PFLP , PFLP-GC , DFLP , ALF
Populer , Liberation , Palestine

PSFとPLFはアル・ファタの項へどうぞ

■ PFLP Popular Front for the Liberation of Palestine

1967年12月に共産主義者ジョージ・ハバッシュ博士によって設立されました。PLOの野党だったのですが、アラファト議長と意見が合わず、別行動を取っています。

日本赤軍のロッド空港(現ベングリオン空港)乱射事件を支援するなど、日本赤軍などの共産主義グループとも協力関係にあります。

武装部門としてアブ・アリ・ムスタファ軍団が設立されました。

■ ジョージ ハバッシュ書記長 George Habash


写真提供:PASSIA

PFLPを設立した人です。ハバッシュ書記長はイスラームではなくギリシャ正教徒です。

ハバッシュ書記長の考え方は、共産主義とパレスチナナショナリズムを融合させた国家の設立にあります。
アラファト議長のやり方は生ぬるいと批判し、PLOから離脱した事もありました。

モサドから狙われていましたが、生き延び続けます。そして、2000年5月、PFLP書記長を辞任しました。

■ アブ・アリ・ムスタファ書記長 Abu-Ali Mustafa

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ハバッシュ書記長が辞任すると、後任にムスタファ書記長が就きました。
かなり派手な攻撃をやった結果、2001年8月27日イスラエル国防軍に暗殺されました。

■ アハメド・サダット書記長 Ahmed Sadat


写真提供:PASSIA

2001年10月3日にムスタファ書記長の後継者として選出されました。
PFLPはムスタファ前書記長を暗殺された報復に、イスラエルのゼエビ観光大臣(右翼政党党首)を暗殺しました。

これに対しイスラエルはアラファト議長に犯人の逮捕を要求します。自治政府は一応これに答え、サダット書記長を逮捕しました。

しかし、実際はサダット書記長には、かなりの自由が与えられており、携帯電話の使用も認められていたのです。イスラエルは、これでは逮捕している意味がない。サダット書記長を渡せ、とパレスチナ自治区に侵攻し、アラファト議長のオフィスを取り囲みます。

しかし、アラファト議長としても渡せるわけがありません。すると、イギリスとアメリカがサダット書記長を監視するからと助け舟を出し、アラファト議長は開放されました。

 

 

■ PFLP−GC Popular Front for the Liberation of Palestine-General Command

1968年にPFLPから分離した組織です。エジプトとシリアにバックアップされていたPFLPが両国の意見の対立によって分裂したのです。

PFLP−GCのリーダー、アハメド・ジブリルは元シリア陸軍の大尉であり、バックアップはシリアです。本部はダマスカスにありましたが、イラク戦争の後パウエル国務長官がシリアを訪問し、テロ組織の支援をしないよう要請し、本部が閉鎖される事になりました。

■ アハメド・ジブリル Ahmed Jibril

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元シリア陸軍大尉で、その後はPFLPに参加しました。しかし、意見の対立から分派し、PFLP−GCを設立します。
息子のジハード・ジブリルはレバノンで暗殺されました。犯人は・・・モサド?

 

 

■ DFLP Democratic Front for the Liberation of Palestine

1969年にPFLPから分離して設立されたグループです。創立はナイフ ハワトメです。アメリカのWTCビル突入事件ではDFLPが攻撃声明を出しましたが、本当のところはわかません。1993年にPLOから脱退しました。バックアップはシリアです。

■ ナイフ・ハワトメ書記長 Naif Hawatmeh

DFLPの指導者です。ヨルダン生まれのベドウィンでキリスト教徒です。

ハワトメ少年は、16歳でANM(アラブ国家主義運動)の政治運動に参加し、すぐに頭角を現すと18歳で幹部になりました。ところがヨルダンがこの政治結社を弾圧し始め、ハワトメは地下に潜る事を余儀なくされます。地下に潜ったハワトメに対し、ヨルダンは欠席裁判で死刑宣告を行います。

ハワトメはこの頃、レバノンに潜伏していました。しかし、レバノンで政情が不安定になるとハワトメはイラクへ移動します。イラクでANMを率いていましたが、カセム将軍が政権を取ると、ハワトメは逮捕され投獄されてしまいます。

イラク政権で今度はアーリフ大佐のクーデターが成功すると、ハワトメは釈放されます。ところが、アーリフ大佐によってバックアップされていたはずのANMですが、新聞を発行した事で当局から問題視されてしまいます。結局この新聞は27日間しか発行できませんでした。

そして、結局ハワトメは協力者であったはずのバース党(アーレフ大佐)に疎まれ、国外退去を命じられました。その後、イラクからも欠席裁判で死刑を宣告されます。

1967年には南イエメンに入り、独立運動に参加します。この頃にはハワトメの名前は革命家としてアラブ世界では有名になっていました。

第3次中東戦争が終了するとハワトメはパレスチナ独立運動に本格参加し、PFLPに招聘されました。PFLPは革命思想と保守派の融合いに成功し、勢力を拡大しましたが、ハワトメは共産主義第一を通し、新たにDFLPを設立しました。

1970年、ヨルダンがPLOを排除するために戦闘を開始しましたが、この時、ヨルダン政府はハワトメを捕らえるか殺害した者には賞金を出すと公式に発表します。

しかし、ヨルダンはハワトメを捕まえる事はできませんでした。

現在はシリアのダマスカスに本部を置き、活動しています。

 

 

■ ALF The Arab Liberation Front

イラク・バース党によって設立された組織です。もちろんPLOに加盟しており、PLO内でイラクの利権を主張するために作られたのでしょう。
イラク軍直接の指揮を受けていましたが、イラク戦争でフセイン政権が崩壊した後はアメリカ軍を相手に戦っているのでしょうか・・・。

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