「エホバ」のみ名−対話シリーズ

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対話6.マタイはへブル語で聖書を書いたか?


クリスチャン:

ものみの塔では、クリスチャン・ギリシャ語聖書の著者たちも四文字語を使っていたと教えていますが、その証拠はあるのでしょうか。

エホバの証人:

参照資料付き聖書1756頁には次のように記されています。
[マタイは霊感によるヘブライ語聖書から100回以上も引用しています。マタイとしては、神の名の含まれている箇所を引用する際、忠実さを示して、ヘブライ語によるその福音書の記述に四文字語をそのまま含めざるを得なかったでしょう。マタイの福音書がギリシャ語に翻訳されたとき、当時の慣行に従い、四文字語は訳されずにそのままギリシャ語本文にとどめられました。]

(パピアスの言葉)

クリスチャン:

マタイがヘブライ語で福音書を著したということはどうして言えるのでしょうか。

エホバの証人:

『聖書から論じる』90頁によれば、4世紀のヒエロニムスがその事実を伝えています。

クリスチャン:

マタイの福音書の執筆者に関しては、2世紀のイレナイオスや4世紀のヒエロニムスの証言があります。これらの記述は、パピアスの「マタイはヘブライ語で神の語録を集成した。そしてめいめいが、自分にできるだけをしてそれらを解釈した」という言葉(「エウセビウスの教会史」、3,39,16)が基になっていることが一般に認められています。従って、パピアスの言葉をよく吟味してみる必要があります。

エホバの証人:

パピアスもマタイが書いたと述べているのではないでしょうか。

クリスチャン:

ことはそれほど簡単ではないのです。問題は、「神の語録」というパピアスの言葉(ギリシャ語でタ・ロギア)は、何を意味していたかということです。この言葉は、ものみの塔が主張するように、今日のギリシャ語のマタイの福音書のもとになったヘブライ語のマタイの福音書と解釈する学者はほとんどいません。

エホバの証人:

どうしてでしょうか。

クリスチャン:

当時のユダヤ人はヘブライ語を使わなくなっていましたので、マタイがヘブライ語で福音書を書く必要はなかったのです。

エホバの証人:

そうでしょうか?

クリスチャン:

それに、文体などの観点、あるいは他の福音書との関係などから、今日手にしているギリシャ語のマタイの福音書がヘブライ語からの翻訳とは考えにくいのです。

エホバの証人:

どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。

クリスチャン:

例えば、二つの文書に同じような文章が出てきたとします。その場合、どちらかの著者が他を参考にしたか、あるいは両者が共通の資料をもとにした、ということが考えられます。マタイの福音書とマルコの福音書、さらにルカの福音書の間には相互に関連がある文章がたくさん出てきますので、マタイの福音書がヘブライ語からの翻訳とは考えない方がよいのです。

エホバの証人:

そうですか。

(「神の語録」とは何か)

クリスチャン:

パピアスの「神の語録」の解釈は三通りあります。まず、マタイの福音書が作成されるにあたって利用されたと推測される「イエスが語られた言葉を集めたもの」です。二番目は「イエスがメシアであることを証明するような言葉をヘブライ語聖書から集めたもの」です。最後に、現在のマタイの福音書とは全く別個に書かれた「アラム語による福音書」です。

エホバの証人:

最後の見解はものみの塔の主張のような気がしますが。

クリスチャン:

ちょっと違います。ものみの塔は、マタイの福音書に四文字語が残っていることを証明するために、マタイの福音書はヘブライ語からの翻訳だと主張したいのです。それに対してここで言われている三つの可能性というのは、現在のマタイの福音書がヘブライ語からの翻訳ではありえないということから出発しています。

エホバの証人:

よく分りません。

クリスチャン:

例え、マタイが最初にアラム語で書いたとしても、今日私たちが手にしているギリシャ語のマタイの福音書とは長さも内容も違ったものを想定しているのです。

エホバの証人:

別の福音書と考えた方がよいのでしょうか。

クリスチャン:

同じ人が書く以上、無関係なはずはないのですが、翻訳とは考えない方がよい、ということです。

(マタイは四文字語を残したか)

クリスチャン:

では百歩譲って、今日のマタイの福音書がヘブライ語から翻訳されたものとして話を進めてみましょう。では、マルコの福音書の場合はどうなるのでしょうか。それはヘブライ語から翻訳されたわけではないでしょう。

エホバの証人:

マルコをはじめ他の使徒たちがクリスチャン・ギリシャ語聖書を執筆したときには七十人訳を使いました。その七十人訳には、四文字語が残されていましたから、それを引用した際には、四文字語もまた残っていたはずです。

クリスチャン:

七十人訳において四文字語がどのように扱われていたかはとても重要な問題です。別の機会に考えることにしましょう。ところで、クリスチャン・ギリシャ語聖書の写本は現在いくつぐらいあるかご存じですか?

