
スリッパの音、冷蔵庫の扉の開く音、締まる音、
蛇口をひねる音、水の出る音、まな板の上で何かを刻む音・・
妙にやすらぎをおぼえた。
それでも、脳裏をかすめるのは、あの・・。緑の傘の・・。
自分が今いる場所が、あの子のアパートだったら・・。
ゆうべのあれは・・ということになるのだろうなあ、と。
勝手に想像して、どきどきしていた。
「おはようございます、先生」
顔を覗かせたのは、違う女だ。
「せんせい?」
エプロン姿の女は、新婚ほやほやの新妻の面もちで
「朝御飯ができてます」と微笑んだ。
朝食のメニューは、オムレツとフレンチトースト、サラダにみそ汁だった。
こまめに料理をするのだろうか。
味は・・・・。 オムレツに軽く塩、胡椒して食べてみると、
・・おいしい。
コーヒーを一口飲んだ後、今度はフレンチトーストをフォークで切り
ながら口へ・・。
「んん・・・・・」
女は向かいに腰掛けた。真剣な表情だった。
表面は少しサクッとしているようだが、ミルクの染みたパンの中身
が舌の上でトロンと溶けた。バターの香りが口いっぱいに広がり、
甘さも程良かった。
「どうですか?」 女は、心配そうに首をかしげる。
「とてもおいしい」 感じたまま言った。
「ああ、よかった。メイプルシロップをかけて召し上がるといいですよ」
そういいながら、シロップの入った陶器を彼に勧める。
「あ! こうしていられない、今、何時?」
「あー、え?」 女もつられて焦り出し、壁の時計を指さした。
8時50分・・・。
遅刻だ!! 和彦は、ゆうべの自分の服装を思い返して、辺りを見渡した。
「あの」女は、カレンダーに目をやっている。
「えーと、 ゆうべは上着を着ていたかな?」
すっかりくつろいでしまった。
「あのー」
「いや、ゆうべは、思っていたんだ、 朝早くここを出て、家に着替えに戻ら
なくちゃ・・って」
「あのー」
「・・・・」 パニック状態だ!
「土曜日ですけど、今日は仕事?」 と訊く女。
「え? ・・」
女が和彦をカレンダーの方へと招き寄せる。
えーと、昨日の午後会議があって、それから・・。
もう一度、今日の日付を思い起こして曜日を確かめてみる。
女が首をかしげる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人は沈黙を切るように、同時に笑い出した。
再び腰を下ろして、食事を続ける。
・・? 取り合わせが何かおかしい。
甘いバターやホイップクリームに混じって、みそ汁の香りがするせいか・・。
「・・和洋折衷なんだね」
「え?」 女は、少し表情を曇らせる。
「あ・・。 嫌みに取らないで。 素朴な疑問だったから」
「ええと・・」 女は料理を見比べて暫く考えた。
手で口を押さえて笑った後、上目づかいに、
「ごめんなさい。 私、普段、朝食なんて作り慣れてないの・・」
と、申し訳なさそうに言う。
「でも、どれもおいしい。 軽井沢の山荘にでも来たみたいだ」
「え?」
「ほんとうだよ」 お世辞ではなかった。
「ありがとう」 女は目を潤ませて微笑む。
「どこで習ったの?」
「うん、友達がね・・」
流し台の上の窓辺のポトスに視線をなげかけて、コップに水を汲むと
「お母さんから教わったんだって。 彼女の家っていいのよぉ。家族の間で
交わされる言葉がホームドラマみたいで。 暖かみがあるっていうの・・・?」
そう言いながら、、鉢植えの根本に注いだ。
「あ、ごめんなさい。 しんみりしちゃって・・・。 紅茶でも、
煎れましょうね」
今度は、ティーポットを取り出した。
「ありがとう」
フレンチトーストとオムレツを平らげてから、水をもらって口を直し、
みそ汁も飲んでみた。
メニューの中で、一番美味しかった。
「私、みそ汁には自信があるんですよ、この味は、私の母のものです」
