36.花の嵐  3月31日。 和彦は、学院の講師、笹峰マツに招待されて、彼女の息子の結婚式に 出席した。  「なにしろバツイチ同士なもので。ひっそり内輪で祝うことにした  んです。 若先生に是非来ていただきたくて」  式はチャペルで行われた。 娘の手を携えて2度目のバージンロードを 歩く花嫁の父。 正面に衿を正して立つ花婿。  今度こそ幸せをと願う当人たちや回りの思いがひしひしと伝わって くる。永久の愛を誓い合った後、花婿が花嫁のベールをめくり、 唇にキスをする。 お互いになんとなく照れていた。 ささやかではあるが心温まる良い式だった。やがて、ふたりは、 家族や友人達が見守る中、嬉しそうにライスシャワーをくぐり抜ける。 春の日差しを浴びて、その笑顔はキラキラと光っていた。 マツが亡き夫の写真を胸に抱えて、しきりになにか語りかけながら、 目頭を押さえていた。 帰宅すると、和彦は、さっそく新郎新婦の誕生年の紅白ワインを 開けていた。  ビイのグラスにワインを注ぎながら、 「ビイ、結婚しようか・・」とさりげなく口走る。 「え・・・・?」  「結婚って何回してもいいんだなあ」 次に彼の口から出てくる衝撃的な言葉を待っていたのに・・。 彼女はため息を付いた。 「じょ、冗談でそういう事言わないでくれる? 期待しちゃうから」 不機嫌そうに、引き出物の赤ワインを一気に煽った。 「冗談でこんな事、言うもんか・・」 「・・・・」 和彦は、本気でそう思ったのだ。 今日花婿が立っていたあの場所に 自分も立ってみたい・・と。 自分が思い続けた女が他の男の子供を 身ごもっていて、しかも自分の妹だとすれば、完全に夢は断たれるわ けだ・・。 “ビイと結婚する” 軽はずみだが自分にそう言い聞かせた。 「和彦、本気なの?」 ビイが固まった。  「もう7年近くつき合っているんだ。 結婚してるも同様だし・・」 ・・もうそれ以上は言わない、とでも言うように、和彦は、席を立つと、 畳の部屋に寝ころんだ。 ビイは自分の頬をつねってみた。 ・・痛い! 彼女の胸は高鳴った。 今声を挙げて大喜びしたら、 彼の気持ちが変わってしまうかもしれない。そう思いながら、 和彦の傍らに座って彼を見つめた。  「本当だよ」 彼が微笑みながらビイに視線を返した。  ある朝、和彦は、朝みそ汁の匂いで目を覚ました。 髪を揚げているビイのうなじがちらりと見えた。 彼女のような献身的な女なら、誰だって今ごろ結婚しているだろうな。 それにしても、後ろ姿がよく似ているものだ・・。 こんなに身近に香織に似た女と出会っていなかったら、 とっくにビイと・・。  「あら、起きたの?」 ビイがにっこり微笑む。 日曜の朝に ふさわしい爽やかな笑顔だった。 和彦のマンションの殺風景な台所も、彼女がいる朝は、温かい家庭の 匂いに包まれる。 「朝から結構つくったんだね」  「・・見直した?」  得意そうに腕を組むビイ。つまみ食いをしようとする和彦の手を叩く。 「まず、顔を洗ってからね」  ビイが桜が見たいので二人で目黒川沿いを散歩しようと言う。 いつもなら日曜の朝はゆっくり起きるビイが、早起きして朝食の用意 をしたのも、実はこのための弁当をこしらえていたからだった。 せっかくだから碑文谷公園まで行き、帰りに浅草まで足を延ばして 食事でもしようと和彦が言った。 和彦は、母の形見の衣裳箱から、淡いベージュ地の花柄模様のきものを 取り出して彼女に着せた。  「貴方のお母様の着物を着せてもらえるなんて嬉しいわ」 「きっとお袋も喜ぶよ」 「・・和彦・・」 ビイは目頭をあつくした。 そこに淡いピンク地の染め帯を合わせる。 初々しい新妻風の装いに仕上がった。 和彦も大島紬の着流しに羽織という着装に着替える。 