− パックス●ジャパニカーナ −
ガザ撤退計画とは、イスラエルのシャロン首相が発表したガザに駐留するイスラエル国防軍と入植者の撤収計画です。入植者が撤収するとガザは本当にパレスチナ自治政府のものとなるでしょう。 ガザ撤退案は、先だって国会で可決された”一方的分離案”、つまりイスラエルが国防軍と入植者を撤収させる法律に基づいて計画されています。 この法案はパレスチナ自治に入植している人々を守るため、イスラエルは国防軍の駐留費用をはじめ、莫大な予算をどうにか削減しようという事で、以前は入植を勧めていたシャロン首相が180度方針転換したのでした。 国防軍は命令一下で撤収しますが、問題は入植者の人々です。彼らは、いわば極右の人たち(つまりパレスチナはユダヤ人の物だという考えを持っている人々)が多いので、当然ながら撤退には反対しています。
2005.09.12 : ガザのイスラエル国防軍が完全に撤退し、ガザの占領は38年間で終了 これにより、38年間に及んだイスラエル国防軍のガザ占領が終了しました。イスラエル国防軍は第3次中東戦争によってガザを占領し、入植者を植えつけていたのでした。 2005.08.23 : ウエストバンクからの住人撤収完了 これにて、撤収予定の入植地からすべての住民の退去が完了しました。国防軍は9月の中旬にも撤収予定です。 2005.08.22 : イスラエル国防軍と警察によってガザからの住民撤収完了 2005.08.18 : イスラエル国防軍さらに反対派の立てこもる入植地に突入 反対派の多くは若者で、入植地のシナゴクにバリケードを作っていましたが、国防軍の突入によって排除されました。 この日までに完全に当局者以外の人間が居なくなった入植地は、テル・カティファ、モラグ、ゲネイ・タル、ベドラー、ケレム・アツモナの5ヵ所でした。 2005.08.17 : イスラエル国防軍、撤退反対強硬派の立てこもる入植地に突入開始 期限が切れたこの日、イスラエル国防軍は暴徒鎮圧用の装備をし、撤退反対の人々が立てこもる入植地の1つ、ネベ・デカリムに突入しました。入り口にバリケードを作っていた反対派と押し合いになりましたが、これを突破し突入したのでした。 入植地ネベ・デカリムは、イスラエルがエジプトとの平和条約に基づいて、シナイ半島から撤退した時、シナイ半島に入植していた人々が移住した入植地です。1983年設立です。ここの住人は2度も政府に裏切られ、家を追われたという訳です。 2005.08.15 : ガザから撤退開始 初日にも移転に合意する家族がありましたが、絶対に立ち退かないとの強行な家族とそれを支援する反対派の人々はネベ・デカリム、ネツァリム、クファー・ダロム、アツモラ、カティフ、ドゥギトの入植地に集結し、入り口にバリケードを築いていました。 国防軍は反対派の立てこもるこれらの入植地は後回しにし、合意が取れている入植地の住民の撤退から始めました。 2005.08.11 : 最大規模のデモ 警察は5万人の人出を予想し、警察官2千人を配置していましたが、予想をはるかに上回る人々に全く手が出ませんでした。 2005.08.07 : ガザからの撤退承認が閣議決定 後任はオルメルト通産相が大蔵大臣を兼任する事になりました。 2005.07.18 : 大規模なガザからの撤退反対デモ このままガザに入り、撤退の日まで留まり、実力行使に出ようという訳です。国防軍は住民以外の人間がガザに立ち入ることを禁止し、軍事封鎖しました。 計画はイスラエル当局も知っていたため、バスをチャーターしてネティボットに到着した反対派の人々をそのまま追い返す作戦に出ました。それでも、集まった人々は警察の発表では1万人、デモ隊の発表では5万人でした。 デモ隊は行進を始めましたが、ルート上にあるキャンプ場クファー・マイモンでイスラエル国防軍と警察に足止めをされました。両者は話し合いを行い、デモはこの場所で気勢を上げる事で終了し解散する事に合意しました。デモは3日間の予定でしたが、結局この場所から動く事が出来なかった参加者は家路に付きました。 それでも、ガザへの違法侵入は防ぐ事が出来ていません。住民の車のトランクに隠れて侵入したと人もいました。 2005.07.06 : アッバス議長、ダマスカスで各組織と会談 最大勢力といっても過言ではないハマスは、アッバス議長から入閣をオファーされましたが、きっぱりと拒否しているのです。ハマスは拒否できるだけの地盤もあるし、強力だという証左でしょう。 こうしてアッバス議長の思惑ははずれ、ダマスカス会談は失敗に終わりました。そして、ハマスは自治政府には組しないと発表したのです。 2005.06.03 : パレスチナ人398人釈放 釈放された囚人にはアル・ファタやハマスのメンバーも含まれていました。しかし、イスラミック・ジハードのメンバーは外されました。最近、イスラエルに対して攻撃を行ったからです。 この釈放は2月に行った四者会談で、パレスチナとイスラエルの停戦合意に基づく措置です。ただ、この釈放も前回の釈放の後すぐ行われる予定でしたが、ゲリラとの戦闘があったため、停戦の約束が違うとイスラエルが釈放の延期をしていたのでした。 2005.05.17 : 100家族が移転同意書にサイン 2005.05.16 : デモ隊が道路を封鎖 警察は4000人が出動しましたが、事前にこういった状況を想定して訓練していたにもかかわらず、とても手際が悪かったという事です。 デモ隊からは投石があり、警察官が負傷しました。結果としてデモ隊は292人が逮捕されました。 2005.05.09 : ガザ撤退実地延期 2005.03.28 : 国民投票案 否決 2005.02.21 : パレスチナ人500人釈放 2005.02.20 : ガザ撤退案 可決 2005.02.08 : イスラエル、パレスチナ自治政府、ヨルダン、エジプト四者会談 2004.11.29 : シャロン内閣不信任案 否決 入植者自治会は今回の撤退案に反対を表明し、ガザ撤退を阻止するためなら手段を選ぶなと発言した議員もいました。政府は撤退の妨害を行う入植者に罰則を与える法案を提出しましたが、さすがにこれは否決されました。 入植地の撤収には国防軍がその任に当たりますが、当然兵士の中にも撤退案に反対している者もいます。命令拒否の気運が高まっているため、軍は命令拒否は軍法会議にかけると発表しました。軍では自分の意見よりも組織の規律を守らなくてはなりません。ただし、入植地出身の兵士は撤収作業から外すという事です。 しかし、国防軍の将校数十人が撤収命令に拒否する連名書を作ったため、国防軍は彼らを解雇しました。国会の前では連日、撤退反対のデモが行われています。 2004.10.27 : 一方的分離案 可決 リクード党内の分離案反対派である、ネタニヤフ元首相(大蔵大臣)は分離案可決を受けて、この案を国民投票にかけてもう一度審議することを希望しました。 |
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