26.橋のない川
9月に入って2週目の週末。パパンドレウが、和彦のマンションを
訪れた。
「日本の家は狭いですよ、どうぞ」
「ありがとうございます」
パパンドレウは、和彦の中の外国人のイメージとは違い、結構小柄な男だった。
身長は、170あるかないかぐらいで、体格は太っても痩せてもいない。顔は、
優しい大きな瞳に長いまつげ、頬はすこしふっくらしているが、ギリシャ神話の
神々を思わせる立派な鼻をしている。いつも穏やかな笑みをうかべているように
映るのは育ちのよさから来るのだろうか。
「住まいは、どこに決めたの?」
「この前、トゥリアンダの飯村さんと一緒に探しました。
吉祥寺の駅の南口を出て・・15分くらい歩きます。 バス、高い
です。 バス停3つ目の万助橋ね・・。 でも、歩くのは、健康に
いいです」
「それじゃ、井の頭公園のそばで、いいところでしょう」
「お金、少しだけ持ってきたので、暫くは、それで暮らします。
でも、仕事、まだ無いので探しています」
「そう、こころがけておきますよ」
「私は、ギリシャ語と英語とドイツ語、できます」
「・・凄いねぇ」
「大学時代、カナダにいました。 カナディアンパスポートも
持ってます」
「それじゃ、英語の先生なんてできるかもしれないね」
「お願いします」
☆
翌週末にビイがやってきた。
彼女が池袋の会社に勤めて、もうすぐ3年半になる。
ビイは、東武東上線の東長崎に住んでいる。
「そうねえ、外国人の仕事でしょ。 思い当たる節があるから、
月曜日にでもあたってみるね」
「あ、助かるよ」
「お母様の具合はいかが?」
「うん、癌のほうはもう心配は無いらしいんだけど、血圧が高くて」
「それは心配ね」
「いつも気に掛けてくれてありがとう」
ビイは、和彦とつき合い始めてもう4年以上になるのだなあと思った。
その間、他に親しくつき合った男性はいなかった。
和彦は、今年30になるし、母親からも「そろそろどう?」と毎回
催促されるので、ビイの事を考えてはいるのだが、それでも、
「結婚しないか」とは、言い出さなかった。
翌週、月曜の夜、ビイは、仕事の帰りに、外国人の仕事の事でマンション
に立ち寄った。
「あのね、今、営業活動してる女子高校が目黒にあるの。
そこの受付の花村さんにね、訊いてみたの。 そうしたら、
是非会ってみたいっていうの。 外国人講師の英会話レッスンを
導入してる学校なんだけど、今の先生がもうすぐイギリスへ帰って
しまうらしいの」
そう言って、その事務員の名刺を置いていった。
パパンドレウに電話をして、目黒までの行き方、高校の名前、
事務員の名前を告げた。 彼はさっそく面接にでかけると、即
就職を決めてしまった。 毎週火曜日と木曜日に授業にでるらしい。
その年の11月に和彦は30になった。
年が明けた半年後、94年5月。
和彦の自宅の留守電にパパンドレウからのメッセージが入っていた。
「魚住さーん、私、パパンドレウさんですぅ。 こんにちはー。
お陰さまで仕事楽しいです。 それから、可愛い日本人の彼女、
できましたー。 ありがとうございまーす」
とても幸せそうだった。
ある日、和彦は、新宿から山の手線にのり、品川へ向かっていた。
目黒まで来たとき、駅のホームでパパンドレウの姿を見かけた。
そして、その横で腕を絡ませて立っている女性の姿・・・・。
和彦は、息をのんだ。
降りて駆け出そうと思ったその時に、目の前の扉が閉まった。
確かに彼女だった。 絶対にそうだ・・。 忘れもしない。
5年前に雨の中で財布を拾ってくれたあの彼女だった。
糸川香織にそっくりなあの子だ。
水玉模様の緑色の傘のあの子だ・・。
パパンドレウの彼女・・・・なのか?
