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ポ  リ  シ  ー








ポリシーとは、誰もが持っているであろう信念・・・ふっ。
別にものを書かなくとも、絵を描かなくとも、生きることに対してすら信念というものは存在する・・・ふっ。

自分には色々な信念というか、アンチテーゼというか、セオリーというか、ありますなぁ。
しかしここでは"もの書き"としてのポリシーについて語ってしまいましょう。

飽くまでも独断と偏見。苦情は一切お断り(笑)
こんなヤツもいるのね・・・くらいに思って頂きとう御座います。




















まずこれでしょう。
表記に対するポリシーとは、何のことかと云いますと、小説を書くにあたってこれだけは避ける・・・ということで御座います。

太字・文字サイズ

これは小説内では、まずしません。
つまるところ、強調したい一文や会話なぞが突然太字になるような書き方と、それと同じに、突然文字サイズがデカくなる表記法で御座います。

簡単に云うと・・・以下のような感じ。

失う訳にはいかない。だって、僕はまだ彼に何も云っていないから。
涙で掠れてしまうそうになる声を振り絞って、僕はあの人の背中に叫んだ。
「好きです、××さん!」
あの人は振り向き、そして優しく微笑んだ・・・

こういう書き方は個人的には余り好きではない(それよりも何よりも、この即席ストーリーは何ぞいや?こんな内容の話は死んでも書かないでしょう・・・)

自分自身、今迄の既成小説作品で(同人誌を除く)こういう書き方をしている小説を読んだ経験が御座いません。その為に一層抵抗感があるのかも知れませんね。
こういう手法は何となく、最早小説というジャンルを越えてしまったという感じがします。何といえばいいのか、小説とは元々、字面を読んで頭で想像することだと思うので、上記のような表記法になりますと、視覚的な印象が介入してしまうと思う訳で、そしてそれが個人的には余り好みではない。それはもう、文章力とか表現力の問題ではないような気がします。

ただ実際には、昔からこの手の表記が嫌いだったかというとそうではありません。前述の通り、そんな表記法の小説が存在していることすら知らなかったくらいでありますから。
ある同人誌を山ほど持っている友人と語り合っていた最中(もう5年くらい前でしょうか)その友人が、嫌いだといった小説の書き方が"太字・文字サイズ大"でありまして、聞いた側から爆笑、そして納得してしまった訳です。

その辺りから自分の中ではタブーになってしまいました。

でも好みはありますねぇ。太字・文字サイズ大でも、以下のようなものだったら、案外に自分は面白いと思うかも知れませんから。

以下参照・・・

意識が朦朧とする。手足が細かく痙攣する。視界は閉ざされ、平衡は失われ、とりとめもない思考が頭を支配する。
そのどれもをじっくりと眺めることが出来ない。おれの手の内から逃れ出てしまう・・・
踊れ、踊れ、踊れ、
まわれ、まわれ、まわれ、
狂え、狂え、狂え!

・・・スイマセン、単なる趣味でした(泣)

多分、自分の中のポリシーで、感動的な場面で太字・文字サイズ大を使うのは禁止されているようです。
サイコ地味ていれば、滑稽さ、異常さを表現する為に用いる場合は、返って好感が持てるような気がします・・・

スティーヴン・キング作"シャイニング"のラスト、狂ってしまったお父さんの心の叫び、
ボイラー!ボイラー!ボイラー!ボイラー!ボイラー!ボイラー!(以下、延々と)
のように、アヤしいものであれば大満足・・・なのですが。

しかしポリシータブーっていうのは、自分の中で殆ど同じ意味合いなのだが・・・そんなんでいいのだろうか・・・

ここまでくると、では強調点も駄目なのかというと・・・それは大好き(爆)
でもそれはweb上では出来ないですね、残念ながら。




















これが一番多いでしょうかね。まず・・・

描写

これは、結構拘りがあります。自分にとって、つまらない小説とは、描写がない小説。それは心理描写でも情景描写でも。
読む側の勝手な好みとしましては、情景描写ばかりだと頭がパニッてくる為に、心理描写の方をより好む傾向にありますが。

