PART.13

「まさか、本当に帰って来ないなんてね」
 朝帰りした僕を玄関で迎えるなり、尾崎さんは苦笑しながらそう言った。
 僕はちょっと照れくさいような恥ずかしいような、叱られているような複雑な気持ちで、尾崎さんを見た。
「言ったことは、実行しますよ。電話で言ったことは全部正直な気持ちだし」
 強気というよりも、ちょっと遠慮がちに僕は言った。そうなってしまうのは、尾崎さんの気持ちに悪いと思う心があるのと、これまで世話になってるせいもある。
 でも尾崎さんはそんなに気にしないでくれたみたいで、話を蒸し返すようなことはしなかった。でも言わないだけかもしれなかった。
 もっと責めてもいいんじゃないかって思う。僕は尾崎さんの気持ちを知っているのに、応えないどころか踏みにじってる。なのに尾崎さんは感情を乱したりしない。僕を嫌いになったりもしない。
 大人だからかな。大人ってみんなそうなのかな。もっとワガママに自分の意見言ったりとかしないのかな。
 訊いてみたかったけど、そんなこと僕の口から訊けるはずもなかった。


 学校が冬休みに入っても、僕がバイトあるからそうそう相沢にも会えず、結局恒例の土日だけだった。バイトするなって僕が釘さしたせいなのか、相沢は真面目に受験勉強に取り組んでいるらしい。会った日には必ずセックスするようになってた。そうなると、僕たちの関係は余計にわからなくなるけど、やっぱり友達の延長なのかもしれなかった。相沢がそう思ってるかどうかはわからないけど。
 僕を所有したがるようになってるから、ちょっとは違うのかな。
 でも僕は、いつまでも相沢が僕を抱いてくれるとは思っていなかった。あいつはまだ学生だし、恋愛経験が少ないから今をそれだと思い込んでるだけかもしれない。社会に出ていろんな人に出会った時、相沢がどんな風になるのかわからない。その頃に、すべての答えが出るんじゃないかと僕は考えてる。
 それでも僕を選んでくれたら、僕は一生を相沢にささげてもいい。
 なるべく期待しないようにしてしまうのは、人に言えない過去を抱えてるせいだろう。レイプされて校内暴力起こして退学になって、身体売って生きてたから。墜ちるとこまで墜ちて、人間すらやめかかってたし。
 そんな僕を必要としてくれるかどうか、わからないから。
 尾崎さんは僕と相沢の関係を知っていたのに、何も口出ししなかった。邪魔するようなこともなかった。そして、一緒に暮らしている僕に手出しするようなことも、もうなかった。
 そうこう日々を暮らしてくうちに、正月が来て冬休みが終わった。大晦日と新年は尾崎さんと一緒に過ごした。相沢はやっぱり家族と一緒だから。僕もその方がいいって言ったし。
 三学期が来て、相沢は最後の三年生の時間を過ごす。受験が終わるまで、僕たちは会う時間を少し減らした。
 そして無事、受験も終わり、あとは結果を待つだけだった。


 結果発表当日。
 相沢と僕は待ち合わせをして、張り出されてある紙を見に行った。受験番号を聞いて、僕も一緒に探す。
 相沢の名前があった。
 合格してた。
 僕たちは妙に盛り上がって、落っこちた人から見たら相当憎たらしい奴らだっただろう。それだけ周囲に目立つほど僕らは喜んで、帰り際に喫茶店に寄った。
 ふたり分のコーヒーを注文して、興奮覚めやらぬ状態で会話を繰り広げた。
「やったね。ようやく第一歩だね」
 よく合格をゴールと勘違いする人とかいるけど、本当はこれからの一歩が始まるってことだ。夢のある未来のように思えて、僕はなんだかちょっと辛くなったけど、顔には出さなかった。
 僕にはもう進めない道だった。相沢の行く道は。
 そんな考え方をするなと言う人もいるかもしれないけど、これまでの僕はあまりにもグチャグチャだったから、今さら修復なんて無理な気がした。
 だからかな。相沢にはちゃんとした自分の道を歩いてもらいたかった。そのために僕がもし邪魔だったら、いつでも消えてもいいと思ってた。
 相沢は本当に嬉しそうで、なんだか眩しい。
「これで四月からはおまえと一緒に暮らせるな」
「でもそれ、ちょっとマズかったりしない?」
「なんで?」
「僕とつきあうなって言われてるんだろ?」
「……」
 一瞬、相沢が黙った。図星なのがはっきりと伝わった。つくづく嘘のつけない奴。
「そんなの関係ない。悟瑠の性格知ってて言ってるわけじゃないんだから」
 世間的印象の悪い僕が、相沢の両親に好意を抱かれるわけがなかった。人間なんて直接関わらない限り、聞いた話や噂だけで相手の性格や性質を断定してしまうところがある。でもそんなの当り前なことだった。もし僕が相沢の家族でも、同じように考えるし口出しすると思う。
「……あれから、例のヤツ出たか?」
「例のヤツ?」
 聞き返しながら誰のこと言ってんのか気がついた。僕が堕落したきっかけを作った張本人、元生活指導の先生のことだ。
「会わないよ。前のとこ引き払ってから、あの辺近寄らないし、尾崎さんの借りてるマンションにいるとはさすがに思わないだろうから。だいたい僕が今どこでバイトしてんのかも知らないだろうし」
「そっか。よかった」
 相沢がホッとしてた。
「一緒に暮らすの、絶対実行するから。それでおまえに嫌な思いさせたりしないから」
「……うん」
 ふと、僕の頭の中で、一緒に暮らしてるところに訪ねて来た相沢の親が、僕の存在を見つけて咎めてる図が浮かんだ。友達と同居するのは構わないが、相手を選べって言ってる。
 それが顔に出てたんだろうか、相沢が笑いかけてこう言った。
「大丈夫。俺がぜったいなんとかするからさ」