品川プリンスホテルで、着物の展示会が行われていた。
「あいにく、会長は、多忙を極めておりまして、本日は出席がかないま
せんでしたが、代理の魚住和彦より、みなさまに挨拶がございます」
そう言われ、和彦は、壇上に立ち、マイクを手に取ったのだが、
放心状態で、すぐに言葉が出てこない。 不思議そうに
見守るスタッフや出席者・・。
懐からメモを取り出しての、辿々しい挨拶になってしまった。
「どうしたんですか。 いつもの若先生らしくございませんよ」
「ええ、少し気分が悪くて」 和彦は額の汗をハンカチで拭った。
「それでは、今日は、もうお帰りくださいませ」
笹峰マツが、彼の背中を軽く叩いた。
彼女のことで、頭がいっぱいだった。
香織のしぐさや言葉も何度も頭を駆けめぐる。
「・・私は魚住くんが好き」
中3の夏の告白の言葉が心の中に響いている。
・・私は魚住くんが好き。
和彦も、そうつぶやいていた。
その香織がギリシャ人の隣に立っていた・・。
彼女をとられたくない。
帰宅途中、交差点で信号待ちをしていた。
通りの向こう側に、歯磨き粉の大きな宣伝ポスターが見える。
外国人タレントが白い歯を見せてニッコリ微笑んでいる。
和彦は、思わず、そこへ駆けていって、鼻のど真ん中に一発パンチを
食らわしてやった。
「このやろう、お前なんかに彼女をとられてなるものかー」
そう叫んでいた。 怪訝な面もちで振り返る歩行者の群れ。
「くそっ」 和彦は、駆けて家へ帰った。
その晩、ビイがやってきた。
真っ暗な部屋へ彼女を通す。
「いったい、どうしたの? 明かりぐらいつけたら?」
「・・・・・」
「ねえ、お腹空いてない? デパートでおいしい天重を買ってきたの。
一緒に食べましょう」
ビイは台所に入ると、いつもの湯飲みに茶を注ぎ、盆に並べて持ってくる。
和彦は、何も言わずに背を向けて座っていた。
「だいじょうぶ?」
そう言ってぴったり張り付いてくる彼女を振りきり、
「やめてくれ・・」とつぶやいた。
「え? どうして? どこか悪いの?」
その日は、ビイの優しい言葉さえ、うっとうしかった。
「やめてくれないかな。 そうやって奥さんぶるのはさ」
そう言ってしまった。
「先生・・」 ビイの声は、今にも泣き出しそうだった。
「私ね、この5年間、貴方と会っていられるだけでとても幸せな
気分だった。 だから、たとえこの先に結婚というゴールが待って
なくたって、悔いはないの、本当よ」
和彦は振り返らなかった。 彼女のすすり泣く声が聞こえている。
「何も求めないから、別れるなんて言わないで・・・」
和彦だって、今すぐビイと別れようなんて思っていない。
どれだけ今まで心癒されてきたかしれやしない。
神経質な自分の何もかもを受け入れてくれて、いつもにっこり笑って
くれた彼女を嫌いなはずはなかった。
たぶん、自分が一生寄り添っていけるのは、彼女のような女性なのだと
思う。 よく分かっていた。
けれども、ビイを、彼女だと思って抱いたこともあった。何度も・・だ。
あの女を思いながら、部屋を暗くしてビイを抱いた。
その罰がくだされたのか・・・本物に出逢ってしまった。
5年前に、あの女の家だと思っていた歯科医院は、彼女の家では
なかった。 あの後、尋ねてみると、その友達の女子大生が出て
きた。 それから、ずっと彼女を見失っていた。
その彼女が身近にいる。 いつ帰ってしまうか分からない外国人が
相手だ。 奪おうと思えば奪えるかもしれない。 恋の女神が
微笑むかもしれない。
彼女に会ってみたい。
どんな声で喋るのだろう。 香織にどれだけ似ているのだろう。
何をしている人だろう。 どんな香りがするのだろう。
それを思うと、ビイを抱く気にはなれなかった。
「ごめんなさい。 今日は帰るわね。 元気だしてね」
そう言うと、ビイは買ってきた天重に箸もつけずに、帰って
いった。
翌週、和彦は、夜の町の中で再びパパンドレウを見かけた。
その後ろには噴水が吹き出していて、照明の色が変わるたびに、
水が青や緑に変化していた。
こちらに向かって手を振っているので、手を振り返す。
和彦の後ろのほうから駆けていく女の影が一つ。
彼女は、パパンドレウの前で立ち止まって、彼の胸に飛び込んだ。
二人は長い口づけの後、噴水の前に並んで腰掛けた。
見つめ合う二人の男女のシルエット・・・。
和彦は、呆然と立ちつくした。
(つづく)
(話の続きへ)
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