7.疑惑 9月に入ったとはいってもまだまだ残暑は厳しい。 聡美は、まだ日常の殆どを実家で過ごしていた。 ストラティスと2年間過ごしたアパートへは、まだ娘を連れて 戻ったことがない。 最寄りの駅、吉祥寺に降りて、見慣れた 景色や店の看板を見るにつけ、いろいろな思いが突き上げてきてしまう。 昨日の夕方、ストラティスが師範代として合気道を教えていた道場の 先生から電話を受けた。 「こっちへ来ることがあったら寄ってくれませんか」 「私も肥田(こえだ)先生には、ご挨拶に伺いたいと思っていた  ところです」 寺近くのスクランブル交差点で、信号が赤になり、聡美は立ち止まった。 動き出した車の流れの向こうに、見覚えのあるシルエットを 目にする。 「花村さん?」 聡美は、手を振った。 相手はきづかない。 左右を見渡して、誰かを待っている様子だ。 行き交う人の中で見え隠れしている。 信号が青になり、聡美は人の間を縫うようにして横断歩道を 渡りはじめる。 時々、背伸びをして、花村のいる方向を確認する。 ところが、もうすぐ渡り終えようという時に、その姿はどこにも見あたらず 蜃気楼でも見ていたかのように、聡美はそこに立っていた。 腕時計に目をやる。 もう10時だ。 道場の肥田先生には、10時頃伺うと告げている。 聡美は、寺の境内に入っていった。 道場のほうでは、剣道の稽古をしている若い主婦達の声が響いている。 ちかづいていくと、入り口のところに立っていたひとりが会釈する。 「やあ、聡美くん、いらっしゃい、客殿に入って涼んでおいで、今  稽古をつけたら、行くから・・」 防具をつけているが、その声は、肥田だった。 小学生の頃、2年間くらい、ここで空手を習っていた。 この辺りで隠れん坊をした覚えがある。 聡美の家族は、彼女が6年生になるまで、ここから歩いて10分 くらいのアパートに住んでいた。 聡美は、生け垣に沿って客殿へと歩いた。 玄関の引き戸を開けると、綺麗に掃き掃除されたコンクリートの上に 靴は一足も見あたらない。 奥の部屋の窓が開いているようだ、 風鈴の音が聞こえる。 聡美は、正面に向かい靴を脱いでから 膝をついて靴先が出口に向くように揃えて置き直した。 つるつるに磨かれた廊下を、靴下で滑り具合を確かめるように歩いていく。 20畳ほどの部屋に、長い座卓が3つほど縦に付けられて並んでいる。 部屋の一角に、寺の名前の入った紺色の座布団が幾列も積み上げられて いる。その一つをつかむと、座卓の一番床の間に近いところに 席を陣取った。風鈴がちりんと鳴るたびに、涼しい風と一緒に、蚊取り 線香の匂いが漂う。 やがてガラス戸が開く音がして、大きな足音が2〜3歩聞こえたかと 思うと、肥田が顔を覗かせた。右手にグラスが二つ載った盆を持ち、 左手には麦茶の容器をぶらさげているが、それらが、やたらと小さく見えた。 「聡美君、よく来たね。赤ちゃんは元気かい?」 「はい、お陰様でもうすぐ1ヶ月になります」 肥田は、グラスを一つ聡美の前に置き、自分の分はその正面に置いて おもむろに麦茶を注ぐと、あぐらをかいてすわった。 「ストラティスくんがいないから、うちも人気が落ちてしまった。  昼間に来ていた主婦の数も減ってしまったんだよ。あはは」 そう言って、麦茶を一気に飲んでしまった。 「でも、5年も日本に帰ってこれないなんて、残念だね」 「せっかく、先生に雇っていただいたのに・・・」 「5年は長いなあ」 「いづれ、私の方から子供を連れて行こうと思ってます」 「そうだね・・あ、そうだ、これは、その足しにならないかもしれ ないけれども・・忘れないうちに渡しておくよ」 肥田は、茶封筒を聡美に差し出した。  それはいつもよりも厚みを持っており、肥田の手を離れるときに チャリッという鈍い音がした。  「少ないけど、給金と僅かばかりの気持ちだよ」 聡美が受け取って、中身を確かめようと封を切ろうとしたが、肥田に 遮られた。  