「っくしょん!」
 三月。そろそろ春で花粉が飛ぶ。べつに僕は花粉症じゃないから関係ないけど、尾崎さんはどうやら違ったようだ。
「大丈夫ですか?」
「なんとかね」
 笑ってるけど、ティッシュは手放せないみたいだ。クシャミも、今日何度目だろう。
「これで風邪ひいてたらサイアクだな。春は嫌だよ」
 思わず僕は笑った。すると、尾崎さんが睨むフリをした。
「花粉症を笑うと花粉症に泣かされるぞ」
「なんですか、それ」
「とにかく明日、病院に行ってくるよ。よく効く注射があってね」
「とりあえずお風呂用意しましたから、入ってくださいよ」
「わかった」
 尾崎さんがバスルームに向かいかけて、ふと足を止めて振り向いた。
「四月になったら本当に出て行くの?」
「相沢との約束ですからね」
「ふぅん……」
 尾崎さんは何か言おうとして、やめたみたいだった。今度こそバスルームの方へ向かったけど、また寸前で振り向いた。
「なんなら思い出として、一緒に入らないか?」
「何言ってんですか」
 僕は笑って取り合わなかった。尾崎さんは僕の答えがわかってたみたいで、苦笑していなくなった。
 ごくたまにだけど、こういう展開になった時、僕の中に罪悪感に似た感情が宿る。尾崎さんの気持ちを知ってて避けてる自分がすごく悪い奴に思えてくる。でも仕方ないんだと自分に言い聞かせる。僕の好きなのは相沢なんだから。
 四月に出て行くって言ってるけど、実際はもっと早くなりそうだった。部屋探しはもう始まっていて、だいたいの目星もついてるらしい。あとは契約して引っ越すだけだから、三月中には全部済みそうだった。
 しばらくして尾崎さんが風呂から出てきた。僕は自分のお湯を用意して、脱衣場で服を脱ぐ。上半身裸になったところで、
 気配に気づいた。
「っ!」
 仕切りのカーテンを開けて半分ほど中に入って来たのは、尾崎さんだった。表情がやけに真剣で、僕は驚いて立ちすくむ。
「ど……どうしたんですか?」
 これまで、こんなこと一度だってなかった。だから僕は安心してた。
「三か月近く、俺たちは一緒に暮らしてきた。その間、なるべく俺はきみに必要以上触れないように努力してきたよ。きみが相沢真くんと何をしようと気にしないように努めてきた。俺の身体の中にある限りの理性を総動員してね」
 僕は言葉なく尾崎さんを見ていた。
「頭ではわかってるんだ。きみが誰を好きなのか。誰を必要としてるのか。それでも、もしかしたらって期待してる心がなかったわけじゃない。一緒に寝起きしてるうちにきみの心が変わるかもしれないと、半分くらいは期待もした。残念ながらそれはなかったみたいだけど、きみがここから出ていくとわかった今、俺はかなり動揺してる」
「尾崎さん……」
 緊迫した気配が伝わって、少し僕は怖くなった。
 これまで尾崎さんを怖いと思ったことなんてなかったのに。
「ずっと安心してたんだ、きっと。きみが俺の手の届くところにいたから。だから寛大でいられたんだ。けれど、きみが俺から離れていくと思ってから、俺は焦りだしてる。できればきみを遠くにやりたくない。ずっと傍にいてほしい」
「でも……」
 そんなことできない。僕は相沢の傍にいたい。いられる限り、相沢の傍に。
「でも、職場が一緒なんだから……」
「駄目なんだ。そんな短い時間じゃ足りないんだ。無茶言ってる自覚はあるよ。きみが俺に対して仕事仲間以上の気持ちがないこともわかってる。……同情でもいいんだ」
 尾崎さんの手が、僕の肩に乗った。寄せられてくる唇。僕は茫然としてた。
 唇が触れた瞬間に、突き飛ばす。
「やめてくださいっ」
 同情でもいいって何?
「どうして今ごろ、そんなこと言い出すんですか。なんでそんな……っ」
「ごめん」
 興奮して声を荒げる僕に、尾崎さんが呆気ないほどあっさりと謝った。一対の瞳の中に、後悔の色が宿ってた。引き際あざやかに尾崎さんが僕から離れて、仕切りカーテンの向こうへと消えた。
 せっかくずっと穏やかな時間を過ごせてたのに。僕にとって心地いいその空間は、尾崎さんにとっては苦痛だったのかもしれないけど。身体が震えて止まらなかった。なんで僕はこんなに動揺してるんだろう。何におびえてるんだろう。
 とにかく僕は服を脱いで風呂に入った。他に逃げる場所がなかった。
 いつか、こんな日が来ても、おかしくはなかった。
 そうだった。尾崎さんはずっと我慢してたんだから。
 僕が、我慢させてたんだから。

