Monterey Pop Festival


【1】60年代における初の大規模なロックフェスティバル
モンタレーポップはいくつかの理由により実に意義深いものであった。 サンフランシスコのBay Areaでの音楽活動が頂点に達していることを強調し、ウエストコーストのヒッピーカルトをじわじわっと社会に忍び込ませ、外部の世界へそれを伝えたのだ。 それは両方ともロックミュージックの起原を含むものであり、ロックフェスティバル全盛の時代の始まりであった。

コンサートプロモーターAlan Paiserが思いついた初めの構想は、San Remo Song Festival とNew Port Jazz Festivalを足して2で割ったようなものだった。 PraiserはBen Shapiro(Praiserの非営利的な構想には賛成しかねていた)にそのアイデアを持ち掛け、そしてモンタレーでフェスティバルが開催されることに決まった。 まず一つにはそこは例年行われるジャズフェスティバルの本拠地であり、ロスとサンフランシスコの間の沿岸に位置していたからである、またこれらの街から多くのバンド、観客が訪れるだろうと見込んでいたのであった。

【2】金銭問題
1967年4月、用地をリースする契約を結び、フェスティバルは7月に予定された(結局6月に変更されたが)。 The Mamas And The Papasが出演交渉をした最初のグループであり、メンバーのJohn Phillipsはフェスティバルの運営にも関わっていた。 しかし彼は儲け主義のベンチャー企業に携わることには拒否を示していた。
Shapiroはこの時既に100万ドルの利益は固いとにらんでいた見通しが消え去ったことを悟っていたが、Phillipsの仲間達、Lou Adler(Phillipsのマネージャー)やPaul Simonらによって買収されることに同意した。 一方のPraiserはフェスティバルのプロデューサーとして留まり、最終的にPhillipsとAdlerが共同ディレクターになったのである。

モンタレーは1967年1月にGolen Gate Parkで開催された「Human BeーIn」「Acid Test」「Trip Festival」などを発生させたサンフランシスコ音楽シーンに対するロスアンゼルス音楽シーンからの回答であった。 LAはSFのフラワーパワーに対する姿勢よりもっと商魂たくましいところがあり、モンタレーフェスティバルそれ自体は利益を出すようには意図されてはいなかったけれども、フェスティバルの主催者達はイベントの子会社のようなあらゆる商用手段を利用するなど、商業的手腕には全くぬかりがなかったのである。

映画やテレビの放映権は前もって売られ、フェスティバルにはレコード会社のお偉方が新しいアーチストを発掘するために招待されていた。 ハリウッドで最先端を行く人々は、フェスティバルを成功させるためにと積極的に参加を勧められた。 デザイナー、Tom Wilkesはポスターを作製し、宣伝は元ビートルズのプレスオフィサーだったDerek Taylorの巧みな手腕に任せられ、D.A Pennbakerはフィルムにフェスティバルの出来事を記録した。

アーチストらは彼らの出演した分だけ報酬を受け取ることになっていた。 しかし、フェスティバルで儲けた利益はどうすべきかという問題は未だ解決していなかった。 サンフランシスコの巨大ダフ屋や、無政府団体"Hippie Robbin Hoods"にその利益が渡る、などと早くから嫌な噂も流れていた。 これはモンタレー市民にも気がかりなことであった。 5月15日、ついにAdlerは儲けたお金は認可された慈善事業にまわすことを市議会に納得させた。 お金の問題がクリアし、すべてが保証されたあと、フェスティバル開催の認可がようやく下りた。

【3】出演者達
一ヶ月以内に主催者側が望んだ出演者リストを完成させるのは至難のわざだった。 どうにかして彼ら全員をフェスティバルのために獲得したかったのだ。獲得しそこなったミュージシャンにはBeatles、Rolling Stones、Cream、The Young Rascals、Lovin' Spoonfulらがいたが、彼らはスケジュールの調整がつかなかった。 またBeach Boysも出演する予定だったが、メンバーのCarl Willsonが入隊拒否の申し立てをしに裁判所へ行っていた為に出演できなかった。

イベントの名前は「The First Annual Internatinal Pop Festival」に拡大された。「international(国際)」の部分はやや誇張されていたが、「annual(恒例)」の部分はその後二度と実現化されなかった。 海外から参加したミュージシャンの多くは英国からで、The Who、Jimi Hendrix(シアトル出身だが当時はロンドンに居住していた)、The Animals、Beverleyらがいた。 カナダからはPaupers、インドからはRabi Shankar、また南アフリカからはHuge Masakelaが参加した。

フェスティバル本来の目的は、現在のポップミュージックの広大な一断面を示すことであったが、事態はそのように上手く運ばなかった。 まず一例をあげると、出演者の中にはアメリカの黒人がほとんどいなかったのだ。 唯一出演したのはOtis Redding、Booker T.And The MGs、Lou Rawlsだけだった。 そしてSmokey Robinsonは取締役会のメンバーだったにもかかわらず演奏しなかった。 その後ずっと示唆されていることは、黒人社会では、モンタレーは白人のために白人が企画計画したもので、そこで演奏した黒人出演者は白人に身売りしていると見なされていた、ということである。

アメリカ人の出演者の中では少なくとも14名がカリフォルニア出身だった。 従って、バンドの大多数は新しいスタイルのウエストコーストアシッドロックを演奏した。 そしてフェスティバルをこれほど有名にしたのは彼らだったのだ(The WhoもHendrixもアシッドロックの形で演奏したが)。 けれどもフェスティバルでは全てが愛と平和だったわけではなかった。 このフェスティバルには2つの別個のカリフォルニア、つまり、LA(LA音楽スタイル)とSF(SF音楽スタイル)が存在するという事実を明確に浮き彫りにしていたのだ。

次へ続く