21. 雨男 (ひとり旅) ポットで沸かしたコーヒーを、マグカップに注いだ。 フランスパンを取り出し、ナイフでザクザクと、縦に2つ切れ目を入れる。 薄くスライスしたトマト、レタス、スライスチーズ、缶ツナを 挟み込み、ふんだんにマヨネーズを絞り出して、ほおばった。 ・・どうだ、男らしいだろう。 今にも降ってきそうな重たい空。 台風の接近が予測されていたが、大陸の方へ逸れるとかで 天気が大幅に崩れるようなことはないと聞いている。 別に急ぐあてがあるわけでもない、 元々、日常を忘れるために来ているようなものだから、 雨も風情があっていいじゃないか・・。 ・・昨日は最高の天気だったのに。 川のせせらぎを聞きながら、河原でコーヒーを飲む。 大きな丸い石がごろごろと転がっている。 テントがあるのは、その奥の雑木林にちかい草地だ。 その裏の、うっそうと生い茂った草むらの道を通って、 昨日ここへたどり着いた。  川は、少し先で深くなり、流れが緩やかになっていく。 下流に向かって250メートルぐらい行ったところに、かろうじて車が2台 すれ違える幅の橋が懸かっている。  草むらの道は、そのたもとへ出るようになっているのだ。 ぽつり・・。 大粒の雨が、乾いた石を黒く塗りつぶしていく。 土埃のような匂いが漂う。 和彦は、タープの下で椅子に腰掛け、やり過ごした。 タープが激しく波打ちだす。 細かい付属品を片づけ、テントへ退散する。 雨は大降りになり、雷を伴うほど強くなっていく。 やがてタープの支柱がバランスを失い、外れて倒れた。 その後、タープがテーブルに覆い被さるように落ちてくる。 軒先を失ったテントめがけて、雨は容赦なく降り注いでくる。 和彦は、入り口をふさいで、マットの上に手足を投げ出した。 目をつぶれば、それなりに心地良いじゃないか。 それでも夜が心配だ。 今夜は他へ移ろう。 少し頭痛がした。 首筋や肩が張っている。 雨が小降りになった頃、和彦は、テントの撤収にとりかかった。 ところが、午後になると、空は嘘のようにふたたび晴れ渡る。 だが、なぜか町に向かって走っていた。  気付くと、コテージ風のペンション『トゥリアンダ』に車を停めて いた。   「泊まれる部屋は、ありますか?」 「ええ、今日なら、ツインルームが2つ空いてますけど」 「お願いします」 「じゃ、こちらに住所と名前のご記入をお願いします」 「食事は2回、朝は、7時から9時半、夜は、6時から8時半の間に  食堂のほうで召し上がってください」 「チェックアウトは?」 「11時です」 「コーヒーは、飲めますか?」 「コーヒーやソフトドリンクは、食堂でいつでもお出ししてます」 「わかりました」  記入し終えた用紙を手渡す。・・早くシャワーを浴びたい。  「今、お部屋に案内します」 主人が、管理室から鍵を持ってくる。 「お部屋は、2階の突き当たりになります」 案内されたのは、白い壁の部屋だ。 窓には、水玉模様の薄緑色のカーテン・・。  シングルベッドが両サイドにひとつずつ。 主人が窓を開けると、ブナの林が広がっていた。 下を見ると、小川が流れている。 葉の間から若いカップルが足を浸しているのが見えた。 なんとなく、その風景に目をやりながら、 「ここの町名、なんて読むんですか? この辺りの電柱に書かれている  ・・高久丙・・。 たか・・ひさ・?」 主人のほうを振り返る。   運転しながら、3つの漢字が目に付いたが、何と読むのか分からず、 口の中でつぶやいていたのだった。 「たかく・へい・・と読みます。 お隣りには、高久甲、高久乙・・も  ありますよ」 「そうですか」 胸のつかえがおりた。 「お菓子はお好きですか?」  「ええ・・」 「妻の手作りのケーキやクッキーがあります。 ぜひ・・」 にっこり微笑んだ。 「あとで、食堂のほうでいただきます」 和彦も笑みを返す。 「ここへ置きますので・・」  主人は、ペン立てのようなものに鍵をさして出ていった。 