 湯船に浸かりながら僕はボーッとしてた。出たくなかった。
 こんな時は相沢の傍にいたかった。抱きしめてもらいたかった。
 尾崎さんが何もしなかったから、ずっと僕は安心してた。クリスマスイブの夜、酔ってる時にキスされた以外、本当に何もなかった。
 今ごろ……本当に今ごろになって、こんなこと言い出されて、僕はどうしたらいいのかわからない。これからどうやって、僕は尾崎さんに会えばいいのか。
 一緒に暮らす時間はまだあるのに。
 何もなかった顔なんて、できるかどうか自信ない。
 さんざん昔、投げやりに身体売ってたくせに、なんでこんなことで悩んでるのか、自分でも呆れる。ちょっと前の僕なら平気で抱かれてたと思う。あの頃だったら全然気にならなかったと思う。
 でも今は。
 ……だんだん眠くなってきた。頭がぼーっとする。なんでだろう。
 風呂の縁に両腕を組むように乗せて、その上に顔を乗せる。なんだか辛くなってきて、僕は目を閉じた。頭がぼーっとするから何も考えられなくなってくる。
 風呂場で寝ると死ぬって聞いたことあるけど、それは溺れて沈んだ場合だと思うから、たぶん大丈夫だろう。そんなこと考えながら、僕は引きずり込まれるように意識を手放した。


 ふ、と意識が浮上した時、僕はお湯の中じゃなかった。
 目に最初に飛び込んだのは天井。
 見慣れた天井だった。
 額に冷たいタオルが乗ってる。頭がぼーっとする。顔が熱い。
「なんでのぼせるほど入ってたんだ」
 少し責める響きの声が、僕の上に降ってきた。
「きみの悪いところを指摘するよ。都合が悪くなるとすぐに逃げる。何も見なかったフリをしてね」
 尾崎さんは怒ってた。
 感情に任せて怒鳴るとか、そんなんじゃないけど、怒ってた。
 僕は何も言い返せず、のぼせた頭もロクに働かなかった。
「鍵がかかってたから、いつまで経っても出て来なかった時には焦ったよ。仕方ないからガラス割って鍵はずして、中に入るしかなかった」
 謝った方がいいんだろう、本当は。
 でも僕は怒ってる尾崎さんの声を、ぼんやりと聞いてるだけだった。
 ……ガラス代は弁償しなきゃ。
「死んだらどうするつもりだったんだ」
 尾崎さんがベッドの縁に座った。そこで初めて僕は尾崎さんと目が合った。
 わずかな怒りと、切なさが同居してた。ふ、と尾崎さんの視線が和らぐ。
「……俺じゃ駄目なのか?」
 相沢がいなかったら、きっと僕は尾崎さんのこと一番に好きになってたかもしれない。
 だけど相沢がいるから、尾崎さんでは駄目だった。
 僕は、ついと目をそらす。だるくて、それしかリアクションできなかった。
 すごく眠りたかった。
 僕はたぶん、何回も尾崎さんを傷つけてる。だけど、他にどうしたらいいのかわからない。
 嫌いじゃないのに。
 でも愛してない。好きだけど、愛してない。
 すごく胸が痛かった。痛くてどうしようもなかった。

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