和彦は、たもとから母のかんざしを取り出してビイの髪に挿した。 小指に紅を取って彼女の唇に引いたとき、風に舞い散る桜の花びらのよう な涙が彼女の頬を伝い落ちた。                ☆   和彦の部屋でそんな日々を送ってひと月ほどたったある日・・。 ビイが久しぶりに自分の部屋に帰り掃除をしていると電話が鳴った。 山梨の母からだ。 「・・え? あ、ごめん。ちょっと留守がちだったの・・・  え、今なんて言ったの・・・うん、うん、え? お父さんが・・   そんな・・」 電話を切った後、彼女は、へたり込んで暫く動けなかった。 何事もなく過ぎていくように思えた時間が突然に止まってしまった。 7年前に祖母を刺した父親が今度は隣町の工場に火をつけたという。 朝から晩まで酒を食らって毎日寝ころんでいたのだが、5日前の晩から 姿を消して、おとついの朝警察に連行されたそうだ。  母は、これから家族が抱える負債をどうしたらいいものだろうかと 相談してきた。 親族中に電話したが誰も取り合ってくれないという。 ビイは、呆然とした。                ☆ 和彦が新宿の沖田クリニックを訪れて2ヶ月が過ぎた。 待合室には、サングラスに加え帽子をすっぽり被った彼の姿があった。 彼は、うつむき加減で腕組みをして座っているので、受付の窓口から は、起きているのか眠っているのか定かではなかった。 受付をしている二人の女の会話が微かに彼の耳に届く。 「あら、娘さん、もう7ヶ月に入るの?」 「ええ」  「きくやさん、いよいよお婆ちゃんじゃないのー」 「やだ、お婆ちゃんだなんて、もう」満面に笑みを浮かべている。 そうか、やっぱり“きくや”と読むんだな、間違いない。 和彦は、呼ばれてカウンセリングルームへ入り、帽子とサングラスを 取った。 「最近は、眠れてますか?」 「自分では眠れているつもりなんですが、一緒に暮らしている彼女の  話では、毎晩のようにうなされて一度飛び起きるそうです」 「どういう夢を多く見ますか?」 「母が目の前で泣くんです。 僕はどうしていいのか分からなくて・・  あの・・」 和彦が顔を上げる。 「・・・・」 沖田も自然に前のめりになる。 「霊魂が成仏しないまま浮遊していて、生きている人間に何かを  訴えかけるなんてことは・・・あるんでしょうか」 「・・・さあ、どうでしょう」 沖田は首を傾げる。 「だとすれば、僕はどうしたら、母の気持ちを鎮めることができるん  でしょうか」 「・・・・」 「目に映る物、耳にする音を、人は五感全部で感じて、すぐに  笑ったり、怒ったりしているようですが・・   僕は、常に後ろ髪を引かれ、心の中で母をみつめ、母の声に耳を澄まし  てきたんです。いつまでたっても自分自身の人生が始められないん  です。人生をフルに楽しむなんて許されない気がして・・」 「お母さんが貴方にしてもらいたい事があるとすれば、それは何でしょう」 「分かりません。 でも、子供の頃からひどく僕の実の父を恨んで  いたように思います・・」 「実のお父さんに会ったことはありますか?」 「窓の外から顔を見たことはありますが・・」 「所在が明らかなんですね・・」 「ええ」 「お父さんに一度会って話をされてみてはいかがですか?」 「・・・・・」                ☆ 和彦は、その足で高円寺に向かっていた。 あの家の前まで来て立ち止まる。 もうすぐ昼になる。 中に誰かいるんだろうか。 暫く立っていると、中から中年男が 出てきた。 駅のほうへ向かって歩いていく。 片手に財布を持って いる。 和彦は、その背中を見つめながら歩き出した。 男は商店街に入ると、辺りを見渡してから、肉屋のカウンターに 走りより、揚げ物を指さしながら注文し始めた。 