− パックス●ジャパニカーナ −


The Disengagement
  ガザ撤退 from 2004

ガザ撤退計画とは、イスラエルのシャロン首相が発表したガザに駐留するイスラエル国防軍と入植者の撤収計画です。入植者が撤収するとガザは本当にパレスチナ自治政府のものとなるでしょう。

ガザ撤退案は、先だって国会で可決された”一方的分離案”、つまりイスラエルが国防軍と入植者を撤収させる法律に基づいて計画されています。

この法案はパレスチナ自治に入植している人々を守るため、イスラエルは国防軍の駐留費用をはじめ、莫大な予算をどうにか削減しようという事で、以前は入植を勧めていたシャロン首相が180度方針転換したのでした。

国防軍は命令一下で撤収しますが、問題は入植者の人々です。彼らは、いわば極右の人たち(つまりパレスチナはユダヤ人の物だという考えを持っている人々)が多いので、当然ながら撤退には反対しています。

 

2005.09.12 : ガザのイスラエル国防軍が完全に撤退し、ガザの占領は38年間で終了
イスラエル国防軍は13日に撤収予定と発表していましたが、この日の早朝3時から撤退を開始しました。朝の7時には最後の兵士が境界線を越え、ゲートが閉じられました。

これにより、38年間に及んだイスラエル国防軍のガザ占領が終了しました。イスラエル国防軍は第3次中東戦争によってガザを占領し、入植者を植えつけていたのでした。

2005.08.23 : ウエストバンクからの住人撤収完了
この日はウエストバンクの4つの入植地からの撤退です。カディムとガニムの2つの入植地からは、住民が自主的に撤収していましたが、サ・ヌーとホメシュには住民と反対派の人々が立てこもっていました。イスラエル国防軍はブルドーザーでバリケードを破壊し、彼等を強制退去させました。

これにて、撤収予定の入植地からすべての住民の退去が完了しました。国防軍は9月の中旬にも撤収予定です。

2005.08.22 : イスラエル国防軍と警察によってガザからの住民撤収完了
封鎖されていたガザに違法に入り込み、入植者達と共に撤退反対を唱えて妨害をしていた反対派の若者も、イスラエル国防軍と警察によって排除され、最後の入植地ネツァリムからの撤収をもって強制退去は完了しました。

2005.08.18 : イスラエル国防軍さらに反対派の立てこもる入植地に突入
イスラエル国防軍は昨日に続き、反対派を強制排除するため、反対派が立てこもる入植地クファー・ダロムに突入を行いました。

反対派の多くは若者で、入植地のシナゴクにバリケードを作っていましたが、国防軍の突入によって排除されました。

この日までに完全に当局者以外の人間が居なくなった入植地は、テル・カティファ、モラグ、ゲネイ・タル、ベドラー、ケレム・アツモナの5ヵ所でした。

2005.08.17 : イスラエル国防軍、撤退反対強硬派の立てこもる入植地に突入開始
イスラエルは撤退に反対する住民に対し、48時間の猶予を与えていました。それを超えた場合は強制撤収するという事です。これに折れた入植者もいましたが、それでも反対する人々がいました。

期限が切れたこの日、イスラエル国防軍は暴徒鎮圧用の装備をし、撤退反対の人々が立てこもる入植地の1つ、ネベ・デカリムに突入しました。入り口にバリケードを作っていた反対派と押し合いになりましたが、これを突破し突入したのでした。

入植地ネベ・デカリムは、イスラエルがエジプトとの平和条約に基づいて、シナイ半島から撤退した時、シナイ半島に入植していた人々が移住した入植地です。1983年設立です。ここの住人は2度も政府に裏切られ、家を追われたという訳です。

2005.08.15 : ガザから撤退開始
イスラエルはガザに住む入植者達全員の移転合意が取れない状況のまま、予定通り撤退を開始しました。入植者や撤退反対派の人々が妨害する事は分かっているので、国防軍と警察は市民の排除訓練を受けて来ました。

