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Contents


2003年6月 『水の世紀へのメッセージ〜吉野川と空海〜』

2003年4月 北京も東京も電子辞書

2003年3月 ロサンジェルスマラソンは市民のお祭り

2003年2月 日本の大学生活 1

2003年1月 箸を持ち歩くようになったワケ

2003年1月 寺島実郎「失われた10年から見えてくるもの」

2002年10月 北京国際マラソンは国交正常化30周年の贈り物

2002年9月 30曲歌えるころには喋れるようになるはず

2002年9月 9000円を割り始めた日本経済

2002年8月 中国の大江健三郎

2002年6月 都市と農村漁村の人々のネットワーク

2002年1月 趙微をめぐる「不自然」

2001年12月 A Decade

2001年10月 はじめての中国・シンセン

2001年6月 人民中国雑誌社との懇談会

2000年8月 生活とマラソン

1999年3月 植物と社会

1999年2月 50人への電話かけ

1999年2月 「沢登り」から韓国とのつきあいが始まった。

1999年2月 In the heat of the sun(太陽の少年)で発見した陶虹

1998年12月 記憶の片隅から学ぶもの

1998年11月 晩秋、快晴、快適ハーフマラソン

1998年11月 リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる。

1998年11月 見えないが、不思議な秩序がある街マニラ

1998年10月 鼓童

1998年9月 Syber spaceから出てきたSue

1998年9月 発見と観察

1998年9月 中国語会話レッスン体験

1998年9月 華やかそうで地味な世界 社交ダンス

1998年9月 英語のクラスレッスン体験


2003年6月 『水の世紀へのメッセージ〜吉野川と空海〜』


JUON第5回総会・記念イベントのテーマは『水の世紀へのメッセージ〜吉野川と空海〜』(03年6月14日〜15日)・・・いかにも四国らしい。このテーマはJUON四国地域の方々の総会受け入れで実現した。この4月に町村合併で実現した東かがわ市でのJUON総会だ。だから、総会には市長じきじきのご挨拶があった。会場となった「ベッセルおおち」は瀬戸内海に面し1997年にオープンした。海を眺める天然温泉と6.1サラウンド・システムの多機能AVホールを持つ複合施設で、ログハウス、ロッジの宿泊設備も併せ持つ。

総会は、事業活動・決算、事業計画・予算のほかに中期計画を確認した。JUON NETWORKが設立5周年をむかえ、到達点を確認するともに今後5年間の活動の軸足を確認する総会である。今後の活動スタイルは地域ブロック体制を中心に進め、それにプロジェクト活動や専門委員会活動を補完する。主要な全国テーマは3つで「エコサーバー」「森林の楽校」「樹恩割り箸」である。

「エコサーバー」は環境・農山村都市の生活全般についての学習・活動をとらえた知識の資格であり、今秋から東京、大阪で研修と試験を実施する。07年には累積受験者数950名をめざす。

「森林の楽校」はすでに5箇所で年8回ほど行われている。2〜3日の日程で山に入り、下草刈り、間伐などの実体験をするコースだ。これは07年には全国14箇所で実施する目標だ。

「樹恩割り箸」はセルプ箸蔵(徳島)で製造し61団体で年間650万膳利用されている。07年にはもう1箇所製造工場を増やし、110生協1250万膳の利用をめざす。

これらを実現する上でも日常的な活動基盤である各地域ブロックの活動活性化が望まれる。全国600数十名の会員に加え、毎年エコサーバー資格者の参加により、更なる専門的な活動が地域ごとにすすむ可能性がある。 今年の総会はこれからの活動方向を参加者一同で共有しあう上で重要だった。

いつも総会にあわせて記念イベントがもたれている。今年のプログラムは記念講演として中村本燃先生(高野山大学)による、『空海からの提言<意識改革>』、サヌカイトコンサート、学生による環境を考える学習発表会、夕食交流会、オプションツアだった。

講演は刺激的だった。空海の真言密教・真言教学史を研究する中村先生は、私たちにわかりやすくかつ情熱的に空海について語る。「1000年単位でモノをみよ」「全世界の教育機関の先駆けとしての綜芸種智院創設」「遣唐使で中国留学して学び取った真言密教」「空海の集大成としての『秘密=曼荼羅=十住心』論」を具体的な事例と研究者の発言を沿えながら私たちに教えとく。そして最後は空海の曼荼羅思想として3つのメッセージを紹介してくださった。

「すべての存在は無限からなる叡智を秘めた尊い存在である<横の平等>」 「あらゆる文化・思想はそれぞれの意味において価値あるものである<横の平等・竪の差別>」 「人の存在意義は自らの無限なる可能性を開顕(真の自己の確立)することにある<竪の差別>」

自己存在を確認できなくなったときに人は死ぬ。いま、若者も大人も「いかに生きるべきか」を問い、自己実現の長い旅を続けている。空海は「異質な価値観」「異質な文化」を認める。「文明の危機」が取りざたされるグローバルな時代に、空海は「1000年の単位」でモノをとらえなおすメッセージを私たちに送る。

僕にとってはこれから1000年先(3003年)に思いを馳せ、1000年前(1003年)、2000年前(西暦3年)の歴史を紐解くよいきっかけをいただいた講演であった。

「サヌカイト」はまったく想像がつかない単語だった。広辞苑によると「sanukite 讃岐岩の別名」とあり、プログラムの説明では「サヌカイトは約13000年前に香川県を中心とする瀬戸内海一帯であった激しい火山活動の時に急激に冷やされて溶岩からでてくる。古代には石器として使われ、叩くと金属音がして「カンカン石」と呼ばれていた。ドイツ人によって、世界中でここ、讃岐にしかない石という意味で“サヌカイト”と名づけられた」とある。その石を使って木琴のように「石琴」的な打楽器に仕立てあげてある。それをマリンバのように叩いて演奏してくださった。演奏者は88年に賞をとったという森ゆき子さん。純白のロングドレスを着て「荒城の月」「夏の思い出」など6曲を演奏をしてくださった。静寂なホールでの清らかな音は僕を古代の音の世界に連れて行った。それは数万年前の音の世界であり、今後数万年後の音の世界にも連なる。東かがわ市に来てこのような音を聴くことができたことは「樹恩のご利益」そのものであった。