いや、推理小説(苦手)なぞでありがちなのが、ある町へその探偵なり刑事なりが入ってから、本編までが長いこと、長いこと。まず駅に降り立った所から始まり、その周囲の景観、たまたま目についた広告に××祭と表記があれば、それはこの町で毎年恒例の豊作祈願のうんたらかんたら・・・その一風変わった風習についてもうんたらかんたら・・・それからやっとのろのろと歩いて問題の場所へ向かうまでの道のりで目にする、商店、老人、野良犬に至るまで、延々と書いてあるようなものは・・・ちょっと読むのが苦痛です・・・
まず推理小説というのが大体にして、そんな町の様子なんかどうだっていいような内容であると思うので、余計に辛い。

即ち、情景描写の中に本人(主人公)なりの主観が含まれていないと、面白く読めない。本題と無関係なことは、いくら読まされても頭に入らないように出来ているので・・・読書法が間違っているのか、はたまた・・・

話はそれましたが、描写というのは自分にとっては大事でありまして、それが疎かになっている小説ほど、自分にとってはつまらない。否、つまらない小説には描写がない・・・といっても過言ではありません。描写がないだけでつまらないというな!というご批判もありましょうが、自分にしてみれば、描写がない、のではなく、書けないからないのだ、というように判断してしまいます。

描写とは、話に厚みをつけるものでもあると思うので、それがないというのは意図的に省かれている場合を除いては、なんと中身のない薄っぺらな話になるであろう・・・と思う訳です。
世界観といいますか、そういったものがないということと同じだと思う訳です。

偉そうなことは言えませんが、描写は話を掘り下げます。人物描写も含めて。
描写が少なくても味わい深い小説というのは、余程一つ一つの言葉を厳選している結果だと思います。それは会話にしろ。

自分は、勢いでものを書くタチなので、そういうように一つ一つの言葉を吟味して書くことは難しいのですが、それだけに描写によって人物なり世界観なりの肉付けを行っていきたいと思い、またこれまで出来うる限りそうしてきたつもりです・・・

会話

これも重要ですね。描写と同じに、意図的な場合を除いては、会話の羅列した小説は問題外です。
よく云われる、会話でストーリーが進んでいくような話は、書かないでおこうと誓っています。

昔はそんなものばかりでしたよ、自分の作品も。その時は気付かないんですよ。小学生の頃に書いていたものなどはすべてそうでしたね。「じゃ原っぱへ行こう」××は云った。「そうだね」○○は頷いた。「だけど自転車がないよ?」××は聞いた。「なんとかなるさ」○○は答えた。「それもそうだね。じゃ行こうか」と××。「うん」○○は云って、出口へ向かった・・・というような(笑)

ここで問題になってくるのは何も会話の多さだけではないでしょうが(笑)話がそれない為に論点を絞って云いますと、まず云わなくてもいいような会話の多さ。「そうだね」とか「うん」は、必要ない会話ですね。しかも意図的に書いているのではなくて、小説というものをまだ分かっていない状態で書いてしまっている。そうやって会話でストーリーが進んでいっても、その時の自分はなんらおかしな点はないと思っている怖さ。

少なくとも、何年か小説を書いていればこんな馬鹿をやらかす人はいないかと思うのですが、会話の無闇に多い小説というのも自分の中ではしないように心がけているのでありました・・・

描写と会話の関係

結論としては、描写がなく会話でストーリー展開しているような話だけは絶対に書かないでおきましょう・・・というポリシーが自分にはあるということですね。













出来るだけ使いたくないですねえ・・・カタカナ。
人によっては名前がカタカナの小説を読み慣れていないと、外国の小説なぞを読むのが苦痛というのも聞きますが、自分としては名前がカタカナであるのはいいとしても、それ以外のカタカナは本当は使いたくない。しかしどうしても未熟で使ってしまふ・・・

