《ウェブマスターより》
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エホバの証人:
キリスト教世界の大きな問題の一つはエホバのみ名を使わないことにあると思います。
クリスチャン:
そうですね。私たちもエホバという名前を全然使わないわけではないのですが、エホバの証人と比べれば、ほとんど使っていないと言ってよいでしょうね。
エホバの証人:
それはイエスやイエスの弟子たちに習っていない証拠ではないでしょうか。
(マタイの福音書6章9節から)
クリスチャン:
では、イエスおよび弟子たちがエホバという名前を使ったということを示す聖書の箇所を指摘していただけますか。
エホバの証人:
まずマタイの6章9節を読んでみましょう。[そこで、あなた方はこのように祈らなければなりません。「天におられるわたしたちの父よ、あなたのお名前が神聖なものとされますように。]ここでイエスは、「あなたのお名前が神聖なものとなりますように」と祈るよう弟子たちに教えています。お名前が神聖なものとなるためには、そのお名前は当然使われなければならないと思います。
クリスチャン:
私もクリスチャンになってからずっと、この祈りをささげてきましたが、ものみの塔のようにエホバという名を使わなければならない、と考えたことはありませんでした。それにイエスご自身、エホバというみ名を唱えたとは思えないのですが。
エホバの証人:
どうしてそう思われるのですか。
クリスチャン:
イエス時代のユダヤ人は、神のみ名を神聖なものと考えていましたので、発音しなかったからです。
エホバの証人:
一般のユダヤ人はそうだったかもしれませんが、エホバに忠実だったイエスが当時のそのような慣習に従われたとは思えませんが。
クリスチャン:
では、イエスがこの祈りを教えられたとき、神に何と呼びかけるよう教えていますか?
エホバの証人:
「天におられるわたしたちの父よ」です。
クリスチャン:
父ですね。エホバではありません。なぜでしょうか? イエスは弟子たちに、神との新しい関係をお教えになりたかったのではないでしょうか?
エホバの証人:
新しい関係ですか。
クリスチャン:
ヘブライ語聖書の時代、神を父と親しく呼ぶことはできませんでした。イスラエルの民が民族として神を父と見なしている例はいくつかあげることはできますが、個人として神を父と呼びかけることは許されていませんでした。ところがキリストは、神を父と呼ぶことができる関係に人々を招き入れてくださったのです。
エホバの証人:
イエスが祈りの中でエホバに呼びかけた証拠は数多くあると思いますよ。
クリスチャン:
イエスは、エホバよと語りかけたのではなく、父よと語りかけました。イエスは処刑される前の晩、かなり長い祈りをささげています。ではその祈りを見てください。(このパンフレットを読んでおられる方は、ヨハネ17章1、11、21、24、25節を注意深く読んでください。)
クリスチャン:
ここでイエスはどのような言葉で神に語りかけていますか?
エホバの証人:
「父」です。
クリスチャン:
エホバではありませんね。では、イエスが「エホバよ」と語りかけて祈られた記録が聖書の中にあるでしょうか? いっしょに調べてみていただけませんか。
エホバの証人:
分りました。
クリスチャン:
新世界訳において、イエスはエホバという言葉を何回ぐらい使っているかご存じでしょうか。
エホバの証人:
さあ。数えたことはありません。
クリスチャン:
20回です。そのうちのほとんど、18回はヘブライ語聖書からの引用です。引用ではない箇所は、二箇所です。
エホバの証人:
そうですか。
クリスチャン:
これらの箇所には、イエスが祈られた記録は入っていません。イエスが一度も「エホバよ」と祈っていないことは驚くべきことではありませんか?