学生による環境の発表は3人から行われた。「四国の山をめぐって・・・」ではプロジェクターを使い、四国の自然・山・森林についての写真と語りがあり、「森林の機能・人工林の手入れの仕方」などが説明された。見事な環境教育の教材でもあった。「お水坊やの旅」は水をテーマにした紙芝居であり、水や木を擬人化して「水・吉野川・池田ダム」の役割をわかりやすく語る。ほとんどプロのレベルに近いと思われる語部(女子学生)に対して大きな拍手で「製作と発表」に敬意を表していた。「クイズ大会〜環境10問」も参加者を魅了した企画であり、参加者のこのイベントへの参加姿勢の度合いを測るちょっと辛目の企画であった。

3年前、神泉総会(埼玉県)から学生主催の環境企画がスタートした。今年の学生企画のレベルの高さを見て、「未来をつくるのは若者だ」と万感のおもいをする。

さて、恒例のオプションツアは4コースであり「ダリ彫刻の森とパペットランドツア」「お遍路ワープツア1番札所霊山寺と88番結願時大窪寺参詣」「讃岐うどん食べ歩きツア」「水源への旅ツア」であった。僕は「お遍路ワープツア」に参加した。これのユニークなところは、四国88ケ所のうち最初と最後を参詣する、まさにワープすることだ。しかもマイクロバスで「お遍路」するのだからこれは「邪道」かもしれない。昼食には“さぬきうどん”を楽しみ、正味4時間で「四国のさわり」を体験させていただいた。前日、空海の話を聴いたばかりであるから、参詣に対する気持ちも深みが増す。大窪寺は真言宗大覚寺派で本尊は薬師如来、時間の関係で境内から880メートル上がった奥の院にある阿弥陀如来まで行くことが出来なかったが、きれいに整理された境内はとても心が和んだ。


2003年4 月 北京も東京も電子辞書


中国に行くといつもお茶とVCDと書籍を買ってくる。しかし、前回北京に行った時には西単の本屋で電子辞書を買ってきた。この辞書はオックスフォード大学出版と提携している。英漢、漢英、英英、漢漢辞書、それに時計、電卓、語学学習用の教材など様々な遊びがついている。これがすごく便利だ。残念なのはピンインがないことと単語が4000語しかないことだ。しかし、4000語覚えれば立派にHSK6級を取れるし、日常会話にもことかかない。これをおもちゃのように使いきるの大切だ。

実はホントのところは日中・中日の携帯電子辞書が欲しい。しかし、日本ではまだ小学館の辞書しか電子辞書化していなかった。5年前にソニーの電子辞書を買い、使っていたが液晶が壊れてからは使っていない。しかも大きくてポケットに入らないのが難点だった。VAIO(990グラム)にも小学館の辞書を入れておりそれはそれで便利だが、“ちょっと引く“という点では無理がある。豊富な単語量と例文が入っている携帯電子辞書が必要なのだ。辞書を持ち運びするということでは電子辞書に勝るものはない。

ところがこの3月にカシオから中国語の電子辞書が発売された。広辞苑、ジーニアス英和・和英辞典、それに小学館の中日・日中時点が収録されている。これでロングマンの英英辞典が入ってそれらがスーパージャンプすれば申し分ない。しかし、英英辞典までは要求するのは欲張りと言うものだ。

これの使い勝手も良好だ。特にスーパージャンプの価値は大きい。不満もいくつかある。中日辞書のなかの語順配列に学習機能をつけて欲しかった。それと漢字を探すために手書き入力もあったほうがいい。と言っても、僕としては満足の電子辞書である。価格も定価は45000円だが、今回は大学生協が組価27800円という安さで破格の値段をつけた。約40%引きだから、重い辞書を持ち歩く学生もいきおいこの電子辞書を買う。4月からずーと品切れ状態が続いている。重さ200数十グラムのこの電子辞書はいつも僕の背広の内ポケットにはいっている。

ところで西単の大書店(Beijing Books Center)に行ってびっくりした。それは店内のお客の多さと一人あたりの購入点数の多さだ。たぶん、北京最大の本屋だと思うが4階建ての本屋には入り口から続いてエスカレーターがあり、本は棚だけではなく大胆に平積みされている。あの在庫量は半端ではない。しかも、買うお客も半端な量ではない。よく日本のスーパーでみるあの手押しのカーゴにいっぱい本を買っていく。何か生鮮食品を買いに日曜日に本屋に来るような感じである。

これまで、新華書店など伝統的な本屋にいったが、この西単の大書店は中国の常識を超えた書店作りをしている。2年前、大江健三郎がサイン会をやったのもこの本屋だった。とにかく本が新鮮で買いたくなるのだ。店員も店内接客に余念がないし、棚から一冊本が売れるとすぐ在庫から補充する。だから、あれだけ売れても棚がガタガタしていない。

中国の活字文化は経済の発展、科学技術の発展と連動していそうだ。そして今、中国人は懸命に勉強している。生徒・学生は受験という壁に向った勉強であり、社会人は「充電」という自分自身のキャリア形成のために勉強している。


2003年3月 ロサンジェルスマラソンは市民のお祭り


今回の第18回ロサンジェルスマラソンは第10回に参加して以来なので8年ぶり、2回目だ。アメリカがイラクに戦争を仕掛けている局面なので、時期的にはかなり危ない時期だ。 しかし、LAに着いてみるとほとんどLA市民生活と“戦争”は離れている感じだ。日本にいると毎日のように“戦争”が話題になっているがそれがうそのように感じられるほどだ。

今回は何回もダウンタウンにあるチャイナタウンに行った。これは8年前とは大違いの自分の行動だ。以前の自分ならサンタモニカ、ビバリーヒルズ、ユニバーサルスタジオなどに行った。今、自分が中国に傾倒しているのがわかる。今回は数年前にできたという地下鉄に乗りシビックセンターからハリウッドヒルまで行く。片道1ドル35セントだ。切符を買って地下鉄に乗るのだが、入り口も出口にも駅員がいない。みな、乗客の自主性に任せている。バスもずいぶん使った。路線バスが1ドル35セント、ダッシュという市内循環バスは25セントである。金曜夜のオフ会であったゆきさんの話によると、彼女はロスに来て約5年になるが地下鉄は一回も乗ったこともなくバスもほとんど使わない。自分の車でドアツウドアの生活を送っているということだ。他のオフ会参加者も同様だった。土曜日、乗客を見ると、ほとんど、白人以外の人種と高齢者だ。逆に市民の足として貴重な役割を果たしていることになる。その視点で、流れている車の運転手を見るといわゆる高齢者はほとんど見当たらない。アメリカ的な福祉がそこにあった。路線バスは月57ドルで定期券が買え3万以上の駅に乗り降りができる。

