29. 甦りし者
95年5月。
学院から本を何冊か発行することになり、
連休明けに、執筆活動に入る。
和彦は、「唐織り」「吉祥文様」の2冊を担当していた。
そのための自宅ワークで、家にいることが多くなった。
和彦は、最近、よくビイの部屋へ押し掛けていく。
ビイも、ほとんど前のように彼の部屋へ来るようになった。
相変わらず、親友に、彼のことを話さない。
「私だけの先生だから」という。
「でも、その友達は、誰かと暮らしているんだよね?
だったら、今度、紹介してよ」 と言うと、
「だめ、だめ、絶対に先生好みのタイプだから」と譲らない。
もう6年前から、彼女は、部屋鍵のキーホルダーを変えていない。
「これ、必ずつけてるね」
「あ、これ? 大学時代にお互いに贈り物をし合って、その時のなの。
なんだか外せないのよ・・」
「その友達も君のこと、そんな風に大事に思ってくれてるの?」
「そうね。 長年、こんな風につき合える友達って、なかなか見つ
からないからね。 よく彼女の家へ泊まりに行ったなあ・・」
「・・・・」
「彼女のお父さん、とつぜん雨が降ってきた日に、駅で2時間半も傘待って
彼女を待ってたんだって・・。弟さんもね、お姉さんの悪口なんていう奴は
誰でも張り倒しちゃうくらい姉思いで。それから、いつも穏やかで仕事と家庭
を両立してる賢いお母さん・・」
ビイは目をきらきらさせた。
そんな温かい家庭には縁のない和彦だった。
「へえ。いいねえ、そういうの」
☆
6月下旬。 うっとうしい季節になる。
金曜の夜から、和彦は、ビイの部屋で原稿を書いていた。
彼女が、土曜の昼頃になってから、
「先生、明日の朝まで、友達のところに泊まってもいい?」
という。
「あ、例の彼女・・?」
「そう。 カレシが旅行してて、明日まで帰らないんだって」
「じゃ、ゆっくり話せる良い機会だね、行っておいでよ」
「うん、ありがとう」
「ここで原稿書いててもいいかな・・?」
・・ペンが進みそうだった。 いきなり誰か訪ねてきたり、電話で呼び
出されたりという心配がない。
「いいわよ。 電話は留守電にしておくね。じゃ」
「行ってらっしゃい」 玄関先でにっこり見送った。
夕飯時、腹をすかせて、買い物に出ようとしたとき、
突然に、雨が降ってきた。 当分止みそうにない。
傘立てに、予備が一本もない。 さっき彼女が自分のを持っていって
しまった。 玄関の収納棚を覗いてみる。
たいてい、どこの家にも出先で買ったビニール傘くらいあるものだ。
モップ、自転車の空気入れ、ゴムホース、箒にチリ取り・・。
かき分けていくと、 あ、あれだ・・・それらしきものがある。
引っぱり出してみた・・。
どこかで見た覚えがある・・。
水玉模様の赤い傘・・・。
色合いや水玉の感じが似ている・・。
まさか・・・。
記憶の断片がパズルのように繋ぎ合わされていく。
中央線沿線の大学。 赤と緑の水玉模様の傘。 映画館。
ビイの首筋。 ビイに出会った夜の彼女の服装。 同棲中の友達・・・。
一つの考えが頭をもたげた。
和彦は、奥の部屋に戻って、押入を開けてみた。
左下のスペースは、冬服の詰まった収納ケースや段ボールが埋めている。
左上は、畳んだ布団や毛布類。 右側を開けてみる。
上の段・・。 細かく区分けされた小物の引き出し。裁縫箱。
・・あれだ。一番奥のほうに・・アルバムが何冊か見える。その一番
上に卒業アルバムのようなものもある。 それらを全部、取り出した。
角の擦れたアルバム・・これは、たぶんビイの子ども時代だ。
一番デザインや機能のスマートなもの・・これかな・・。
手に取ってみた。 開いてみると、会社の様子。仕事風景。慰安旅行。
飲み会。 少し新しすぎるか。じゃ、やっぱりこれだな。
卒業アルバムを開いてみた。 教養学部語学科か・・。
ひとつひとつの顔写真を指でなぞっていく。
これは違う。 これも違う。 似てるけど違う。 こんなのじゃない・・。
あ・・ビイだ。 普段ニックネームで呼ぶ彼女のフルネーム。
出会った頃、こんな顔してたかな、彼女。 今よりスリムだな。
その3つ目に・・・。
・・身震いがした。
糸川香織・・がいる!
不気味だ、なぜここに。 香織・・・・・愛しい顔。
ビイの親友って、 彼女なのか・・・。
あの時、目の前で揺れていた二つの水玉模様の傘・・。
緑色の傘を追っていたはずが、どういうわけか、赤いほうの傘と
寄り添っていた。 今でも緑の傘への想いは止まない。
ふたりは親友だった・・。
しばらく和彦は呆然とした。
翌日、昼過ぎにビイが戻ってきた。
なんだか、妙に彼女が色褪せて見える。
代わりにビイの親友が、彼の心に鮮明に映し出されていた。
君が今まで居た場所に、彼女がいたの?
彼女も、こんなふうに君を見ていた?
「ねえ、彼女が焼いたケーキなの、食べる?」
ビイが包みを開くと、甘い香りが辺りに広がった。
ビイが以前、持ち帰ったクッキー、スペアリブや漬け物まで、
全部、彼女の手作りだったのか。
最初のころ、食べた鶏肉料理、あれをつくったのも、彼女だったんだ。
あの台所で彼女が料理をして帰った後、僕がやってきてそれを食べた。
ビイを隔てた向こう側に、常に彼女は、いたわけだ・・。
7月に入ってから、
「今夜、彼女に会いに行くの。先生も行く?」
というので、思わずつばを飲んだ。
「え、いいの?」と訊くと、
「うん」 にっこり笑っている。
「どうして、今日に限って?」と尋ねると、
「彼女には紹介してあげない・・」という。
「・・・どういうこと?」
「あのね・・」
彼女が、バレエを習っていて、その発表会があるから、見に行こうと
いう誘いだった。
「バレエ、昔からやってるの?」
「ううん、最近始めたみたい。でも、中学、高校と、ずっと体操部
だったんだって」
体操部・・。
ビイの仕事の会議が長引いて、開演時間にだいぶ遅れてしまった。
暗いホールの中、腰をかがめて、真ん中の座席へ進む。
腰をおろして、すぐに前を見ると、ちょうどステージの中央に、彼女が
立っていた。 白い衣裳に身をまとい、続けざまにターンをする。
細いしなやかな手足を動かし、美しい舞いを繰り広げた。
頭上に輝く丸い月。
やがて、その青白い光の中に浮かぶ彼女のシルエット。
手の指先から足のつま先まで、ピンと伸ばし、一本の弓のような美しい弧
を描き出す。
和彦は、瞬きすることすら忘れて香織の名を呪文のように唱えていた。
心の奥の洞窟に眠っていた化石が息を吹き返していく。
彼の心に張り付いた分厚い氷もじわじわと溶けていく。
平均台の上を美しく舞っていた香織。
ある日蝶のようにどこかへ飛んでいってしまった。
今ふたたび蘇えって彼の目の前で踊っている。
・・ここにいたんだね。
和彦の頬を熱いものが伝い落ちていた。
(つづく)
(話の続きへ)
メニューへ