エホバの証人:
エホバというお名前が消されてしまったのではないでしょうか。
クリスチャン:
写本が正確に伝達されたということはものみの塔も認めています。もし写本において消されてしまったと考えられる場合があれば、新世界訳では復元したはずですよね。
エホバの証人:
弟子たちはエホバに祈っているはずですよ。
クリスチャン:
新世界訳だけを読んでいるとそんなふうに見えるかもしれません。でも本当はないのですよ。使徒1章24節、8章22節、8章24節の新世界訳を見ますと、エホバに祈ったように訳されています。しかし、それらの箇所の「ギリシャ語聖書王国行間逐語訳」にはキュリオスとあり、「主」と訳すのが正しいのです。
エホバの証人:
新世界訳は正しく訳していないのでしょうか。
クリスチャン:
その問題は別の機会にお話しましょう。弟子たちは、使徒10章2節、ローマ15章30節、Uコリント13章7節、Tテモテ5章5節では「神」に、エペソ3章14-15節では「父」に祈っています。イエスも弟子たちも祈りのとき、エホバには、呼びかけませんでした。
エホバの証人:
...
クリスチャン:
結局、イエスが「お名前が神聖なものとなりますように」と教えてくださったとき、エホバと発音することは意図されていませんでした。もし意図しておられたのなら、イエスもイエスの弟子たちも、イエスの教えを守らなかったということになってしまいますよね。
クリスチャン:
イエスも、弟子たちも、どうしてエホバのみ名を使わなかったのでしょうか。
エホバの証人:
使ったように思えるのですが。
クリスチャン:
実は、ヘブライ語聖書においては、全能の神、創造者を強調するときには、エロヒーム(神)という言葉が使われました。一方、イスラエル民族と結ばれた契約という側面を強調するときには、エホバという神のお名前が使われました。、従って、エホバという神のお名前はアブラハムやモーセの契約に立っていたイスラエル民族にとって、特別な意味をもっていたのです。
エホバの証人:
はじめて聞きました。
クリスチャン:
エホバがイスラエル民族に対する固有の名前だったとしたら、キリストの贖いを受けて新しい契約にあずかった人々は、、イエスとその弟子たちが使われた「父」、「神」、「主」という表現を祈りに使えばよい、のではないでしょうか。(目次へ戻る)
対話2.イエスが明らかにしたみ名は? |
クリスチャン:
イエスがエホバのみ名を使われたことを示す聖書の箇所はどこにあるでしょうか?
エホバの証人:
ヨハネの福音書17章6節と26節を開いてください。[わたしは、あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。]
[そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。]
エホバの証人:
これらの箇所では、イエスは「み名を明らかにしました」と述べていますね。
クリスチャン:
では、「み名を明らかにしました」とはどういう意味かごいっしょに考えてみましょう。ところで新世界訳の中で、イエスは何度エホバという名前を使っていますか。
エホバの証人:
数えたことはありません。
クリスチャン:
20回です。その中で一か所でも、エホバという名前の意味を明らかにしたと思われる箇所はあると思いますか?
エホバの証人:
どういう意味でおっしゃっているのか、分らないのですが。
クリスチャン:
では少し説明しましょう。イエスが使われた20回のうち18回はヘブライ語聖書の引用文に出てきます。そこでは、エホバのみ名について何のコメントも加えられていませんね。
エホバの証人:
引用されたことが記してあるだけです。
クリスチャン:
他の二箇所とはマルコ5章19節と13章20節ですが、そこでも、エホバについてはたまたま言及されただけで、「み名を明らかにする」ことはしていません。
エホバの証人:
「み名を明らかにする」とはどういうことでしょうか。
クリスチャン:
三つのことが含まれます。まず聖書においては、「み名」とはその人の本性、人格あるいはその人自身を指します。従って、イエスはその説教や奇跡的な業をとおして、父である神の本性、お姿、実態を明らかにしたという意味です。
エホバの証人:
そうですか。
クリスチャン:
次に、ギリシャ語のオノマ(名前)はデュナミス(力)と同義語のように使われているケースがあります。このことを「み名を明らかにする」との関連で考えますと、福音書の中に記されているイエスの奇蹟的な業が神の力(み名)を現わしたという意味に解釈できます。
エホバの証人:
そうですか。
クリスチャン:
ヨハネ17章の11節および12節を読んでください。(読者は必ず、聖書を開いてください。)
クリスチャン:
新世界訳では、11節の「わたしに与えてくださったご自身のみ名」と、12節の「わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名」とを比べると、12節では「あなた」が加えられています。しかし、ギリシャ語原文は全く同じで、直訳すると11節、12節とも「あなたがわたしに与えてくださったあなたのみ名」となります。これは6節および26節の「あなたのみ名」に「あなたがわたしに与えてくださった」という但し書きをつけた言い回しです。すると6節および26節の「あなたのみ名」とは、イエスに与えられた名前ということになります。
エホバの証人:
イエスに与えられた名前なのですか?