水玉模様のカーテンか・・。 和彦は、小川で遊ぶカップルを再び眺めていた。 女の子の白い足の上で水がキラキラ光っている。 バシャバシャ水をはじきながら、足元がぐらつく度に隣のカレシに 腕をもたせかける。 彼女が木漏れ日をまぶしそうにみあげたとき、 「あ・・」 彼女の視界に入ってしまった。 彼女は、照れ笑いして、カレシの背中に隠れた。 シャワーを浴びて汗を流す。 その後、乾いたTシャツとジーンズに着替え、再びブナ林を見下ろす。 誰もいなかった。 セミが盛んに鳴いている。 和彦は、食堂へ下りてみた。 天井は吹き抜けになっている。 壁には、たくさんの写真パネルが掛けられ、どれも雑誌や映画で見た ようなエーゲ海の風情だった。 出窓のそばに座り、メニューを見る。 『スコーン&手作りジャム  バナナマフィン  チョコレートファッジケーキ  チェリーパイ  パンプキンパイ』 洋菓子の名前がいくつか並んでいる。 「お決まりですか?」 奥さんらしき人が注文をとりにくる。 「バナナマフィンと、コーヒーを」 「かしこまりました」 奥さんが、コーヒーとマフィンを持ってくる。 「キャンプしてらしたんですか?」  「え?」 「お車の窓からテントやシュラフが見えたから」 「・・ええ」 なんだか決まり悪かった。  「那須は、初めてですか?」 「ええ、泊まりで来るのは・・」 「良いところでしょう」 「そうですね。 自然が美しいです。 あの・・」 「はい」 「畑のところどころに見られるあの大きな白い包みはなんですか?   巨大なだるまみたいな・・」 「ああ・・」  奥さんがクスッと笑った。 巨大なだるまの喩えがおかしかったの かもしれない。 「あれは、冬の飼料の不足に備えて、牧草を貯蔵しているんです。  あれで牛を肥やすんですよ」 「そうですかー、ありがとうございます」  なんだか肌寒い。  「牛肉は、お好きですか?」 「ええ」 「夕飯には、黒牛の特製ステーキを用意しています。食べ放題ですから、  たくさん召し上がってください」 「・・それは、楽しみです」 背中に悪寒が走る。 節々が痛い。 マフィンの最後の一口を頬張り、コーヒーを飲み終えて、 厨房にいる奥さんに「ごちそうさまでした」を言うと、 また2階の部屋へ上がっていった。  鞄から、いつもの風邪薬を取り出して飲む。 足元の毛布をかけて、ベッドに横になる。 いつのまにか眠っていた。 ドアのノックの音で目が覚めた。 部屋は真っ暗だった。 枕元の明かりをつけ、置き時計に目をやると 8時15分・・。 随分と眠り込んだものだ。 「はい」 起きあがって、ドアを開けると、主人が立っている。 「お夕飯の時間は8時半までとなっておりますが・・」 「・・実は、すこし熱があるので、食欲が・・・」 主人は、和彦の顔を見た。 紅潮して、汗ばんでいる。 「風邪をひかれたんですね。 体温計をお持ちしますね」 そう言って下りていった。 しばらくすると、主人は、タオルを巻いた水枕と体温計を持って 戻ってきた。 ベッドに横たわり、肩で息をしている和彦を見て、 「医者を呼びましょうか」と言ったが、断った。 熱は38度5分ある。 和彦が寒いというと、主人は窓を閉め、横のベッドの毛布をもう一枚 彼の上に掛けた。 そうして、たらいの水にたくさん氷を浮かべて 持ってくると、タオルをしぼって和彦の額に載せた。 何度か目を覚ましたが、その度に触れた額のタオルは、冷たかった。  汗をぐっしょりかいて、2時過ぎに目が覚めた。 しばらくして、奥さんが入ってくる。 額に手をあてて、 「熱、下がったみたいですね。 主人のパジャマでよかったら、  着替えませんか? 今着ている服を洗濯すれば明日までには  乾くから」 と、蒸しタオルと着替えをテーブルの上に置いていった。 それから15分ほどたってから、今度は、主人がやってくる。 「お腹空いてませんか?」 と和彦に差し出した盆の上には、小さめの にぎり飯3つと、ほうじ茶が載っている。  