今回こちらに来る2日前に、LA30sというLAに住む市民ネットワーク団体の一セクションである金曜夜オフ会のyukiさんにメールで参加の連絡をとった。彼女からはすぐメールがあり、携帯電話を教えてくれた。木曜日ホテルにチェックイン後彼女に電話をする。 金曜日の夜彼女がリトル東京のオフ会の会場に行く前に僕をピックアップしてくれるということであった。夜のLAはそれなりに危ないからありがたかった。会場のazamiに行くと先客が二人いた。最近結婚したカップルで日本人女性と中国系のアメリカ人男性だ。今回のオフ会は参加が少ない。それは土曜日日帰りでスキーに行く企画がありそちらに参加する人が多いからということだ。23時半ころに着き、店が終わる26時までいて、その後大黒屋でラーメンをたべてホテルに戻る。yukiさんが送ってくれたので安心できる夜だった。

話は交通のこと、車のこと、人種のこと、ロスの気候と住みやすさのこと、仕事のことなど多岐にわたった。僕が関心を持ったのは、参加した男性の職場はインターネットプロバイダーであり、そこの会社は最近小さくなったということだがその理由が興味深かった。それはカスタマー部門などをインド、フィリピンなどに移して営業している、いわゆる国際的な規模でアウトソーシングしていた。また彼はシステム管理の職種だが、一人でいくつかのプロジェクトに入っており、それはメールで仕事を進めている。彼の上司はオースチンにいるが、まだ、1回も直接はあっていない。メールとテレビ会議で仕事を進めている。同僚も他の都市にいて直接はあっていない。上司から言われた仕事をこなせばいい、という仕事の関係性になっている。日本では顔の見える単位(範囲)でチーム・職場が作られるのが普通だが、アメリカの仕事の組み立て方に興味をもたせる話であった。

LAマラソンは市民のお祭りだ

快晴。LAの空が真っ青だ。これぞLA。今回はダウンタウンのWilshire Grand Hotelに宿を取った。一泊119ドルで高かったが、このホテルはLAマラソン協会のヘッドクオーターになるホテルなので、カーボロードパーティへの参加、スタートおよびゴール地点まで歩いても5分くらいというロケーションが気にいって予約した。 3月2日(日)は6時にモーニングコールをかける。6時半にはすでに多くの参加者がスタート地点に向かっている。それが部屋から見えた。これで僕も“よし、今日は3時間半目標でがんばるぞ”と気合がはいる。風呂に入り、ストレッチをやって部屋を出たのは7時40分。そのまま、マラソン参加者がスタート地点に移動するために並んでいる長い列に加わる。ほんとにアメリカ人は並ぶのが好きだ。いつもの僕なら直前に行って割り込むのだが、アメリカを感じるために集団の中に入る。並んでいる参加者は、緊張していたり、友達同士で話したり、それぞれの想いを持ってスタートを待っている。僕は右をみたり左をみたり皆の表情を楽しむ。

8時30分スタートなのでその10分位まえからセレモニーが始まる。8年前の実行委員長はBake、スタートのピストルはaliだった。よく聞こえなかったが今回も同じようだった。時間になり集団が動き始める。しかし遅々としてすすまない。なにせ2万人がFigaroa streetに並んでいる。スタートの線上の真ん中には女性がたっていて挨拶と応援していた。直感でLAの市長かなと思った。彼女と手のひらをパンとたたいてスタートの気合をいれた。

2マイルほど行くと集団がバラけて走りやすくなる。”No War”の旗も見える。LAに来る数日前にロサンジェルス市議会が“戦争反対”を議会で決議した記事を読んでいたので嬉しくなる。“Yoshino〜ri”という応援の声が2〜3回聞こえる。アメリカ人女性だが、こういう応援が嬉しい。3マイル付近でテレビを積んだ車に乗っているキャスターから“Where are you from?”というインタビューが入る。もちろん東京から、と答える。何回参加か?目標時間は?も聞かれる。走りながらの即答だったがこれもまた楽しい!目標は3時間30分と答えた。5マイル付近で3時30分のペースメーカー集団に追いつく。”よし、このペースメーカーについていこう“と彼らと一緒に走りLAの街の風景を楽しむ。ペースメーカーがいるので、時間、ペースは気にしないで左右に首を振りながら街の風景を楽しむことができた。

風船をもつそのペースメーカーは要所要所で「すごくいペースだ」「みんないいレースをしている」「坂になるがリラックスして登ろう」などいろいろと声掛けをしてくれる。おかげでペースメーカーの役割をしっかり勉強することができた。

フルマラソンは26.2マイルなので23マイルまでペースメーカーについていき、それからの3マイルはお先にゴールに行こうと思いながら走った。ところが逆だった。23マイルで突然、体力が落ちた。たぶんの自分のエネルギーの限界点にきていたのだろう。5メートル、10メートルと離されて行く。“追いつけ、追いつけ”と呪文のように唱えながら走る。しかし、距離は離れる一方だった。あとは一人で走るしかない。足を前に進めないと身体が前に行かない。とにかく歩かないでひたすら走る。時計をみると3時間半くらいで入れそうだ。程なく見えてきた黄色のアーチのゴールを目指してひたすら走った。もう自分との戦いだ。そしてゴールにある時計を見ると3時間30分8秒位だった。目標が3時間半だったので満足のLAマラソンになった。ゴール後すぐ、シューズについている計測器がスタッフによってはずされ、その直後フィニッシャーズメダルをかけてくれ、銀色で風呂敷状のものを身体にかけてくれる。その後は水、ジュース、バナナ、オレンジなど自由に取ってそのまま、ホテルに戻った。