誇らしげに言った。
朝の柔らかい光の中で、紅茶を飲んでいる。
「郷里はどこ?」
「山梨・・・。 でも、すっごい田舎だから・・」
決まり悪そうに、肩をすくめた。
「僕だって、東京育ちじゃないよ。 群馬だもの・・」
「そうなの?」 女の目が笑った。 カップに収まらずに、脇に
こぼれた三日月がくいっと持ち上がった。
女は、言葉の端々や表情、しぐさにコンプレックスを感じさせる。
普通の男はどう感じるか分からないが、和彦の心は、ほぐれていった。
ずるいかもしれないが、素直な地のままの自分でいられるような居心地の
良さだろう。
「僕は、前橋で育ったんだ。 大学までは地元だった・・」
「そう・・」 よかった、女の顔に、そう書いてある。
「友達の家庭が羨ましいって言ったよね。 僕も、家族に縁が薄いから、
よく分からない、なんだか未知の世界のような気がするよ・・・
家庭って」
「そう・・・」 女の声はさっきより明るい。
「昨日、おとうさ・・・」 怖々と父親の事をほのめかしてみた。
女は、何度もうなづいた。
「うちのお父さん、アル中なの・・。 元々、とても臆病な人で・・。
人付き合いが殆どダメなのよ。 イヤな事もハッキリイヤって言えない
人なの。 お父さん、三男なのに、祖父母を途中から引き取ったの。
長男は病死して、次男の嫁とは折り合いが悪いって、うちへなだれ込む
ように5年前からね。 2年前に祖父が死んだの。 その時に父は
荒れたわ。 死んだ事が原因じゃなくて、土地や財産の殆どの名義が
次男のものになっていたから。 お爺ちゃんは、お嫁さんの事は
嫌いだったけど、自分にうりふたつの次男と孫息子の事、一番
好きだったのね」
女は、とつとつと語ると、和彦の様子を窺った。
「聞いているよ」 和彦は先を促した。
女は、涙を浮かべながら、微笑んだ。
「お父さんは、人に利用されつづけた自分の人生を、とても情けなく
思ってきたんだと思う。 なのに、祖父が追い打ちをかけるように
裏切ったから・・やるせなかったんだと思う。 2年間、お酒ばかり
煽って気を紛らわしてきたけど、 お婆ちゃんが、お母さんに
気の利かない馬鹿な女って文句を言った時には、もう溜まった怒り
を止めることができなかったみたい。 台所から刺身包丁を取り出して
きて、心のありったけを叫びながら、何度も何度も、お婆ちゃんを・・」
あとは、声にならなかった。 彼女の頬を、涙が幾筋も伝い落ちる。
和彦は、彼女に歩み寄り胸に抱き寄せた。
女は、肩をふるわせて泣きつづけた。
せつなく見つめる瞳に応える術もなく、そっと唇を重ねる。
そのままゆうべのように、ベッドになだれ込む二つの体。
裸のまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
時計は、1時をちょっと回っている。
「昼食つくるわね」
けだるそうに立ち上がろうとする女の腕を、和彦はグッと引き寄せた。
カーテンを閉めきった部屋は、薄暗かった。
表の通りからは、下の階の子供達の声や三輪車の音が聞こえてくる。
それでも、二人は構うことなく、何度も体を重ねていた。
体は、互いの汗でべたついて、シーツが足に纏わり付くほど濡れていた。
「私、もう行かなくちゃ・・・」
時計が3時をさしている。
「行くって、どこへ?」
「・・・・・・」
「あー、例のところ・・」 昨日の話を思い出した。
「だるいなあ」 女はゆっくり体を起こした。
「・・・・・」
「先生・・」 ベッドに正座したまま、横になっている和彦を振り返る。
「・・・・・」
「また、来てくれますか?」 怖々尋ねる。
「ああ、また来るよ」 その表情に応えていた。
女は安心してシャワーを浴びに行く。
余韻に浸って、意識がぼんやりしていたせいか、軽はずみにも、