クリスチャン:
そうです。ヨハネの福音書を注意深く見ますと、イエスに神がお与えになった別の名前が出てくることに気づきます。ヨハネ8:24、28、13:19、18:6を読んでいただけますか。読者の皆さんは、必ず聖書を開いてお読みください。
クリスチャン:
これらの箇所に、新世界訳では、「その者」という言葉が出てきます。新共同訳でも、二重括弧付で『わたしはある』と訳しています。そのギリシャ語「エゴー・エイミ」は、普通、後ろに何かの言葉がついて「わたしは...である」と訳されます。ところが上記の箇所においては、後に説明の言葉が続かず、「わたしはある」と訳さねばならない用例です。クリスチャン・ギリシャ語聖書では他に、マタイ14章27節、マルコ6章50節、14章62節、ルカ22章70節などにもこの表現が見られますが、新世界訳はマルコ14章62節のみ[その者]と訳出しています。
エホバの証人:
[その者]という表現が17章6節のみ名なのですか。
クリスチャン:
そうです。イザヤ43:25、51:12のギリシャ語旧約聖書では「エゴー・エイミであるわたしが」とエホバは述べています。52:6では、わたしの名(エホバを指すことは明らかです)と「エゴー・エイミ」とが同格の位置に置かれています。さらに、イザヤ45:18、ホセア13:4、ヨエル2:27などでは、「わたしがエゴー・エイミである」とエホバが語りかけています。この「エゴー・エイミ」は、ヘブライ語の「アニー・フー」で、一世紀のユダヤ人の間では、神が自己啓示されるときの特別なタイトルでした。
エホバの証人:
参照資料付き聖書1774-1775頁には、「エゴー・エイミ」(ヨハネの8章58節)と「アニー・フー」とを同一視したり、出エジプト3:14と関連させるべきではないと述べていますが。
クリスチャン:
ヨハネ8:58はイエスの神性を明確に述べている聖句です。それについては別の機会に取り扱いましょう。今は、ヨハネ17章6節と26節に戻りましょう。
クリスチャン:
イエスに与えられた名が「エゴー・エイミ」だとしたら、イエスはどのようにその名を明らかにしたのでしょうか。次のイエスの言葉を新改訳で読んでみます。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」(ヨハネ12:45)。「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)。これらの聖句は、イエスの生涯そのものが、エホバを現すものだったということを示唆しています。
エホバの証人:
ヨハネ12:45と14:9の新世界訳には、「も」が入っているのでちょっとニュアンスが違うように見えますが。
クリスチャン:
よく気づきましたね。新世界訳では、イエスと父とが同じ方では具合いが悪いので、ギリシャ語原文にはない、「も」を入れてしまったのです。
エホバの証人:
イエスは父なる神の厳密な抽出ですから、イエスの生涯がエホバを現すということは理解できますが、しかしだからといって、唯一である父なる神とイエスとを同格に置くのは正しいでしょうか。
クリスチャン:
そうですね。イエスと父なる神とが同格であるかどうかについては別の機会に話すことにしましょう。今は、イエスがエホバを人々に明らかにした、という内容に限定して考えておきましょう。
エホバの証人:
分りました。
クリスチャン:
結局、イエスが「み名を明らかにしました」と言われたとき、イエスはエホバというお名前を明らかにしたとう意味ではなく、エホバご自身を明らかにしたということが分っていただけたと思います。