さて、ホテルに戻ったあと、風呂に入り、ふくらはぎのマッサージをする。落ち着いたところでyukiさんと東京に電話した。yukiさんは「私の友人がこのマラソンに参加している」と話していたが彼女の走りはどうだったのだろう。マラソンを観に外にでる。自分が走ったあとマラソンを観るのは初めてだ。ここでも”War kill”のポスターを持って走る若い女性ランナーを見た。このLAマラソンの参加者は幅広い。だから子供がでれば親が応援し、親がでれば子供が応援し、友達がでればバラの花をもって応援に来ている。まさに皆で楽しんでいるLAマラソンだ。これが日本と決定的に違うところだ。5時15分ころまではランナーが歩いていた。その後片側通行になり、5時半には車も通常どおりに動いている。僕がゴールしたのは12時だったが、夕方5時まで走っている人(ほとんど歩いているが)は朝8時半にスタートしてから7時間半も走ったり歩いている。それもすごい忍耐力だと思わず感心したLAマラソンだった。

資料

(1)LAマラソンコースでの各種イベント

L.A.MARATHON XVII、MARCH 2, 2003/03/03

Entertainment Centers

Mile Entertainment Center Location

1Japanese Entertainment Center Olympic & Figueroa

3 Chinatown Entertainment Center 39th & Figueroa

11 Mid-City Chamber of Commerce Venice & St. Charles PL.

15 Jewish Community Center of Greater L.A. Pico & Crescent Heights

19 Hollywood arts Council 6th & Fairfax

22 California Youth Theatre Entertainment Center 6th & Wilton

23 Koreatown Entertainment Center Grammercy & Olynpic

23 Run to Win Entertainment Center 7th & Wilton

25 International Road runners Olynpic & Westmoreland

25 Ecuadorian Community Olynpic & Alvarado

26 Guatemalan Community Plynpic between Albany & Blain

(2)フルマラソン記録

95.3.5   第10回LAマラソン  3時間50分25秒 雨

95.8.27  第2回シドニーマラソン 3時間40分59秒 晴れ

95.11.26  第15回つくばマラソン  3時間33分59秒 晴れ

96.3.3   第15回佐倉マラソン   3時間31分59秒 晴れ

96.8.18  第3回シドニーマラソン 3時間18分56秒 晴れ

02.10.20  第23回北京国際マラソン 3時間28分33秒 晴れ

03.3.2   第18回LAマラソン   3時間30分38秒  晴れ

参考HP

LAマラソン

LAマラソン記録結果(2003resultsのMarathonをクリックし、BibNumberに9202を入力しGOをクリックしてください)


日本の大学生活 1


<2〜3月は入試・入学手続きと卒業式>

合否通知が速達郵便で自宅と所属高校に届けられる。「サクラサク」「サクラチル」という電報の合否通知は、今は、電子郵便、ホームページに変わった。3月のキャンパスは大学入試と卒業式、新学期準備などで忙しい。大学教員は一般入試立会いと試験採点、来年度のシラバス(授業計画)作成などで超多忙。1〜3年生は春休みを利用してアルバイト、旅行、海外語学研修などをする。4年生は「卒業旅行」として称して海外旅行をする。そして、高校3年生は大学受験のため日夜勉強し、親は学費・新生活用品購入の準備をする。

<大学進学率は48.6%、73万人>

2001年度の4年制大学の入学者(学士)は603,953人、短期大学(準学士)は130,246人、大学院入学(修士・博士)は89,689人であった。昨年の進学率(大学・短大大学入学者数÷3年前の中学校卒業者数)は48.6%。この進学率は1960年10.3%、70年23.6%、80年37.4%、90年36.3%、2000年49.1%と年々上がってきている。そして、大学・短期大学への進学以外に、1〜2年間の職業技術教育を受ける専門学校(専門士)に約50万人が入学する。

日本の場合、高校卒業後はほとんどの生徒が進学して、教養・専門知識、専門技術などを修得してから社会に巣立っている。しかし、今後、最高249万人いた18歳人口(1966年)は年々減少し、2012年には118万人まで下がる。高校卒業生は大学全入時代に入る(大学を選びさえしなければ、大学生になることができる)。大学は学生定員を確保しなければならないので、社会人の再入学、留学生の入学枠拡大、大学院の増設をして学生数確保に乗り出している。学生が集まらないと大学は収入が減少する。ここに今の日本の大学改革のバックグラウンドの一要因があり、その対応策が学生生活に影響を与えている。

<私立大学4年間で1004万円の学費と生活費>

自宅外生(親から独立してアパート・マンションなどで生活している学生のこと)が1年間にかかる費用は、国立大学の学生が182万円(学費54万円、生活費128万円)、私立大学は251万円(学費123万円、生活費128万円)である(文部科学省2000年度調査)。4年間では国立大学で728万円、私立大学で1004万円になる。

最近10年日本は経済停滞が続いており、親が賃金カット、失業などで学費が払えなくなり、退学するケースが増えている。日本の学生は自分で学費を工面してまで大学を卒業しない。大学卒業までの教育費は親が出すものだという前提になっている。この点、留学生はたくましい。特に私費留学生はアルバイトに精を出して、自分で学費、生活費を得て、自分の力で卒業する。

(2001年の国費留学生は8586人、私費留学生は55556人で圧倒的に私費留学生が多い。なお、文部科学省の「留学生数」は留学ビザを取得して、日本の大学・大学院((669校)および短期大学(559校)において教育を受けている外国人学生数を指している。学費とは授業料、寄付金、課外活動費、通学費など、生活費は住居費、食費、娯楽費、日常生活費などである)

<変化するキャンパス事情>

91年「大学設置基準の大綱化」が発表されて以来各大学では改革が行われてきた。その中で学生生活も大きな変化が現れてきている。

1) 外国語教育・コンピュータ教育の普及

日本の学生は英語コミュニケーション能力が低い。中学・高校・大学と10年間英語を勉強してもほとんど英語を話すことができない。そこで各大学は語学の教室定員の少数化、外国人教員の採用、海外との大学間交流などで「使える英語の習得」に力を入れている。日本の企業も「英語ができないと国際ビジネスができない」とTOEIC(英語コミュニケーション能力を測る国際的テスト)等で社員の英語能力を測定して英語研修を強化している。今、日本の大学生は「使える英語」の勉強に一生懸命だ。

また、コンピュータは今や大学教育にとって必需品になっている。入学するとパソコンを購入しなければならず、47%の学生が本人専用のパソコンを持つ。家庭にあるパソコンを使うことのできる学生が40%いるので、87%の学生がコンピュータを使える環境にある。そのパソコンで日常のレポート作成、卒業論文の作成、インターネット情報検索などをしている。 学生は、専門的な知識を学ぶための基礎的な技として英語運用能力とコンピュータ活用力が求められる時代に入った。