約束に受け取れるような声で言ってしまった。
和彦は、起きあがると、そのまま風呂場へ行き、シャワーを浴びた。
部屋へ戻り、散乱した自分の衣類を、掘り起こしながら、一枚ずつ
身につけた。
「先生・・」 女は、ラベンダー色のワンピースを着ていた。
「先生なんておかしいよ。 君は生徒じゃないのに」
女は、首を横に振った。
「ううん、なんだか怪しい感じのする響きでしょう」
自分の置かれた状況を瞬時でも忘れたいのか、空想に浸りきっている。
淋しそうに微笑んだ。
「そう、じゃ、僕は君を何て呼べばいい?」
女は、少し考えてから、
「絵空(えそら)とでも、呼ぶ?」 思いつきで言ってみる。
「現実に打ちひしがれても、夢は見続けたいから」
「絵空・・ごと・・?」
「・・・」 女は軽く噴き出した。
自分の言葉を打ち消すように再び首を横に振る。
「先生、また来てくださいね」
求めるような目をしている。
「その服、とっても似合ってるよ」
「ありがとう。 一番大切な友達がくれたものなの。 嬉しい」
にっこり微笑んだ。
和彦は、玄関の鏡の前で髪に手櫛を入れてから、部屋を出ると、ひとり
西国分寺駅へ向かって歩き出した。
女は、小さなドレッサーの前に腰を下ろして、自分の姿を映してみた。
ゆうべから今朝にかけての時間を振り返ると、思わず頬がゆるんでいた。
けれども、すぐに、これから待ちかまえているだろう出来事が重たく
のしかかり、悲しい表情に塗り替えられた。
これからの自分は変わるの、儀式は済ませたんだから。
自分に言い聞かせると、念入りに化粧を始めた。
☆
その夏、和彦は、自然に触れたいと思っていた。
彼の休暇は通常の盆休みより、3日早くとれた。
一日、買い出しに費やし、翌朝はやく、那須高原へ赴いた。
思い切って、大きなRV車を買い、そこにテントやタープ、
テーブルやリクライニングのできる椅子を積み込む。
クーラーボックスに冷凍した肉類、飲み物を詰め、ミネラルウオータや
フランスパン、缶詰を買い込んで出発した。
規則や、人目を気にすることのない開放感が欲しかった。
高速道路を下りて、できるだけ市街地から遠ざかるように進んでいく。
道幅10メートルくらいの県道をまっすぐ走っている。
両サイドに、松や杉の雑木林が続いている。
そうして、 少しずつ道幅の狭い方へと折れていった。
セミが激しく鳴いている。 たわんだ木の梢が頭上でアーチを描き、
木漏れ日が道路にまだら模様を投げかけている。
どこまでも奥へと入り込んでいく。 道幅は、3メートルくらいに
なった。 もし向こうから農家のトラックでも来ればアウトだろう。
それでも、賭けるように、高く生い茂る雑草の道をどんどん進んでいった。
やがて車は広い河原へと突き抜けた。
しぶきを上げながら、岩の間を縫うように水が流れている。
和彦は、そこから少し離れた草地に、テントを張ることにした。
体中汗だくになって、ペグを打ち込む。 額の汗が目に流れ込んでくる。
汗を拭いながら見上げると、抜けるような青空が広がっている。
セッティングを終えた後、短パンツだけになり、川の中に飛び込んだ。
水はひんやり冷たかった。 そこに顔だけ出して暫く浮いてみた。
日差しが当たって顔だけが暖かい。
川べりに座って、なにげなく手に触れた草を引き抜いた。
手にした小石を川に向かって投げていると、
次第に記憶のひだから蘇えるワンシーン。
時計の針が滑るように、そこへと逆回転を始める。
剣道部に入部したてのころ。
補強運動ばかりのつらい日々。
「ウサギ飛び、体育館三周!」3年生がやたらと威張っていた。
和彦が、ウサギ飛びをしながら時おり体操部のほうを見ると、
華奢な体を反らせ手足を延ばして平均台の上を歩く香織がいた。
休憩時間に、タオルで汗を拭きながら水飲み場へ降りていくと、今度は、すぐ