エホバの証人:

断片的なものも含めれば5,000ほど、他の翻訳の写本なども含めると13,000ぐらいになります。

クリスチャン:

それらの写本の中には、ただの一つでも、エホバのみ名は出てきませんね。

(書士によって置き換え作業がなされた)

エホバの証人:

聖書を筆記した書士たちが、エホバをキュリオス(主)あるいはセオス(神)という言葉に置き換えてしまったのです。

クリスチャン:

それはいつ頃のことですか。

エホバの証人:

「洞察」によれば、使徒時代から相当の年月が経ってからです。

クリスチャン:

相当の年月というのは3〜4世紀のことでしょうか。このことは2世紀の写本も見つかっていますので、矛盾するように思えます。それは別の機会に論ずることにしましょう。

エホバの証人:

使徒たちの時代の後、大規模な背教が起こり、エホバというお名前が消されてしまうのです。

クリスチャン:

ものみの塔が教える歴史は自分たちの教理に合わせて解釈した独特のものです。それについてもまた、別に話し合う必要がありますね。でもちょっと考えてみてください。エホバ神は、神の言葉を私たちに間違いなく伝えるため、13,000以上もの写本を残してくださいました。しかし、もっとも重要で、必ず使わなければならないはずのエホバのみ名に関しては、ただの一冊の写本をも残してくださらなかった。そういうことでしょうか。

エホバの証人:

そういうことです。

クリスチャン:

それでは、エホバの証人が信じるエホバ神は歴史を支配する神と呼ぶにはふさわしくないようにさえ思えます。

エホバの証人:

それは言いすぎではないでしょうか。 「
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対話7.七十人訳とエホバのお名前


クリスチャン:

新世界訳はどうして神のみ名エホバを237箇所において挿入したのでしょうか。

エホバの証人:

神のお名前はクリスチャン・ギリシャ語聖書にもともとあったものを訳出したのです。ですから、挿入したのではなく、復元したと言うべきです。

クリスチャン:

もともとあったのであればむろん問題はありません。しかしそう考える人はエホバの証人以外にはありません。

(ハワード教授の説)

エホバの証人:

そのようなことはありません。参照資料付聖書の1756頁には、ジョージ・ハワード教授が次のように述べています。
[新約における旧約[聖書]の直接および間接引用箇所には当初、神の名が記されており、時を経るうちに、それがおもに代用語クス[「主」を意味するキュリオスの省略形]に置き換えられたというものである。我々の見解からすると、四文字[語]がこうして除かれたことにより、初期の異邦人のクリスチャンの思いの中に『主なる神』と『主なるキリスト』の関係について混乱が生じた。このことは、新約本文そのものの伝承に反映されている。]

クリスチャン:

確かにハワード教授は、クリスチャン・ギリシャ語聖書に四文字語が残されていたという仮説を提唱しています。この問題については後に触れることにしましょう。

エホバの証人:

七十人訳のファド266という写本をはじめいくつかの七十人訳の写本には四文字語が出てきます。参照資料付き聖書はそのデータを詳しく紹介しています。これらの事実から、クリスチャン・ギリシャ語聖書の著者たちも四文字語を使ったということは間違いありません。

クリスチャン:

七十人訳において四文字語がどのように取り扱われたかということはとても興味深い問題です。今日多くの写本が見つかっていますので、その研究成果も公表されつつあります。

エホバの証人:

七十人訳に四文字語が残されているものがあるのですから、それで十分なのではないでしょうか。

クリスチャン:

それほど簡単なことではありません。例えば、死海写本の中にレビ記の断片的な写本(4Q LXX Levb)が見つかりました。それは紀元前100年頃のもので、おそらくファド266号より古い、世界最古の七十人訳の写本と思われます。その写本では、四文字語はなく、四文字語は「イアオ」というギリシャ語で表されています。そんなわけですので、イエスの弟子たちがクリスチャン・ギリシャ語聖書を書くときに使用したと思われる七十人訳には、四文字語が残されていたのかどうかははっきりしないのです。

エホバの証人:

そうでしょうか。

クリスチャン:

最近発見された死海写本には、ヘブライ語聖書では四文字語が出てくるところがアドナイという文字が当てられており、その上に線が引かれて四文字語が書き換えられています。それは筆記者は口述筆記をし、その後他の人が訂正したと考えるとよく説明がつくのです。

エホバの証人:

よく分らないのですが。

クリスチャン:

少し専門的すぎるかもしれませんね。ところで、次のことを知ってください。四文字語が七十人訳に残されていたとしても、そのこと自体は当時の人々が四文字語を使っていた(発音していた)ことを意味しないということです。ハワード教授も先の論文のはじめに、七十人訳において四文字語が出てくることとそれを発音したこととは区別しなければならないとわざわざ断わり書きをしています。