2) セメスター制導入による教育の質の向上

96年の文部省大学審議会で「セメスター制度を導入することが望ましい」と提案が出てから、多くの大学でセメスター制度を導入した。日本の大学は4月から授業が始まる。従来は、「通年型」と言って4月に教科書を購入して1年間かけて授業を行う方式だった。しかし、「セメスター制」は1年間を2学期ないし3学期に分けて授業を行う。1科目15コマ(1コマは90分授業)で終了し、単位を付与する。学生は1科目ごとに教科書・参考書を購入し、授業では勉強成果を発表する。

少人数教育も促進している。従来は200人、300人という大教室で授業を行うケースが多く「ダイヘン」(友達に出席の返事を代行してもらい、自分は授業をさぼる)ができたが、いまはできない。従って、ほとんどの学生は月曜日から金曜日まで大学に通い1日に3科目くらいの授業を受ける、という極めて真面目で超多忙な学生生活を送っている。

3) オープンキャンパスによる高校生への大学宣伝

オープンキャンパスが大学で取り入れられたのは90年代半ばからだった。これは全国5479校の高校3年生に「ぜひ我が大学のキャンパスを見に来てください。そして、我が大学を受験してください」と大学見学してもらう企画である。その背景には高校生が少なくなり、大学が学生数確保のために高校生に営業活動しなくてはならない事情がある。 また「推薦入試」も促進している。推薦入試は、高校の進路指導の先生が高校時代の成績が比較的に優秀な生徒を大学に推薦する。高校3年生は、夏ごろに大学キャンパスを訪問して、自分が行きたい大学を選択する。その後、11〜12月に推薦合格を得て進学する大学を決めてしまう。この推薦入試による大学入学者は20万人に達しており、大学生の3人に1人が推薦入学生になっている。(一般的には1〜3月に大学受験するが、それは「一般入試」と言う。)

4) インターンシップ制度による学生への就職支援

90年代半ばから、学生が職業適性を発見し、社会適応能力の育成を目指すために、大学在学中に数週間、企業研修する制度が現れた。大学は社会・企業で役立つ人材育成の場であるから、より高い能力を持つ学生を育てることと、就職率をアップさせようとする意図がある。 「象牙の塔」といわれた大学は、今や、産官学協同で学問研究し、人材育成も社会のリソースを活かした総合的なものに変化してきている。このインターンシップの派遣先は日本国内の企業とアメリカの企業に多い。将来は中国にある企業でインターンシップしたいという学生が出てくるのも遠くない。

<留学生も日本人学生も皆同じ学生>

キャンパスでは日本人も外国人も同じ教室、同じ研究室、同じサークルで大学生活をする。ゼミに入り専門的な勉強・合宿をして、春休み・夏休みには観光名所を旅行する。学生にとって大学生活はとっても楽しい。

しかし、留学生には「学校で一生懸命勉強し、お店でアルバイトをして、あとは寝るだけ・・・」という声も多い。果たして留学生の実際の勉学生活・経済生活はどうなっているのか。次回以降は、彼・彼女たちの留学生活についてレポートしたい。

参考文献

文部科学省『文部科学省統計要覧平成14年版』財務省印刷局

大学生協連『Campus Life 2001〜2002』全国大学生活協同組合連合会

(『当代学生』2003年3月号掲載)


2003年1月 箸を持ち歩くようになったワケ


地球環境を守るために日常生活のなかで何かおこなう。その一つに“環境に配慮した買い物行動をしよう”というグリーンコンシューマー運動がある。アメリカ、イギリスあたりから流行った取り組みだが近年日本でも地道に進みつつある。

02年7月、グリーンコンシューマー東京ネットが設立されたが、それもその一つだ。GC東京ネットは都民に「グリーンコンシューマー100万人宣言」を提起して、次の12項目のできることからはじめようと呼びかけている。

「必要なものを必要なだけ買う」

「長く使えるものを選ぶ」

「包装はできるだけ少ないものを選ぶ」

「マイバッグを持っていく」

「省資源・省エネルギーのものを選ぶ」

「季節に合った生活をする」

「近くで生産されたものを選ぶ」

「安全なものを選ぶ」

「容器は再使用できるものを選ぶ」

「再生品を選ぶ」

「環境問題に取り組んでいる会社のものを選ぶ」

「グリーンコンシューマーの仲間を増やす」

どれもやろうと思えばできることだ。自分の生活を振り返ってみれば、無駄の多い部分が多々あった。大量生産・大量消費・大量廃棄という循環にどっぷりつかって生きてきた。僕も、ライフスタイルを変えつつある。最近は本屋に行っても、コンビに行ってもモノを買った時、包装・レジ袋などはお断りし、持っているかばんの中に入れる。自分の箸を持ち歩いて居酒屋などでもそれを使い、割り箸などは使わないように努力する。たったそれだけのことでもグリーンコンシューマーの仲間入りだ。

割り箸をつくるための環境負荷については環境三四郎のレポートが詳しい。また、レジ袋は年間360億万枚使用されているという。台北でもレジ袋を使用しない取り組みをしているとの新聞報道があったが、「レジ袋ノー」の運動を各都市のネットワークで行い新しいムーブメントができるとおもしろい。

日本人1億2700万人、地球人60億人がグリーンコンシューマー的な心がけをするようになったら、ずいぶんと環境負荷を減らすことができる。

参考HP

グリーンコンシューマー東京ネット

環境三四郎「割り箸からみた環境問題」


2003年1月 寺島実郎「失われた10年から見えてくるもの」


03年1月21日、寺島実郎氏の講演を聞いた。知的生産の技術研究会のセミナーだ。昨年の同時期にも寺島氏の講演を聞いた。いずれも、「時代を読む」上で刺激的でまとまっている話だった。自分の学習用に講演のメモを起こしてみた。(文責はtky24にある)

今は「脳力」のレッスンが必要だ。これは物事の本質を考え抜く力だ。時代との緊張関係、時代に対する止むにやまれぬ問題意識、時代の空気を捉えることだ。多くの人がチャンネルを切り替えながら「さわり組」で見ている。何一つ収斂されていなく、頭そのものがザッピングになっているような気がしてならない。特に若い研究者は思考回路が分裂的であり、演繹法と帰納法しか身に付けていないことを感じる。戦略的構想=ひらめき=仮説型の構想力が不足している。