その袋を下げ、 今度は、果物やに立ち寄り、バナナやグレープフルーツを買い、 その後、酒屋に入っていった。 男は手にいくつもビニール袋を もっていた。 そして、また来た方向へと戻っていく。 思い切って、和彦は声を掛けてみた。 男が振り向く。 額にしわが寄っている。 「あの、菊谷さんですか?」 「・・ええ」 首を傾げる。 「あの、僕は・・・・」 「・・・・・」 男は、暫く和彦の顔を見つめていたが、やがて眉を  上げて、「和彦か・・」と言った。 和彦は、こっくりうなづいた。 二人は、近くの喫茶店に入った。 何から話していいものか分からなかった。  「お母さんは、どうしてる?」 「・・母は、去年亡くなりました」 「え?」 父は目を見開いた。その後目を細めてうつむいた。 「あの・・・」 「お前は賢い子だったなあ」昔を振り返っている。 「・・・・」 「歩くのも早かったんだ、10ヶ月より前だった」 目を合わせようとしない。 「あの、僕と母は貴方に捨てられたんでしょうか。それとも」 父が顔をあげて和彦を見つめた。 「すまない・・」 そう言ってテーブルに両手をつき、深々と頭を垂れた。 「・・・・・」 「私は、お前を虐待していたんだよ。始終、手を挙げていたんだ」 「僕は記憶にありません」 うっすら苦笑をうかべた。 「お前が顔に擦り傷をつくって鼻血を出していた、あれが私が見た  お前の最後の姿だった・・」 「母が、僕を連れて出た・・んでしょうか」 「・・・・」 父がうなづいた。 「それで、僕らの事は・・」 「追ったけれども、静香は帰らないと言った」 「それは口先だけのことで、実際は・・・」 「そうかもしれない」 「僕らが出た後、1年もしないうちに他の人と暮らすなんてこと」 和彦は、父を責めていた。 「和彦は、なんて言われて育った? お前は、俺の子だと言われたのか、  それとも魚住の・・・?」 「・・どういうわけですか? 責任逃れしようっていうんですか」 和彦は、大声を張り上げた。 父は、ため息をもらしながら、タバコに火を灯した。 「和彦、お前の血液型は、何だ?」 「A ですが・・」 「では静香は?」 「Bですね」 「私の血液型はBなんだ。 BとBの間からAが生まれることはある  かな?」 「え?」 和彦は当惑した。 じゃ、自分は・・? 「お前は、魚住の子供なんだ・・」 「そんな!」 そんなはずがない。 「聞いてなかったのか、もしかして魚住も知らなかったのか。いや、  知っているはずだ・・」 「静香が魚住に知り合ったのは、私と離婚してからじゃないんだ。  私と出会う前に彼女は魚住を知っていた。 ただ、無理やり・・  なんていうか、手込めにされて・・。 ちょうどその頃つきあい  はじめた私は、彼女が妊娠したと知ったとき、“絶対に自分の子だ”  と言って結婚したんだ。 でも、生まれてみて、明らかに違うことが  分かると・・・耐えられなくなって」 「それで僕に暴力を・・?」 「わけはどうあれ、済まない」 再び頭を下げた。 そうして、暫く沈黙が続いた後、店を出て、菊谷は左へ、和彦は右へ と別れていった。 分からなくなってしまった。 父親だと思っていた菊谷は、自分が 宗一郎の息子だと言った。 どうして宗一郎は、その事を知らなかった のだろうか。 自分自身の実体が掴めないまま、とぼとぼと歩いていた。 翌日、道場に行った。 打ち込みをするその竹刀の先にパパンドレウが歩いていた。 そして、その後を追ってきた彼女・・・。 ひとつだけ、分かったことがある。 彼女は、和彦にとって赤の他人だということだった。 (つづく)



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