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Lebanese Forces

Special Thanks for This Section : Lebanese Forces , The Guardians of The Cedars

 

■ レバノン・フォース(レバニーズ・フォーセス)

レバノン・フォースとは、レバノン内戦もたけなわの1976年 8月30日 、内戦を戦っていたキリスト教の各グループが一堂に会し、それぞれの持つ武装部門を合併させて設立した、キリスト教民兵連合軍団です。

合併したのはファランヘ党、自由党、タンジーム党、レバノン防衛隊です。初代のリーダーにはファランヘ党のバシール・ジェマイエルが就任しました。

しかし、後にファランヘと自由党は仲違いを起こし、ファランヘが自由党を襲撃し戦闘に発展しました。これによって自由党はレバノン・フォースを追い出されます。
 
1982年のレバノン戦争時は侵攻してきたイスラエル国防軍に協力し、その軍事力によってPLOが排除されると、イスラエルはバシール・ジェマイエルを新大統領に据えます。しかし、バシール・ジェマイエル大統領は就任後、たった2週間でシリア・ムハバラートが仕掛けた爆弾によって暗殺されてしまいました。

レバノン・フォースは犯人がPLOだと勘違いしたのかどうなのか、レバノンにあるパレスチナ難民キャンプへなだれ込み、難民約2000人を虐殺するという事件を起こしてしまいました。ちなみにイスラエル国防軍はこれを傍観してしまい、国際世論から叩かれ内閣が総辞職したのでした。

1989年10月22日、サウジアラビアのターイフで内戦終結のための会議があり、これに合意したレバノン・フォースは軍事部門を廃止しました。 

■ ファランヘ党(ファランジスト) Kata'ib
社会主義労働者党!?のこの党を設立したのはバシール・ジェマイエルの父、ピエール・ジェマイエルでした。ピエールは大臣を歴任しました。

ファランヘの目指すところはアラブ圏から脱皮して西洋化する事であり、エジプトのナセル大統領が主張するアラブ主義には反対でした。

第1次内戦ではチャモーン大統領を支持します。その後はチャモーン大統領の自由党と連立し政権を取りました。 

 レバノン防衛隊 The Guardians Of The Cedars (Hiras Al-Arz)

アブ・アルツ Abu Arz(Etienne Saqr)が設立した対PLO自警団です。レバノン防衛隊を率いるアルツ氏は政治家の出身ではなく、設立の目的をレバノンの本当の独立とPLOの排除としていました。

アルツは自費を投じて武器を購入し、自警団を結成すると、これに共感した若者が集まり、約2000人の部隊ができあがりました。

レバノン内戦が始まると、準備万端であったため初期の頃より戦果が挙がっていました。そして、マロン派キリスト教徒政党の会議で、政党でないレバノン防衛隊が呼び出されたのです。

 こうしてレバノン・フォースへの加盟をしたレバノン防衛隊でしたが、実際のレバノン・フォースはキリスト教政党が人口数の逆転したイスラームへ政権を委譲したくないための戦闘行為であったと判明したのです。 

かし、アルツはイスラームとキリスト教徒、両者ともレバノン人であるという考えでありました。そのため、イスラームの人々を重用し、自身のボディーガードもイスラームの人々でした。

 このレバノン防衛隊はPLOのみならず、シリアとも敵対しており、1990年にシリアがレバノンを支配すると、これに強固に抵抗したため、非合法組織とされてしまいます。

アウン将軍とシリア支持のレバノン・フォースが戦闘を開始すると、アブ・アルツはアウン将軍を支持します。アルツはアウン将軍に、イスラエルにバックアップを要請するよう勧めますが、アウン将軍は拒否しました。 

その結果アウン将軍は敗れるのですが、アブ・アルツもベイルートを追放され、南部へと落ち延びSLAに保護されていました。

SLAのバックアップのイスラエルがレバノンから撤収すると、”軍事バランスの崩壊を招き、ヒズボラがヒーローとなった。”とイスラエルを非難しました。

■ 自由党 National Liberal Party (Ahrar)
元レバノン大統領のカミール・チャモーン氏が設立した政党です。カミール・チャモーン氏は共産主義と外国の干渉を排除することに全力を尽くしていました。1984年にカミール・チャモーン氏は内閣顧問となり、87年に亡くなるまでその職にいました。