時代・空気の閉塞感を感じるのは論壇の右傾化であり漠然とした何かである。海外に行って聞かれることは「日本のサラリーマンは何故怒らないのか」だ。バブル以降、縮む日本、へらへらするサラリーマンを感じる。それにしても何故考える気力が無くなったのだろうか。「失われた10年から見えてくるもの」として90年と01年の統計数値表を作ってみた。詳細は表を見て欲しい。サラリーマンが「ゆでがえる」状況になっているのが見てとれる。

1990年と2001年の数値比較(三井物産戦略研究所)

名目GDP       450.5兆円→500.8兆円

市街地価格指数   商業地(年度末)111.5→46.5、 住宅地(年度末)109.7→79.8

日経平均株価    26,872円→11,438円

現金給与総額(男性) 539,7万円→593,4万円

消費者物価指数   92.9→98.9(2000年=100)

マンション家賃   11.6〜8.5万円→11.0〜8.3万円

全世帯家計消費支出 31.1万円→30.9万円(月平均)

国際電話代     680円→180円(日米、平日、3分)

原油入着価格    3,197円→2,971円(1バーレルあたり)

失業者数      134.2万人→347.9万人

個人破産件数    11,273件→160,457件

刑法犯認知件数   163.7万件→273.6万件

10年の数値比較ではデフレ経済のソフトランディングが特徴的だ。モノの価格が下がりお金の使いがってがよくなっている。例えば、衣料品は30%下がっているそうだ。ユニクロの利用者が多いと思うが最近は着回し現象が現れている。デフレ時代の生き方として「清貧の思想」をいう人がおり、それもあると思うが、「自己充足的な予言」とでも言おうか「じっと我が手をみる」今の日本がある。

この10年で日本はまったく違う国になったという認識が必要だ。特に社会の底辺は変わっている。個人破産が20万人になりいわゆるサラ金地獄が進行している。テレビの日中の時間帯へのサラ金CMも解禁になった。いま、幼児が最初に覚えるのはテレビのサラ金のCMの言葉だ。自殺者が31000人になった。交通事故死は8000人強に減っているが・・・。「今日も遅刻の中央線」あれを見ると事故が多い。刑事犯も100万件以上増えている。

最近は連合(労働組合)の組織率が2割だという。明らかにマイナーな組織だ。これは変革のメルクマールが無くなったことに起因しているのではないか。選択軸を出せないでいる。これは連帯の軸が融けた、融解したということではないか。昔「護憲、安保、社会主義」とわかりやすい連帯の軸があった。これはIT革命で余人を必要としなくなっていることによる。すなわち、誰でもが一定の仕事をできる時代になり、働く意味が変わってきている。特にいぶし銀型の中間管理職層がいなくなった。20年勤めてきて「俺の20年は何だったんだろう」という状況が企業の現場でおきている。「フリーター的生き方が新しい生き方」と標榜する学者もいるがそれはどうなのだろか。階級の共同体からネットワークの共同体に変わりつつある時代の空気がある。

時代のグリップは、今の時代を当てる人、テーマにフォーカスすることが重要だ。人口問題を見よう。1900年の日本の人口は4400万、内75%が農業関係だった。2001年は1億2700万人、この人口は2006年にピークになり、その後は減少し2050年には1億人になる。すなわち2700万人人口が減ることが確実視されている。さらに2100年には5千万人なるかも知れないという。ここで大事なのは人口が減る中でのビジネスモデルを考えることだ。

高齢化も大きな問題だ。高齢者は、1900年は5%、1947年5%、そして2000年18%だ。2005年には29%、2050年には36%になる。高校生が480万人から240万人に激減するなかで教育の問題、そして高齢者の医療費が問題になる。高齢者のケアは誰がやるのだろうか。今、ロボットがやるか移民で解決するかの議論が起きている。

中国は大きな課題を抱えている。今12億7000万人、2050年には17億人という。日本の十倍の人口だ。ここには安い労働力がある。農村部に9億人抱えて、これから4億人増えるので、中国の生産基地としての存在は驚異だ。中国人のパワーはすさまじい。広州のホンダの400万円の車が5万台売れた。まだまだ売れるという。考えてみれば富裕層といわれる中国人が2〜3%いるが、1%は1700万人、東京と同じような数字だ。これが今後、17億人の中国、片や5000万人の日本になっていくことが想定される。

今、息をのむようなタイミングがあるのに緩慢だ。「ゆでがえる」のように緩慢なる進行だ。

新たな時代のパラダイムが求められる。20世紀の日本はアングロサクソンの時代だと言われた。すなわち前半の一時期は日英同盟、後半は日米同盟だ。この100年の歴史から染みついた体質、そしてアメリカのフィルターからどうやって脱却していくのか。現政権の外交をみると対米配慮の論理がはたらいている。これが今後は日本、アメリカ、中国のトライアングル外交にならざるを得ない。それはアメリカが中国を重視しているからだ。日本はアメリカの市場主義と民主主義、中国の中華思想と対応しなければならない。

アメリカは極端な軍事大国だ。軍事費は世界の第2位から第15位の全部より多い。また、この間の27%の株価下落、ライフル事件など社会不安も内包している。このような中で何が何でもイラクに突っ込む雰囲気だ。テロとの戦いというのであれば、ハーグにできた国際刑事裁判所を通して進めるべきだ。アメリカは自国利害主義になっている。この国際刑事裁判所の設立では今までは日本政府も積極的だったが、9.11以降引いており、ヨーロッパの国々からも「日本はどうした?」と思われている。

我われは日本がどうみられているのを知らなければならない。例えばインドから見た日本、中国からみた日本を・・・。100年前の「時代認識」は間違っていたと思う。今の時代の「時代認識」をどのように持つか、それは日本の未来に関わる大問題だ。


2002年10月 北京国際マラソンは国交正常化30周年の贈り物


北京は10月15日過ぎから一気に寒くなると聞いていた。ここ北京に18日に着いたが2〜3日前から急に寒くなったという。確かに街を歩いている人はもうほとんどの人が冬物を来ている。上着を着てきてよかった。しかも小雨がぱらついている。旅行者には迷惑な雨だが、現地に住んでいる人の話しでは「この小雨は恵みの雨よ」と喜んでいた。理由は空気が乾燥しており、それに含まれた砂がのどを通ると咳き込むらしい。春には2カ月ほど激しい黄砂があるが、今は、規模は小さくても秋でも砂が飛んでくる。現地の感覚では砂漠地帯の一種だ。