「しまいなさい、封を切らないで、おうちへ持ってお帰り・・」 にっこり笑った。聡美は、封筒をバッグにしまい込んだ。  「あ、聡美くん、いくつになったね?」 「29になりました」 肥田は頭を掻いた。 「そうかー、もうそんなになるか、いつまでも小学4年生のまんまの  つもりでいたよ。」 聡美は、グラスを手にとった。黒い懐かしい色の麦茶が香ばしかった。 一気に飲み干してしまった。  「7月13日の朝は、いい天気だったね」肥田が思い返している。 「ストラティスが入国管理局へ送られた日ですね」 「おかしいと思うだろう? 以前、うちには、ヨーロッパからの留学生 なんかが大勢、武道の稽古に来ていたんだよ。入国管理局なんて、 これまで来たことはないんだ。ストラティスくんだって、 普段、ワークビザで働いていて、たとえ入管がやってきたって、お咎め 無しの身だったはずだよ。 それが、たったの5日間、手続きをするまで の間、仮に観光ビザでいた。 賭けはするものではないけれども、 それにしても不思議だね。 誰かの手が働いてはいまいか・・」 ・・まさか・・聡美には見当がつかなかった。 誰のことも疑いたくはない。 首を横に振った。 「ビザの事を知っていたのは、誰かね? 私は彼から聞かされていたけれど も、誰にも話してないからね」 「誰か知り合いのものが入管に知らせた・・と?」 「そう思いたくもなるよ。」 肥田は、床の間の脇に寄せてある扇風機をこちらに向けて、オンにした。 顔中に玉の汗をかいている。 「まったく、あと3日もすればマニラに向かうはずだったのに」 肥田は悔しそうだった。 「あのー、仕事の関係で5日延びたんですよね。 何のお仕事だったん ですか?」 「あー、道場の仕事では無いんだよ・・・ほら、確か、もう一つの」 「え? こちらの仕事じゃないんですか?」 「ストラティス君は道場の仕事だって言ってたの?」 聡美はこっくり頷いた。 「高校のほうで、英会話の新しい教材がアメリカから届くとかで、  その確認のため・・って聞いていたけれどもね」 聡美は、そんな事は一つも聞かされていなかった。 「私に叱られると思ったんでしょうか。肥田先生から頼まれた事なら 私が快くオーケーすると思ったのかもしれません」                       ☆      「何か困ったことがあったら、いつでもいらっしゃい」 肥田が門のところまで見送りに出た。 聡美は深々とおじぎをすると、人の流れに混じって歩きだした。 駅に向かって、サンロードを歩いていると、そこは、既に昼の にぎわいだった。 時計は、11時半。 聡美もカレーや惣菜屋の揚げ物の匂いに空腹を感じた。 どこかに入って軽い食事をとろうと辺りを見回していると、 20メートルほど先の喫茶店から遙香が出てくるのが見えた。 聡美は足早にちかづいていった。  遙香は、手に持っていた白い帽子を被り、その大きな鍔を両手でつまみ 耳を覆うしぐさをする。 その指先の動きが、いつになく繊細で 一瞬、声をかけることをためらってしまう。 「は、遙香だよね?」 「あ、聡美」 遙香は目をまるくする。  何か意味でもあるのか、駅の方向に暫く目をやっていたように  思えた。 「ひとり?」 「うん」 遙香はどことなく落ち着きがなかった。目が泳いでいる。 「肥田先生に会いに来たんだけど、お腹空いちゃった。よかったら、  マック・・・つきあわない?」 「うん、ごめん・・今、喫茶店で軽く食べちゃったから」 以前なら、「しようがないなー、コーヒー、一杯、また飲むことにするか」 とでもいいながら、どこへでも一緒に行ってくれたのに。 「そ、そうだよね。」 「うん、またね」 遙香は、聡美と目も合わせずに、走り去っていった。 (つづく)



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