エホバの証人:

四文字語が残っていてもエホバと発音されなかったのですか。

クリスチャン:

そうです。死海写本のハバクク書注解(これはヘブライ語で記されています)では、聖書本文には四文字語が使われていますが、注解の方になると神(エル)と言い替えられたり、4つのドットで四文字語が表されています。これは四文字語を使うことは恐れ多いと考えたからです。

エホバの証人:

そうですか。

クリスチャン:

ヘブライ語聖書には、もともとエホバをアドナイ(主)と読んでいる箇所は多数あるのですが、死海写本のイザヤ書では、四文字語はすべてアドナイと発音されていたふしがあります。

エホバの証人:

どうしてそのようなことが分るのですか。

クリスチャン:

もともとのヘブライ語のテキストでは四文字語になっている箇所で、死海写本ではでアドナイとなっている箇所が多数発見されました。さまざまの事情を考慮して、先のハワード教授は、イザヤ書の写本において四文字語とアドナイとが混同して出てくる現象は、写本を筆記させた人が四文字語もアドナイも両方とも「アドナイ」と読み、それを筆記していた人がその時に頭に浮かんだ方の言葉を書き留めたと考えるのが一番よいというミラー・バロウズの解説を紹介しています。

エホバの証人:

四文字語がアドナイと呼ばれていたというのは信じにくいのですが。

クリスチャン:

そのことは今のユダヤ人でもしていることなのですよ。ヘブライ語聖書においては四文字語は大変尊重され、畏敬の念を持たれていましたから、七十人訳に訳されたとき、すんなりキュリオス(主)というギリシャ語に翻訳されなかったことは十分に考えられます。

(四文字語が残された理由)

エホバの証人:

文字が残されていることとエホバと発音することとは別だったと言うのですね。

クリスチャン:

そうです。仮りにヘブライ語聖書が七十人訳に翻訳されたとき、四文字語が訳されずにそのまま残されたとしたら、それは神に対する畏れ、敬虔な態度からであったことを忘れてはなりません。

エホバの証人:

「洞察」の一巻392頁には、ユダヤ人が神の名を使わなくなったのは迷信的な理由からであるとされていますが。

クリスチャン:

ユダヤ人が神のみ名を唱えなくなった理由は十戒の三戒にあります。出エジプト20章7節を読んでくださいませんか。
[あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げるものをエホバは処罰せずにはおかないからである。]
ユダヤ人がエホバのみ名を使わなくなったのは、エホバ神を恐れ、不敬虔な態度でみ名を使うことによって、み名を辱めることがないようにとの気ずかいからでした。従って、決して単なる迷信ではありませんでした。

エホバの証人:

敬虔な心で呼べばよかったのですから、迷信的だったと言えるのではないでしょうか。

クリスチャン:

行きすぎという意味で、迷信的というのであれば、その通りです。洞察ではそのような意味の迷信とは、解説していませんね。

エホバの証人:

そうですね。

クリスチャン:

もし七十人訳において翻訳者たちが四文字語を翻訳せずにそのまま残したとしたら、その理由は四文字語を神聖視し、翻訳することをためらったことにありました。他の言葉で訳すことを躊躇したということです。決して、1世紀の人々が日常的に使い、発音していたという証拠ではありません。 「
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対話8.エホバのみ名はいつ置き換えられたか


クリスチャン:

ものみの塔は、クリスチャン・ギリシャ語聖書に記されていた四文字語はいつ頃、主に置き換えられたと教えているのでしょうか。

エホバの証人:

「洞察」によれば、次のように述べられています。
[それはイエスやその使徒たちが亡くなってから何世紀か後に起きたようです。]
        [それで、セプトゥアギンタ訳の中の「四文字語をキュリオスで置き換えた」、いわゆるキリスト教徒とは、イエスの初期の弟子たちのことではありません。それは予告された背教が相当発展し、キリスト教の教えの純粋さが損なわれた何世紀かの後の時代の人々のことなのです。]

クリスチャン:

この文章からですと、いつ頃と考えるのがよいのでしょうか。

エホバの証人:

3ないし4世紀のことではないでしょうか。

(P46の写本から)

クリスチャン:

写本の一つに、エジプトで発見された断片的な写本、チェスター・ビーティ・パピルスの第二(P46という符号で現される)というのがあるのをご存じですか。

エホバの証人:

「洞察」で読んだことがあります。

クリスチャン:

それれは一枚ずつ折り重ねたパピルスの写本で、元来104枚あったのですが、現存するのは86枚のみです。そのいずれにおいても多少の破損が見られますが、きわめてよい状態で保存されています。ローマ人への手紙の一部、コリント人への手紙第一、コリント人への手紙第二、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、テサロニケ人への手紙第一の一部など8つのパウロの手紙とヘブライ人への手紙が含まれています。