目の前に水を飲む香織の横顔があった。ポニーテールに縛った髪、その後れ髪
が汗でうなじにペッタリ張り付いている。喉がピクピク動く様子をしばらく眺め
ていると、飲み終えた彼女が、和彦の視線に気づいて驚いた。
「こ、こんにちは」 和彦は思わず声をかけた。
「・・こんにちは」 香織も照れ笑いを返した。
◇
空腹を感じた和彦は、車に乗り込んで、さっき来た細道を逆に走っていった。
当てもなく、散策する。 高い杉木立の道沿いをゆく。
狭い道は、上下にうねり、向こうの木の枝から、対向車のトラックが
降りてきた。
道ばたの無人売場で野菜を買い、 小さな商店で、産みたて卵を買う。
河原にまた戻り、今度は火をおこした。 鍋を出して、米を洗い、飯を
炊く。 その間、グリルの上で、持ってきたソーセージと、さっき買った
タマネギやトウモロコシを焼いた。 空気が違うのか、気分が変わった
せいか、何を食べてもご馳走のように食が進んだ。
ゆっくりと日が暮れていった。
夜、完全な闇の中から雲一つない夜空を見上げるとき、
空の色は、都会で決して見ることのない漆黒だ。
今まで見たこともない無数の星の存在に、息を飲まずにはいられない。
闇の黒よりもむしろ埋めつくす星の白が、割合としては、ずっと大きい
のに違いない。
今にも何かが迫って来るようだ!
思わずわあっと叫び声を挙げそうになった。
テントに一時退散しながら、ふと思った。
叫び声をあげればいいじゃないか。
誰も聞いてやいないだろう。
大自然に触れたいと言っていたのに、ここに来てまでも人目を
気にするなんて、情け無いじゃないか。
窓のファスナーを開けて、虫よけの網を通して空を見上げた。
寝袋に潜り込み、顔の回りをすっぽり覆うと、いつの間にか眠りに
落ちていた。
その夜、夢を見た。
母静香が泣いている。
見ると、母の左手の薬指の、指輪より先が無かった。
「どうしたの?」と訊くと、
「お父様がちぎった・・」と答える。
「魚住の父が・・・?」と聞き直すと、
「貴方の実のお父さんが」と答えた。
指先をみつけて、母の薬指に押しつけるのだが、指先が腐っていて
もう付くことがない。 母は悲しい表情で彼を見つめていた。
途中、目が覚め、用を足しに表へ出た。
瞼が涙で濡れていた。
満天の星が怖くて、その晩は、もう天を見上げることができなかった。
済ませてから、急いでテントに飛び込みファスナーを下げる。
それが何時だったか分からない。 時計を見る間もなく、再び
眠りに落ちていた。
朝方、ある瞬間から一斉にヒグラシが鳴き出す音を聴いた。
チチチチチ・・・。 チチチチ・・・。 4時半。
鳴き声は一定していない。 決して聞く者を飽きさせることの無い
バイオリン弾きのように、旋律をいろいろ変えているようだ。
出番を待ちわびていたように、聴いたこともない小鳥の声も加わる。
ピーピー、、ウチチチチチチチ、ピーピー、ウチチチチチチチ・・・
リズミカルなさえずりの繰り返し。
その後、少し遅れてソロのソプラノが、どこか高いところから、
清涼感のある美しい声で、「ほーほけきょ」と歌っている。
ひっきりなしに奏でられるヒグラシのバイオリン。
耳慣れない小鳥の声と、時折混じる鴬のさえずり。
そんなセッションが和彦の心を癒すように繰り広げられた。
やがて、発声練習をするカラスの、ガガー、ビビーが聞こえ始めて
から暫くすると、小鳥達の演奏は、ピタリと止んでいた。
午前5時少し前だ。
外を覗いてみると、空は完全に白くなっていた。
和彦は再び、眠りに落ちた。
朝、目覚めたとき、あれは夢の中で聴いたものなのか、そうでないのか、
分からなかった。
(つづく)
(話の続きへ)
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