「私たちも今お腹が空いて、夜食に作って食べたところです」 和彦は体を起こして、それを受け取り、ひとつ頬張った。 塩の利いた温かいご飯がおいしかった。 なんだか嬉しくて、胸が熱くなる。 翌朝、もう一日そこに滞在することにした。 ちょうど、和彦の部屋だけその日も空いているという。 ご主人も奥さんも、にこやかに客の応対をしていたが、 とても眠そうだった。 それが申し訳けなくて、ただ去り難かったのもある。 食堂のテーブルに座ると、奥さんが朝食の説明に来た。 「飲み物を選んでいただいて、どれにでも好きなパンをつける  ことができます。 パンは、トースト、ミックスサンド、ホットケーキ、  フレンチトーストの中からどうぞ」 「・・じゃ、フレンチトーストとコーヒーを」 とっても美味だった。 1ヶ月半ほど前にあの女がつくってくれた フレンチトーストとは少し違う。 どちらかというと、彼女が つくってくれたあの味のほうが好きかもしれない。 その日は、ペンションで借りた自転車に乗り、辺りを一周した。 森の中を散歩して、冷たい清流で顔を洗い、美術館に立ち寄った。 和彦が今ここにいることは、誰も知らない。母の小言も届かない。 自分だけが知る場所・・。 自分の目にだけ映る物、人・・。 そんなものを増やすことで、心が膨らむ気がした。   その夜、ペンションの主人と客との会話を耳にして立ち止まる。 「いや、彼女がどうしても浴衣で行くっていうんで・・」 「もうしわけないんですが、うちの家内、帯結びはできなくて」 「どうしたんですか?」 和彦は思わず口をはさんだ。 「いえね」 主人は困り果てた顔をしている。 「こちらのお客様のお連れの女性が、りんどう湖の花火大会へ  浴衣を着てお出かけになりたいって」 「彼女、言い出したら聞かないから・・」 若い男も頭を掻いている。 「僕でよければ、帯を結んであげますよ」 「え?」 ご主人も男も目を丸くしている。 「僕は、これでも着付けが仕事なんですよ、ちょうどよかった」 主人は、胸を撫で下ろしている。 和彦は、男の後についていった。 和彦の部屋とは反対側の突き当たりが彼らの部屋だった。 「雅美ー、着付けのできる人を連れてきた・・」 「え、本当?」 嬉しそうに振り向いたのは、昨日水辺で遊んでいた あの子だった。 彼女も和彦に気づいて驚いていたが、にっこり 笑って会釈した。  「どんな風に結びましょうか」 「え、どんなのがあるんですか?」 「うん、お文庫なんかが一般的だけど・・・」 「じゃ、なにか粋な感じにしてくれます?」 「それじゃ・・・」 和彦は、彼女の腰の回りにグルグルと半幅帯を巻き、後ろで「矢の字」 に結んでやった。 カレシは、その手さばきを不思議そうに見ていたが、 「なんか、いいじゃん。 男の着付師って格好いいよ」 と言った。 「じゃ、今度、アンタが覚えて結んでよ」と彼女。 「ばーか、お前が自分で覚えろよ」とカレシ。 「おうちは、東京ですか?」と和彦。 「ううん、私たち大宮から来たの」と彼女。 「それなら、今度うちの学院にぜひ習いに来てください」 後で名刺を渡しに行く。 営業活動してしまった。 翌朝、14日にペンションを立った。 「いろいろとお世話になりました」  ご主人にも奥さんにも丁重に挨拶をする。  「いいえ、こちらこそ、お客様の着付けをしていただいて」 「それじゃ、ご恩返しになってよかったです」 「あ・・」 和彦は、もう一つ訊いてみようと思った。 「あの、トゥリアンダってどういう意味なんですか?」 「ギリシャ語で、30っていう意味です。初めてギリシャに渡ったの  が、30歳のときだったから・・それだけです」 「また来ます」 「ええ、是非来て下さい」 お互いににっこり微笑んで別れた。 そうして、那須を後に、高速に乗った。 (つづく)



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