いよいよ明日は北京マラソンなので、今朝はホテルから天安門まで50分ほど軽いジョッグをした。土曜にもかかわらず、自転車が多い。その自転車の流れに合わせて走る。これが経験的に一番安全だ。天安門はすでに地方から来た観光客でいっぱいだ。30〜50人ほどの団体が赤い帽子、白い帽子をかぶりかたまってあるいている。胸には旅行会社のバッジをつけて。

広場内を走っていて、思わず見えない細い紐にぶつかりそうになる。その脇を見ると老人が座ったまま凧揚げをしている。糸の先には見えないほどの大きさで凧がじっとしている。何百メートルあるのだろう。あたりを見渡すと何人も凧揚げをしている。これも北京風物の一つだ。

17日(木)の18:55のNAで成田をたった。10時過ぎには北京空港に着く予定だった。機内でニューヨーク帰りだという男性画家と話しいてまったく気がつかなかった。彼が突然、大変な問題になった、という。何だ、ときくと、この飛行機は北京ではなく、上海に向かっているという。“えー冗談だろっ”、しかし隣の中国人女性も“上海に向かっている”という。すぐ日本人アテンダントを呼んで理由を聞いた。それによると北京空港は雷がひどくて降りることができない、一旦上海まで行って燃料補給するということだ。これにはまいった。結局、上海まで行きそこで入国手続きなどして、北京空港に着いたのは夜中の3時35分だった。それからホテルまでタクシーで行く。着いたのは朝方の5時半だった。こんなハプニングはシアトル以来だった。しかし、乗客は誰一人不満を言わない。

そんなことで金曜日はあまり寝ずに午前はマラソンの受付に行き、そのあと本屋で環境に関する本を買い込み、お昼にホテルに戻る。午後、北京環境ボランティアネットワークの方々と話しをして、夜は御隆北京ダック店に行く。ホテルに戻ったのは9時半だったので早めの10時過ぎには床に着いた。

19日は早朝走ったあと、シャワーを浴び、その後、西単(しーだん)のスターバックス(星巴克コーヒー)でコーヒーを飲みながらdiaryを書いた。そうそう、朝飯は吉野家だった。19.5元だが、1合ほどのご飯の上に鶏肉、豚肉、にんじん、ブロッコリなどの野菜がのっている。マアマアうまい。支店はすでに20くらいあるようだ。中国人もこのようなものを食べる時代になったのだ。10年前、シンセンに行ったとき5元くらいで食べたあの食堂が思い出される。

相変わらず北京は工事が多い。オリンピックに向けた街の整備が進んでいる。北京はどこまで変わるのだろう。北西100キロほどの所まで砂漠が来ていて、あと数十年もしたら北京も砂漠地帯になるかもしれないという。砂漠になる前にしなくてはならないことがたくさんあるだろう。これだけ街を整備して建物を立てているのは砂漠化に勝てる確信があるのだろうか。北京に住んでいる日本人の話しでは北京の街の行く末に悲観的だった。この広大な土地、どこの都市に行くにも飛行機を使わないと不便な地勢では北京の“遷都”はその機能さえ備わっていれば他の地でもかまわないのかも知れない。しかしこれは歴史が証明するしかない。

そもそも北京マラソンは参加する意思はあってもいつにするか決めていなかった。今回決めたのは仕事の間合いがちょうど良かったこと、Tさんのお勧めがあったこと、日中国交正常化30周年という年なので即、決めた。その際、全部自分で申込をしてノウハウを身に付けようとおもった。格安航空券、インターネットによるエントリーと宿の手配など。こうして振り返るとほぼ計画通だった。NWが上海に行ったことと、400元落としたことを除いて・・・・。

10月20日(日)は北京国際マラソンだ。

3時間28分でゴールイン。「やった」という想いがある。目標は3時間30分だった。

スタート会場には8時20分についた。もうランナーが並んでいる。並んでいる先頭にいったがその紐は前にでて、係りが早口の中国語で「紐の前に出るな、紐をひっぱるな」など話している。テレビカメラが回ると「わー」という声が起きる。世界各国から参加しているこのマラソンはさながらお祭りのようだ。

9時に歓声があがり9時01分にスタート。どこかでスタートの音を鳴らしたのかも知れないが、皆ぞろぞろ動き出したので僕も動いた。さあ、いよいよ42.195キロの旅だ。足取りも軽く、デジカメであちこち撮りながらスタートした。沿道には市民が一杯。マンション、アパートからも顔を出してみている。主催者によると、応援200万人、テレビなどで見ている人が1億人というがあながち嘘ではないな、という感じを受けながら走った。

6キロ付近だろうか、「Nさんではないですか」という声で振り返るとそこには知人のTさんが・・・・。程なくもう一人のランナーが来て、その二人をデジカメで写す。しかし、8キロ付近でトイレに寄った時から、二人には追いつけずそのままゴールになった。 Tさんは3時間25分台、もう一人のランナーは3時間27分台だったという。

マラソンコースはほとんど平地で歩道橋のみが坂になっている。だから走りやすい。1キロごとにスタンド標識が立っているのでペースもつかみやすい。30キロあたりまでアメリカ人3名について走った。かれは1キロごとに時計を押していてそのたびに4分45秒、4分43秒などと話していた。1キロ5分弱で走る予定でいたがやはりそのくらいのスピードだった。

30キロ過ぎ、アメリカ人が水を取りに右サイドのテーブルに向かうと僕一人になった。ついていくべき人がいなくなったときに日本人の小柄な女性が追い越してきた。「これはついていかなくては・・・」とおもい、その人にぴたっとついていく。彼女は最後までペースを変えなかった。これが今回3時間28分を出せた要因だった。けっこうきつい時もあったが全体として調子がよかった。39キロ地点でチョコレートを取り出して食べた。そのタイミングの悪さで彼女との差ができ、ゴールでは100メートルくらい開いたまま入ってしまった。反省のチョコレートだった。

しかし、ゴール後もまだ走れる位の余裕があり爽快な気持ちだった。ゴールにはTさんともう一人のランナーがいたので挨拶したあとデジカメで3人をショットした。

気温はやはり寒い方だったかとおもう。走っている時には気がつかなかったが、ゴール後は寒気がしてきた。幸い大きいタオルをくれたのでそれを羽織る。自分にとってはありがたい完走賞品だ。ホテルまでそれを羽織っていく。