初日にも移転に合意する家族がありましたが、絶対に立ち退かないとの強行な家族とそれを支援する反対派の人々はネベ・デカリム、ネツァリム、クファー・ダロム、アツモラ、カティフ、ドゥギトの入植地に集結し、入り口にバリケードを築いていました。

国防軍は反対派の立てこもるこれらの入植地は後回しにし、合意が取れている入植地の住民の撤退から始めました。

2005.08.11 : 最大規模のデモ
この日、テルアビブは15万人の人々でごった返し、携帯電話の回線がパンクしました。前日からラビン広場で行われている史上最大の作戦、ガザ撤退反対集会のため人々が集まったのです。

警察は5万人の人出を予想し、警察官2千人を配置していましたが、予想をはるかに上回る人々に全く手が出ませんでした。

2005.08.07 : ガザからの撤退承認が閣議決定
ガザから撤退することは事実上決まっていますが、取り敢えず第1段階として、3つの入植地からの撤退をする事が閣議決定されました。この閣議で反対を表明したネタニヤフ蔵相は閣議決定を受けて、抗議のために辞表を提出しました。

後任はオルメルト通産相が大蔵大臣を兼任する事になりました。

2005.07.18 : 大規模なガザからの撤退反対デモ
この日、計画されていた反対派のデモが行われました。イスラエル南部の町、ネティボットに各地から集結した反対派の人々は反対のシンボルカラーであるオレンジ色のリボンやTシャツを身に付けてガザに向けて行進を開始しました。

このままガザに入り、撤退の日まで留まり、実力行使に出ようという訳です。国防軍は住民以外の人間がガザに立ち入ることを禁止し、軍事封鎖しました。

計画はイスラエル当局も知っていたため、バスをチャーターしてネティボットに到着した反対派の人々をそのまま追い返す作戦に出ました。それでも、集まった人々は警察の発表では1万人、デモ隊の発表では5万人でした。

デモ隊は行進を始めましたが、ルート上にあるキャンプ場クファー・マイモンでイスラエル国防軍と警察に足止めをされました。両者は話し合いを行い、デモはこの場所で気勢を上げる事で終了し解散する事に合意しました。デモは3日間の予定でしたが、結局この場所から動く事が出来なかった参加者は家路に付きました。

それでも、ガザへの違法侵入は防ぐ事が出来ていません。住民の車のトランクに隠れて侵入したと人もいました。

2005.07.06 : アッバス議長、ダマスカスで各組織と会談
パレスチナ自治区CEOのアッバス議長は、シリアのダマスカスでパレスチナゲリラ各組織と会談を持ちました。これは、イスラエルがガザから撤退した場合に、各組織が影響力を誇示しようと内乱状態になるのを防ぐためです。

最大勢力といっても過言ではないハマスは、アッバス議長から入閣をオファーされましたが、きっぱりと拒否しているのです。ハマスは拒否できるだけの地盤もあるし、強力だという証左でしょう。

こうしてアッバス議長の思惑ははずれ、ダマスカス会談は失敗に終わりました。そして、ハマスは自治政府には組しないと発表したのです。

2005.06.03 : パレスチナ人398人釈放
イスラエルは収監しているパレスチナ人の囚人400人の釈放を実施しました。しかし、この内2人の囚人は出所を拒否しました。

釈放された囚人にはアル・ファタやハマスのメンバーも含まれていました。しかし、イスラミック・ジハードのメンバーは外されました。最近、イスラエルに対して攻撃を行ったからです。

この釈放は2月に行った四者会談で、パレスチナとイスラエルの停戦合意に基づく措置です。ただ、この釈放も前回の釈放の後すぐ行われる予定でしたが、ゲリラとの戦闘があったため、停戦の約束が違うとイスラエルが釈放の延期をしていたのでした。

2005.05.17 : 100家族が移転同意書にサイン
ガザ南部の入植地“ガッシュ・カティフ”の住民が、イスラエル国内の“ナツァニム地区”への移転同意書にサインしました。ガッシュ・カティフ内の入植地には約1,600家族が暮らしていますが、少なくとも400家族の同意が得られないことには、ガッシュ・カティフ自治会としても移転に“同意”とは言えないという事です。

