The Egyptan Revolution
エジプト革命

■ 革命前のエジプト王国(ムハンマド・アリー王朝)

■ オスマン・トルコとナポレオンの戦い
オスマン・トルコが支配していたエジプトへ侵攻したフランス軍(ナポレオン)は、古い戦術で戦うオスマン・トルコ軍をあっさり破りエジプトを占領しました。(この時ロゼッタストーンが発見されます。)

しかし、オスマン・トルコもこのまま黙ってはいませんでした。当時フランスとやりあっていたイギリス帝国と手を組み、エジプトのフランス軍を攻撃、これを降伏させます。

■ 傭兵隊長ムハンマド・アリー
オスマン・トルコは再占領したエジプトにムハンマド・アリーというやり手の軍人を太守として派遣しました。太守に就任したムハンマド・アリーは、フランスに全く歯の立たなかったオスマン・トルコの弱体化を憂い、自分の支配下にあるエジプト軍だけは近代化を押し進めました。

そして、宗主国であるオスマン・トルコの腐敗を憂慮し、ついにオスマン・トルコ打倒の兵を上げるのです。いちエジプト太守では大オスマン・トルコを倒すと言うことは不可能だと思われましたが、なんと予想に反しエジプト軍はオスマン・トルコ軍を次々と破り、首都のコンスタンティノープル(イスタンブール)に迫っていました。

ここで、イギリス帝国がオスマン・トルコ側にたって参戦します。さすがに最新鋭のイギリス帝国軍には勝てないと悟ったアリー軍は、講和することになりました。

■ エジプト王国、建国
アリーのエジプト州軍は、この講和によってオスマン・トルコから占領していた地域を返還する見返りに、自身の任地であったエジプトを王国として独立させる事に成功したのです。

この国家をエジプト王国ムハンマド・アリー王朝と呼びます。しかし、この状態は半独立であり、依然オスマン・トルコやイギリス帝国の干渉がかなりありました。

■ スエズ運河
ムハンマド・アリーの亡くなったのち、スエズ運河という大事業がはじまります。しかし、この大事業のおかげでエジプト財政は破綻してしまい、イギリス帝国とフランスの財政管理化に置かれます。いわば一つの国が倒産したということです。(実はイギリス帝国の策略)

さらに、イギリス帝国はエジプトを保護国とし、第1次世界大戦の時には植民地としてしまいました。これではさすがにエジプト国民も黙ってはいません。

植民地化されたことに対し、大戦中から反イギリス運動が高まり、結局イギリス帝国は独立運動を抑えきれず、大戦後の1922年エジプトに独立を約束します。しかし、例によって形だけの独立であり実際はイギリス帝国が裏で国を運営していました。

そして、第2次世界大戦と第1次中東戦争を戦い終わったエジプト王国は、1951年10月、ファルーク国王がイギリスとの同盟の破棄とイギリス軍の退去を要請しました。

傀儡政権みたいな国王にもまだ少しばかりの愛国心が残っていたようでしたが、納得しなかったのはエジプト国民だけではなく、イギリスもエジプトを無視しました。

 

■ エジプト革命

1952年年明けの1月23日、イギリスとその傀儡状態である国王に対し、国民の怒りが爆発します。エジプトの民衆は各地でイギリス軍を襲撃し、攻撃にはエジプト正規軍まで加わる始末でした。

1952年7月23日、改革派青年将校たちで結成された自由将校団がクーデターを起します。政府軍がこれの鎮圧に向かいましたが、クーデター軍と相対した政府軍は、革命に参加する意思を表明します。

自由将校団はこの政府軍を率いて、まず軍の中枢である参謀本部を占領し、続いて市内を占領しました。そして、自由将校団はムハンマド・ネギブ中将に協力を要請します。ネギブ中将はこれを了承し、革命軍最高司令官に就任しました。

革命軍が占領した放送局から、クーデターの声明文が発表されるとエジプト国民は狂喜しました。ところがこれを聞いて肝を潰したのはファルーク国王です。

革命軍は7月26日、国王に対し退位を要求します。このクーデターのリーダー、ナセル中佐は2.26事件から教訓を得てかどうかはわかりませんが、腐敗した国王をはじめとする官僚達を殺さなかったのです。国王は保障された財産と共に豪華ヨットでギリシャへ亡命しました。そのため無血クーデターとなりました。

こうして、1953年6月19日、ネギブ中将(自由将校団ではない)を首相兼大統領としてエジプト共和国の設立が宣言されました。ナセル中佐は副首相の座に着きました。

首相はネギブ中将と言う事でしたが、実質的な政策は自由将校団リーダーのナセル副首相が行なっている状態です。この後、ナセル副首相とネギブ大統領の対立が表面化していくのでした。

