54.聞き屋 聡美は、毎日の時間を有効に使っていた。 日中30分は、ベランダに出て土をいじる。 今日は、新しい鉢にミニシクラメン、葉牡丹、黄色のジュリアンを 一株ずつ寄席植えしてみた。 2日前にこしらえたコンテナガーデン からアイビーがのびてベランダの手すりに絡み始めている。 咲き終えた花殻を摘んだり、水をやったり、肥料を足したりしながら ガーデンスペースを綺麗に維持している。 1年近く花屋に勤めて覚えたことが活きている。 それから美実と近くの公園へ散歩に行き、買い物をして帰って きた後、彼女が昼寝している間に、礼儀作法(礼法)の本に目を通したり、 編み物をしたり・・英文雑誌やペーパーバックを読みあさり、 ときどきギリシャ語の単語の本にも手が延びているのに気づく。 本当は、託児所付きのスポーツクラブにでも入会して、1時間くらい エアロビクスでもと計画していたのが、妊娠で予定が狂ってしまった。 そんな事を美恵子に話すと、美恵子は鼻で笑う。 「そういうの同情できない、予定が狂う? だってやることやってて  避妊もちゃんとしてないんじゃ、必然的な結果じゃない? 馬鹿ね」 彼女とは、お互いに携帯を持つようになってからよけいにしゃべるように なった。 美恵子の結婚式は、来年の5月だが、おかしいのは、 相手の男性のことを何も話さないことだ。 聡美と美恵子を知る共通の友人が、 「私も知らないの。 よっぽどのお爺さんか、じゃなかったら目も  当てられないほどの不細工な男だったりして」と言う。  でも、最近の美恵子は、とても楽しそうである。 将来設計や家計のやりくりを今から細かくやっている。 それに 何よりも生き生きしている。 よほど魅力的な男性か、実はやり手の 実業家か・・結婚式が楽しみだった。 「聡美、きづかない? 魚住さんに家の中に閉じこめられちゃったの。   一歩も外に出したくないんだね、きっと。 聡美が妊娠してほっと  してると思うよ、彼」と美恵子が笑う。 ある日、和彦は何を思ったのか、 「ストラティスとサキスの違いは何?」と尋ねてきた。 「・・私にもよく見分けがつかないのよ」 と、聡美はとぼけていたが、ストラティスの特徴として一つあげるとす れば、左肩のところにあるウズラの卵大の焦げ茶色のアザである。 和彦は、時々道場で顔を合わせるサキスがうっとうしくてならない らしいが、聡美は、彼が来日してから一度も顔を合わせたことがない。 ときどき、ストラティスの事を思い出すこともある。 遙香にも子供ができただろうか・・と思う。 こうなってしまったけれども、お互いに今幸せだとしたら、 それでいい・・と思えるようになってきた。 和彦は、美実にとても優しい。 聡美がやたらと玩具を買ってくると 「無分別に物を与えるのはよくない」と怒るし、窓に鍵をかけ忘れると、 「美実が出たら危ない」と、怒鳴る。  そんな事が嬉しくて、聡美も真剣に和彦の気持ちに応えようとしている。  和彦が美実を膝に抱いて新聞や書物に目を通す姿には感動した。 「これなら一緒にやっていける」と思った。 しかし、和彦がうるさいのは、それだけにとどまらない。 聡美が、「近くに買い物に」と言って30分以上戻らないと、 もう迎えに出てくる。  聡美が、友人と会うというと、必ず名前と住まいを訊いてくるし、 仕事場から何度も自宅に電話を入れてくる。 思われているのだろうけれども、時々息苦しくなってしまう。  聡美は、火曜日に学院に通っている。週3日コースの友人寛子が、 「聡美、魚住先生に愛されてて、羨ましい」と言うので、 「なにか有ったの?」と訊くと、 「授業中に妻の自慢やノロケを聞かせるんだから」という。 笹峰マツも 「あんなに生き生きした学院長を見たことがない」 「聡美さんを崇拝してるみたい」と笑う。 和彦は婦人科の検診にも付いてきた。 超音波の静止画像を、見ながら、何も異常はないという医師に 「体の形がおかしくはないですか」と確かめる。 混み合う待合室で、聡美がつわりでつらそうにしていると、  「順番、はやくならないかな」と受付の看護婦に尋ねるほどだ。 