2005.05.16 : デモ隊が道路を封鎖
ガザからの撤退に反対するデモ隊がイスラエルの高速道路や主要道路の交差点に陣取り、交通を遮断しました。タイヤを燃やしたり、道路上に寝転がって、ガザからの撤退中止を訴えました。

警察は4000人が出動しましたが、事前にこういった状況を想定して訓練していたにもかかわらず、とても手際が悪かったという事です。

デモ隊からは投石があり、警察官が負傷しました。結果としてデモ隊は292人が逮捕されました。

2005.05.09 : ガザ撤退実地延期
シャロン首相はガザ撤退計画の実地を当初の予定7月20日から、8月15日以降にすると明言しました。これはまだ、入植者達との折り合いも付いていないため、延期したのでしょう。入植者達はイスラエル国内の移転先を政府が用意することになっています。さらに、補償も受け取ることになっています。でも、まだまだ反対している人々も大勢いると言うことです。

2005.03.28 : 国民投票案 否決
成立したガザ撤退計画の是非を国民に直接問うため、国民投票を行うという法案が国会に提出されましたが、反対多数で否決されました。この結果、撤退反対組の道は閉ざされたため、実力で撤退を阻止する、などの物騒な言葉が乱れ飛んでいます。

2005.02.21 : パレスチナ人500人釈放
イスラエルは収監しているパレスチナ人500人を釈放しました。これは、先日行われた四者会談での停戦合意に基づく措置です。

2005.02.20 : ガザ撤退案 可決
イスラエルのガザ撤退案がクネセトで可決され、”案”が”計画”となりました。当初は”一方的”分離案だったのですが、アッバス議長とシャロン首相が会談した事によって、一方的ではなく自治政府との協力のもと分離される事になりました。

2005.02.08 : イスラエル、パレスチナ自治政府、ヨルダン、エジプト四者会談
エジプトのシャルム・エル・シェイクでイスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長、ヨルダンのアブドゥラ二世陛下とエジプトのムバラク大統領が会談しました。この会談によって、アッバス議長はイスラエルがガザから撤退のため、パレスチナゲリラを停戦させる事を合意しました。

2004.11.29 : シャロン内閣不信任案 否決
クネセトに内閣不信任案が提出されました。しかし、棄権多数のため過半数には至りませんでした。これは、ガザ撤退に反対する勢力が提出したものです。普段、シャロン首相に反対する勢力も、ガザ撤退案には賛成している議員が多いので、撤退案を守るために棄権したため、可決されませんでした。

入植者自治会は今回の撤退案に反対を表明し、ガザ撤退を阻止するためなら手段を選ぶなと発言した議員もいました。政府は撤退の妨害を行う入植者に罰則を与える法案を提出しましたが、さすがにこれは否決されました。

入植地の撤収には国防軍がその任に当たりますが、当然兵士の中にも撤退案に反対している者もいます。命令拒否の気運が高まっているため、軍は命令拒否は軍法会議にかけると発表しました。軍では自分の意見よりも組織の規律を守らなくてはなりません。ただし、入植地出身の兵士は撤収作業から外すという事です。

しかし、国防軍の将校数十人が撤収命令に拒否する連名書を作ったため、国防軍は彼らを解雇しました。国会の前では連日、撤退反対のデモが行われています。

2004.10.27 : 一方的分離案 可決
一方的分離案がクネセト(国会)で可決しました。リクード党内からも反対票があり、アラブ政党も棄権しました。パレスチナ自治政府は”一方的”の部分に遺憾を表明しましたが、ハマスはユダヤ人を撤退させる事が出来るのは我々の勝利だと発表しました。

リクード党内の分離案反対派である、ネタニヤフ元首相(大蔵大臣)は分離案可決を受けて、この案を国民投票にかけてもう一度審議することを希望しました。

umanosukeandtoranosuke