もともと、この革命自体が腐敗政治を一掃するために国民が団結したのであり、自由将校団の中にも右派から左派までいろいろ織り交ざっていました。そして、一つの目標を達成したのちはそれぞれの理想を主張し始めたのです。

■ ナセル暗殺計画
そしてついに、超改革派のナセル副首相に対し危機感を募らせていたいわば保守派のネギブ大統領はムスリム同胞団と手を組み、ナセル副首相の暗殺を企てます。

1954年10月26日、演説中のナセル副首相に対し、数発の銃弾が発射されます。しかし、運よく弾丸は命中しませんでした。ナセル副首相は演説を続け、『このナセル死すとも、革命は死さず。』と叫び、聴衆の喝采を浴びました。

この事件により、ネギブ大統領は逮捕され失脚しました。しかし、ナセルはすぐに新大統領には就任しませんでした。

 

■ 革命政権 ナセルの場合

暗殺からからくも逃れたナセル副首相は、自分の身の危険などかえりみず、革命政権を革命政権たらしめるべく次なる行動を起こします。

■ イギリス軍の退去
前国王が要求するにはしたものの結局黙殺されているイギリス軍のエジプトからの撤退についてですが、これが完全に行なわれなければ、エジプトは真の独立国家といえません。

イギリス軍はスエズ運河の保護のため、前国王が要求したにもかかわらず依然駐留していたのです。これに対し、ナセルは撤収を要請し、これを了承したイギリス軍は1956年6月20日までに撤退を完了しました。このイギリス軍の撤退を見てナセルは1956年6月25日大統領に就任しました。

しかし、このイギリス撤退に対し反応したのはイスラエルでした。イスラエルにとってはイギリス軍がスエズにいる限り、エジプトの軍事的圧力が緩和されていたので、この撤退を妨害するためにエジプトに対し攻撃を仕掛けます。

これによりエジプトは、革命でうやむやになっていたイスラエルとの敵対関係を再認識します。そして、アメリカ、イギリス帝国およびフランスに武器の供与を依頼しますが、無視されました。

ここで、ナセル(大統領就任前)はソ連に接近します。これにはソ連も飛びつきました。中東に進出するきっかけがつかめたからです。これにより、エジプトはソ連製の最新鋭兵器を手に入れることに成功しました。

■ 非同盟主義
ナセルはエジプトが大国との同盟により、以前のように食い物にされることを嫌い、西と東のどちら側にも組しないとの方針を打ち出しました。もちろん、こういう行動は国民やアラブ諸国からも拍手を送られました。

しかし、現実はイスラエルに対抗する武器を手に入れるため、チェコスロバキア経由でソ連から兵器を買うことになってしまいました。

■ アスワンハイダム
アスワン・ハイ・ダム、つまり旧アスワン・ダムのさらに上流に作られた新アスワン・ダムです。この新しいダムによって電力の供給を賄い、近代的な都市を作り上げ、なおかつ氾濫によって定期的に発生する農耕の停滞を防ぐという計画です。

しかし、ナイル川をせき止めて作るため、恒例の氾濫によって肥沃な土地となっているナイル川周辺の農業や遺跡が水没しました。

さらに、事業費が莫大であり、アメリカやイギリスからの借り入れを当てにしていたのですが、ソ連に接近したエジプトに対して、アメリカやイギリスが融資を断ってきたのです。

これがナセル大統領の背中を押すことになり、世界が仰天するような計画が実行に移されることになるのですが、ダム自体はソ連の融資により1960年1月9日に工事が始まり、1971年1月15日に完成する事が出来ました。そして、そのとんでもない計画とは・・・。

■ スエズ運河国有化
スエズ運河はエジプトにありながら、通行料のホンの一部が国庫に入るのみで、あとは大株主であるイギリス帝国とフランスに利益を搾取されていたのでした。

このことから、ナセル大統領は常々スエズ運河の国有化を計画しておりました。そこへ、アスワンハイダム建設費の融資取り下げで、資金のめどもたたなくなり、ついに1956年7月26日の革命記念日にナセル大統領は国有化を宣言しました。こうして、得た利益はアスワンハイダムの建設費に当てると言うことです。

これを聞いてびっくりしたのはイギリスとフランスです。自分達が得てきた利益が一夜にしてなくなると言う事態になり、両国はスエズ運河を取り返すため、イスラエルを誘い戦争を計画します。

こうして、イギリス、フランス、エジプトにイスラエルを加えた4か国は戦争に突入したのです。この戦争はスエズ動乱(第2次中東戦争)と呼ばれました。

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