そこまで男性に丁重に扱われると、なんだか「風と共に去りぬ」 のレット・バトラーの親ばかぶりを彷彿とさせる。  ということは、自分はスカーレットなのに違いない。   ドレッサーの前で髪を解く聡美、後ろから和彦が聡美の肩を包みこむ。  頬と頬をくっつけて、 「どこにも行かないよね」 誰にも見せない子供のような表情で訊く。 「だいじょうぶよ」と応えると、 「・・よかった」と安心して息をつく。 それが毎晩のことなので、彼が通っていたクリニックに勤める母に話してみると、 「・・本人が安心するまで受けとめてあげて」 とのことだった。 ある日、昼頃から父晴彦が、シュウマイを買って、聡美と美実に 会いに来た。 「ようやく大掃除を終えて一息ついたよ。たまには二人の顔を見ながら  食事でもしたいと思ってね」と包みを差し出した。  それを皿に移し蒸気が上り始めた蒸し器に入れている聡美の後ろで、 「和彦は元気か」と晴彦が尋ねる。 実の父親が夫のことをそんな風に案じるのが妙だった。 和彦が2歳までそばにいたのだから無理もないが。 飯を頬張りながら、 「あいつの名前は俺がつけたんだ・・なんとなく分かるだろう」 と言う。 優しい笑みがこぼれる。 「聡美という名前も・・俺がつけたんだぞ」と付け足す。 そうしてみると、和彦は、何と身近な存在だろうか。 同じ人間に 見守られながら生まれて、同じ人間によって名付けられた・・。 「もし・・」晴彦の顔が真剣になる。 「もしあいつが何かの拍子に豹変して暴力的になるようなことがあれば  それは、俺のせいなんだ」 ・・そんな事は無いか? という顔で聡美を見る。 「だいじょうぶよ、彼とてもやさしいの」と聡美は答えた。 「・・そうか、それはよかった」 晴彦はほっとする。 食事の後、茶をすすりながら、晴彦は話を続けた。 「俺も2歳のときに母親に連れ子されて菊谷の家に入ったんだが、  菊谷の父は、ときどきとても暴力的だった。 剣道の稽古も厳しか  ったが、よく雪の中に立たされて竹刀で背中を打たれたなあ。  稽古の延長なのか、嫌がらせなのか見分けがつかなくなった。  自分では、愛情だと信じようとしていたが、今になって思えば  虐待だったんだよ。 稽古が終わった後も、自分だけ走らされたり、  家に入ると、弟たちだけ菓子を食べていたりしたものだった。  その菊谷の父も、養父に育てられたのだから菊谷家というのは、何と  宿業(しゅくごう)の深い家であることか。 代々、男は父親に  縁がないのだ。 康平がまっすぐに育ってくれたことを、俺は  本当に有り難いと思っているよ。 お前も良い娘に育ってくれた。   滋実のおかげだ・・。 俺の代で全ては断たれたと思っていたんだが、  考えてみれば、最初に菊谷の家に生まれた和彦。あいつがいたんだ よなあ」 「・・だいじょうぶよ、お父さん」  「そうか・・、魚住家の跡取り息子。 装愛きもの学院の学院長。  子ども時代は苦労したかもしれないが、今はそれが報われている。  本当によかった・・」 「菊谷の家も、大昔は作り酒屋だったんだ。大きな酒蔵をいくつも  持っていたそうだ。 何代か前に家事で全焼してから縮小されて、  曾お爺さんの代には、小さな酒屋になってしまったが。 近所の家  一軒一軒を回るご用聞きだったことから、屋号を「聞き屋」と  いう。 今でも地元ではそう呼ばれているよ」 そう言った後で、その家の血は、晴彦や聡美の体には一滴も流れて いないことを皮肉に感じた。 そう、父醍醐の体にも菊谷の血は、 流れていない。 さらにその父の体にも・・・。 いつの代からか、 菊谷家というのは、同じ運命を受け継ぐ人間の鎖のようになっていた のだった。 その晩、枕を並べて隣で寝ている聡美に、和彦は再び訊く。 「聡美は、もうどこにも行かないだろう?」 聡美は、 「もうどこにも行けないわよ、だって・・」 そう言って、和彦の手を自分の腹にあてがう。 「ね?」 そうやって微笑むと、 「聡美、聡美」 和彦は、何度も名前を呼び、彼女の手を握りながら 眠りにつくのだった。 (つづく)



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