まず、カタカナばかりだと紙面がスカスカする。
これは視覚的に見て、そう感じませんか?文章の詰まってないない感じ。

それから現代風になってしまうので、カタカナは。

トイレよりは便所(かわや?)リヴィングよりは居間、ベッドよりは寝台、スーツよりは背広、アパートというよりは長屋、ピラミッドというよりは金字塔、ビアノというよりは洋琴、エスカレーターというよりは移動式階段・・・っていうのはウソですが(笑)エスカレーター以外は本当です。

やはりこれも昔の文学作品を読んでいるせいでしょうかねぇ。影響は強いです。やはり。そういう小説には、当たり前のことですがカタカナはありません、殆ど。
登場してもカフェが"カフエ"になっていたり、スープが"スウプ"(太宰治"斜陽")になっていたりと、それはそれでまだ味わい深いものがあるのですが、今更自分がなりきってそういう表現をする訳にもいかず。ジレンマですね。

好みとしては、ぱっと見た時にかなと漢字がびっしり詰まっている小説を書きたいので、現在公開している小説ではまだカタカナは山ほど登場していますが、それ以降の未発表作品は格段に減少しています。しかし10頁に一度くらい出てくるカタカナがまた泣けるのだが・・・




















元来自分は"愛"というものに非常に興味があります。
それは人が人を愛する時の愛でも(だから愛っていうのは駄目ワードじゃなかったのかよ・・・)人が動物を愛する時の愛でも、自然を愛する時の愛でも同じ。

それと同時に"憎しみ"というものにもまた多大なる興味があります。
それは、愛と憎しみは表裏一体・・・なぞという安っぽい文句のせいかも知れませんが。

愛することと憎むことは、自分の中では同じです(この辺りから、かなり歪んだ思考形態が垣間見えます)

それを書きたいと思うからこそ、未だに筆を折ることが出来ずにいます。
ここで問題になってくるのが、自分の書きたいのはある個人の愛憎であるということです。
それが自分の中での煩悩の全てです。
男が男を愛することなぞは問題ではなく、人が人を愛することを書きたい。
そしてそれは愛することであって、愛し合うことではないのがポイント(事実、愛し合ってないからなー、どんな話でも)

一人の人間の愛憎を書きたい。
否定すること肯定すること、受け入れること、拒絶すること、凝視すること、目をそらすこと・・・
それらすべて、自分の中での愛憎概念です。
誰が誰を愛するとか、そういった規定の中だけではなく。

生きている人間を書きたい。
生きているというのは、死んでいないことではなくて。

自分にとって愛とは決して美しいものでもなければ、綺麗なものでもない。
反対に、醜いものであると思っています。
だからそれが、世間でいうところの愛なのかどうかは分からない。
分からないけれども自分には自分の感じたことしか信ずることは出来ないので、人に理解出来るように説明するにはやはり"愛"という言葉を用いなければならないのですが。

生きてるんだっ!
という気概がありありと分かる話を書きたいのかな。
間違っていても、醜くても、生きているということを。前途洋々である必要は全くない。
闇は深ければ深いほどいい。そこでしか見えないものがある筈だから。

というか、愛と憎しみを書きたいといっている時点で、もう生きていることを書きたいというのと同じでしたね。
愛や憎しみというのは、どちらとも多大なエネルギーを要することで、その代償を払ってまで何かを愛したり(それは自分でも可)何かを憎んだりしているということは既に、物凄く"生きている"、"活動"しているということに他ならないですからね。

そんな訳ですから、案外にあっさりというものも登場させてしまいますね。
生きようとしている者ほど死は間近にあると思うので。必然です。
生きたいと願った時と同じくらい、死にたいと願った時、人は生きているのだと思う。

愛と憎しみを同じものと言い切った自分ですから、生と死もきっと一緒なのでしょう(笑)
問題は愛とか憎しみとか生とか死とかではなくて、それを欲する人間というものに興味がある。

自分に言わせれば根底にあるものは同じ。一つです。
結果それが愛になるか憎しみに変わるか、生きることになるか死ぬことになるかはどうでもいい。

愛憎に始まる人間の精神活動・・・を書けたらいいなぁと思っています(他力本願)
それが根本的な創作意欲。いわゆるポリシーです。
なんなんだ。




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