そして、彼の息子ダニー・チャモーンです。自由党の武装部門タイガー軍団を率いていたダニー・チャモーンは1985年に父から自由党の党首に任命されます。

1990年にアウン将軍が蜂起すると自由党はこれを支持します。しかし、1990年にダニー・チャモーンは家族もろとも暗殺されてしまいました。暗殺したのはシリアのムハバラート(情報部)だとの説が有力です。

ダニー・チャモーン党首の後を継いだのは兄のドリー・チャモーン氏(現党首)です。

■ タンジーム Al-Tanzeem
タンジームという言葉がアラビア語で集合体を意味するので、後ろに党と付けると二重の言葉になって変ですが、タンジームは政治の党です。(この政党の詳細は勉強不足のため不明です)

 

■ マロン派な人々

■ ファランヘ党


写真提供 レバノン・フォース

バシール・ジェマイエル Bachir Gemayel
ピエール・ジェマイエルの一番下の息子で、ファランヘの軍事部門を率いていました。レバノン・フォースが設立と相成りますと、初代司令官に就任します。

レバノン戦争後に大統領になりますが、就任式前の1982年9月14日、爆弾によって暗殺されてしまいます。

 


写真提供
 レバノン・フォース

シャミー・ジェアジェア Shamir Geagea 
レバノン内戦がベイルートから各地に飛び火していた頃、クラの大学で勉強中だったシャミーは学業を中断し、この戦闘に参加しました。
元々ファランヘの党員だったため、戦闘員を組織することは容易であったのです。クラでの戦闘はシリア軍が来たおかげで終息し、シャミーは学校に戻ります。

しかし、すぐにベイルートからレバノン・フォースを設立するから参加しろと命令を受けます。 これを受けてシャミーはまたも大学を休学し、戦闘に参加したのです。しかし、初陣で重傷を負い、フランスの病院へ送られたのです。

けがが回復し帰国すると、レバノン・フォース北部軍管区の司令官になり、活躍しました。

バシール・ジェマイエルが暗殺されるとレバノン・フォースはフォウド・アブ・ナディ Fouad Abu Nadirが率いていました。シャミーはエリー・ホベイカと共同し、ナディを引退させます。そして、ホベイカが最高責任者となり、シャミーは参謀総長となったのです。

このホベイカもシャミーによって排除され、1986年レバノン・フォースのリーダーとなりました。 

1994年、4件の暗殺事件を指揮したことにより、終身刑となりましたが、2005年7月25日に釈放されました。

 

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エリー・ホベイカ Elie Hobeika
レバノン・フォースの幹部で、愛用していたドイツの銃ヘッケラー&コックから”HK”と呼ばれていました。
その異名から想像する通り、ホベイカは過激で無慈悲な戦士でした。’82年のレバノン戦争が終わり、バシール・ジェマイエルが暗殺された時、報復としてパレスチナ難民キャンプへの襲撃を命じたのもホベイカだと言われています。

1985年3月、CIAはアメリカ海兵隊が、イスラームの戦士によるカミカゼ・アタックで死傷した事件の報復に、ヒズボラを率いるムハンマド・フセイン・ファドラッラー師の暗殺を計画しました。そして、レバノン情報部に所属していたホベイカに暗殺を依頼します。

これを受けたホベイカはファドラッラー師の自宅付近に自動車爆弾を仕掛けました。爆弾は爆発し多数の死傷者が出ましたが、肝心のファドラッラー師は無傷でした。CIAはこの失敗でホベイカと手を切ることになったのです。

2002年1月24日、暗殺されました。

■ レバノン防衛隊


写真提供 レバノン防衛隊

アブ・アルツ Abu Arz ( Etienne Saqr )
自費を投じて自警団を結成したアルツはキリスト教連合に呼び出されます。その戦闘力に目を付けたキリスト教徒連合の意向でした。
アルツはシリアとPLOの排除を目的としており、他のキリスト教徒とは違い、イスラームと敵対していませんでした。

アウン将軍が蜂起した時、これを支持していたアルツはイスラエルへの協力要請を進言しますが、将軍に拒否されます。アルツは後にそれが原因で逮捕されてしまいます。

■ 自由党

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ダニー・チャモーン Dany Chamoun
カミール・チャモーン元大統領が設立した自由党の2代目です。当時、政党も武装部門を持っていたレバノンで、自由党の武装部門タイガー軍団を率いていました。その軍団をもってレバノン・フォースに加盟しました。

アウン将軍が蜂起した時、これを支持しレバノン・フォースから離脱します。しかし、これが原因となりアウン将軍と敵対するシリアによって、1990年10月21日、暗殺されてしまいます。

 

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