エホバの証人:

そうですか。

クリスチャン:

この写本は一般にいつ頃のものと考えられているかご存じですか。

エホバの証人:

200年頃のものだと聞いたことがあります。

クリスチャン:

今日まで、ほとんどの学者はそう考えてきました。ところが最近、写本研究の第一人者キム博士が、それらの写本は1世紀後半、それもドミチアヌス皇帝の時代(81年頃)のものではないかと発表しています。これは未だすべての学者が承認しているとまでは言えませんが、大変興味深い研究で、多くの学者が注目しています。

エホバの証人:

どうしてそのような年代が分るのですか。

クリスチャン:

P46の書体は2、3世紀のものではなく、1世紀後半のものに類似しているというのです。

エホバの証人:

そのような研究が四文字語をキュリオスに置き換えた年代と何か関係があるのでしょうか。

クリスチャン:

多いにあります。この写本が扱っているテキストは、パウロがヘブライ語聖書から引用している箇所を相当数含んでいます。もしパウロが四文字語を書いたとしたなら、この写本の当該箇所に当然出てくるはずです。それなのに、ただの一か所も出てこないのです。

エホバの証人:

そうですか。

クリスチャン:

よく考えてみてください。この写本に含まれているパウロの手紙のあるものは60年頃に書かれています。もしパウロが四文字語を書いたと主張するのであれば、ものみの塔が主張する四文字語から「主」への書き換え作業は、60年から80年の20年間になされたと考えなければならなくなります。

エホバの証人:

それはそうです。

クリスチャン:

ところがその20年間にそのようなことが起こったと信じられますか。

エホバの証人:

それでも、その写本はパウロが書いた原本ではなく、写本ですから、パウロが四文字語を書かなかったと言うことはできないのではないでしょうか。

クリスチャン:

もちろん、原本が見つからない限り、決定的なことは言えませんが、これまでのものみの塔の説明では不十分だとは認めていただけるでしょうか。60-80年と言えば、未だヨハネをはじめとする使徒たちが活躍している期間です。先の洞察の説明とは全く違いますよね。

エホバの証人:

そうですね。

(ハワード教授の回答)

クリスチャン:

ジョージ・ハワード教授のことを覚えていますか。

エホバの証人:

七十人訳に四文字語が見つかったことを根拠にして、イエスの弟子たちが記したクリスチャン・ギリシャ語聖書の原本には四文字語があったと主張した学者ですね。

クリスチャン:

そうです。実は、スエーデンのルド・ペルソンというエホバの証人だった人がキム博士の論文を読んで、ジョージ・ハワード教授に感想を求めました。ハワード教授はキム博士の論文を読んで、ペルソン氏に次のような返事を送りました。
もしキム博士の年代研究が正しいとすれば、1世紀のパウロの手紙の写本には、私が示唆したように四文字語は使われなかったことになる。このことは私の理論を、少なくともパウロの手紙に限っていえば、きわめて薄弱なものにする。福音書および他の書簡がこのP46のパターンに従っているかどうかは未だ推測の域を出ないけれども。

エホバの証人:

そうですか。

クリスチャン:

ハワード教授がクリスチャン・ギリシャ語聖書に四文字語があったと仮定した方が説明しやすくなる箇所としてローマ10:16-17、14:10-11、Tコリント2:16、10:9、Tペテロ3:14-15をあげています。

エホバの証人:

5箇所ですか。

クリスチャン:

ペルソン氏への返事によると、パウロの手紙に限りハワード教授の仮説は間違いであることが証明されたことになりますので、結局、1977年の論文は全面的に撤回されたということになるのではないでしょうか。

エホバの証人:

Tペテロ3:14-15は、P46に含まれていませんので、全面的というのは言いすぎではないでしょうか。

クリスチャン:

そうですね。でも、エホバの証人の方々には、ハワード教授がその同じ手紙の中で、次のような追伸を付け加えていることをも知っていただければと思います。
[エホバの証人は私の論文から余りに多くの引用をしすぎる。私は彼らの理論を支持しているわけではない。]

エホバの証人:

私たちの信仰は一人の学者の理論の上にたっているわけではありません。参照資料付きの聖書には、次のように述べられています。
[わたしたちは、次の一つの点を除き、上記の考えに全く同意します。ただ一つ異なっているのは、わたしたちはこの見解を「理論」とはみなさず、聖書写本の伝わってきた過程における歴史の事実として受け入れていることです。」

クリスチャン:

そのような文章を引かれると開き直ったような感じがします。ほとんどの学者が認めていないことを、ハワード教授が仮説として提案したのです。そしてそれが否定されるような情報によって、その理論が崩されそうになっているのです。そのような考えを歴史の事実として受け入れるということはとうていできることではないでしょう。
  • 話題9に続く
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