ゴールで貰ったものはタオルと水、会場出口でもらったものはメダル、バナナ2本、チョコレート、お菓子、ペットボトルのジュースだった。ゴールが12時過ぎなのでお腹がすいた。これはいい完走賞品だった。

ゴールの脇に今回の申込受付団体のブースがあった。そこでSha Mingが事務をしていた。記録測定のバンドを返却しデポジット100元を返してもらう。その時に「日本のレップをやりたいが可能かどうか」を話したところ、あとでメールをくれるとのこと。参加者一覧で完走者のチェックをする欄に「representative」と書いていたので必ず連絡があるだろう。そうなれば来年は北京マラソンツア企画を行うことになる。今から楽しみだ。

スタート  Tiananmen Square(天安門広場)

ゴール    Sports court in the National Sports Center(オリンピックセンター)

フルマラソンエントリー

 38カ国2477人(男2059人、女388人)うち日本人71人(男64人、女7人)(秩序冊から)

参考HP

中国国際旅行社(results2002に僕の記録3h28m33sがあります)


2002年9月 30曲歌えるころには喋れるようになるはず


アルク編集部から原稿を頼まれたのは6月だった。その掲載本が今日とどいた。 『中国語をモノにするためのカタログ2003年度版』で、今月から来年2004年度版が発行されるまで書店で販売される。

僕は「中国語で歌おう!」を書いた。実は、4年ほど前から中国語を学習始めたのだが、中国語学習をもっと楽しくするために中国語のカラオケをやりはじめた。このカラオケは随分役にたっている。

雑誌にはきちんとレイアウトされた原稿が載っている。

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中国語で歌おう!

 中国語学習306時間、歌えるポップス13曲、中国渡航6回、『人民中国』購読1年、これが僕の4年間の中国関係史だ。  中国語を開始したのは48歳。その時は英語と中国語は聞き分けても普通語と広東語の区別はつかなかった。全く未知の外国語だった。  学習開始にあたっては「発音良ければ半ば良し」(相原先生)を肝に銘じた。しかし、中国語は見ると意味のイメージが湧くが読めない。参考書、新聞などをみてもすごくつまらない。それで読める単語を早く増やそうと思って始めたのが中国語カラオケだった。カラオケをはじめてからやっと辞書を引くようになった。

 「30曲歌えるころには喋れるようになるはず」と目標をもうけて練習をはじめた。国内では中国語ポップスのテープ、中国に行った時にはVCDを買ってきた。100本ほどになった。ひととおり聞いた上で自分にあった歌を見つける。そこで苦労したことはまずメロディに慣れること、なにせなじみのないリズムなのだ。しかし1曲のなかで同じ歌詞を2回繰り返すことを発見し気持ちが楽になった。

 次に発表する「舞台」がないといくら練習してもつまらない。それでHPでcn-musicの存在を知りメールを出した。この2年で5回ほどオフ会に参加し、そのたびに3〜4曲歌ってくる。「中カラを楽しむ」という一点で新大久保・目黒のマイク103に集まる仲間との交友はその分だけまた中国にはまっていく。

 言葉は聴・読・書・話の4技能が求められるが、カラオケは聴いて、歌詞を読んで、書いて、歌うという総合学習教材だ。表現力もつく。最近はブロードバンドで中国のHPから歌を取り込みMDで聴く。『人民中国』5月号で陳琳が紹介されていた。さっそくHPから『愛就愛了』をダウンロードして聴いている。まったく便利な世の中になったものだ。

(得意な歌は「好男人」「不走」「安[女尼]」「我不是誰」など)

参考HP

『中国語をモノにするためのカタログ2003年度版』(アルク2003年9月刊)


2002年9月 9000円を割り始めた日本経済


株価が9000円を割った。なす術がない感じだ。今日は、たまたま、ある経済学者(金融論)の日本経済に関する話を聞いた。重症である日本経済を小泉総合病院が手術するという例えで話があったがこれがわかりやすい。以下、要旨である。

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日本経済について説明したい。

小泉内閣=「小泉総合病院」は、日本経済は重症であり「構造改革」という手術をしようとした。病名は最初よくわからなかったが「デフレ病」だった。これは歴史的には2〜3回しかなかった病気で、最近では70年前に日本で起きた。すでにその時の医者はいない。その時は直らなく戦争という最悪の状況になった。

小泉総合病院にTという医者がおり手術をするが、「麻酔はしない」「痛みが伴う」と言ってオペをしている。病人なら「いつ退院できますか」と心配するがそれがよくわからない。2年か3年先というが心配だ、というのが患者の心境ではないか。

ここにきて「構造改革」を少しやったかなとおもう。国債を30兆円に抑えた、政官の癒着問題に手をつっこんだ、道路公団・住宅公団・金融公庫、郵貯の民営化の答申など少し評価できる。しかし、現政権は「弱いものいじめ」という特徴を持っている。「増減税」にしてもどちらか言うと増税になっている。減税は研究に対する措置であるがそもそも研究機関をもっているところは大きい企業だ。逆に消費税を今まで控除対象であった3千万円以下の企業にもかける、特定扶養者控除を廃止する、配偶者控除もなくすなど庶民、中小企業には負担になる税の変更だ。

小泉病院を退院した人は誰もいない。でも大手の製造業はひょっとしたら退院出きるかもしれない。永久入院は2つあり、一つは中小企業、もうひとつは地方経済だ。入院中に死亡した組織がある。例えば信用組合は5年前には360あったが200に減った。信用金庫もしかりだ。

内政的には重大な問題を抱えている。交代もいないようだ。日本人は選択肢がなくなっている。現在は完全に消費不況だ。消費は所得の関数だ。所得は3年連続減っている。「現在所得は減、しかし将来所得は増える」と考える人も少ない。住宅を20年ローンで借りた。しかし、ローンを払えない。6カ月ローンを払えないと住宅金融公庫のものになり、それは37000戸になっている。「所得の5分層」でみる金持ちと言われる年収1200万円以上の人は3%しかいない。

「弱いものいじめからくる将来不安」のスパイラル現象〜これはこれからも続く。


2002年8月 中国の大江健三郎


大江健三郎の著作は学生時代から愛読した。特に「死者の奢り・飼育」「芽むしり仔撃ち」「性的人間」など・・・学生時代に読んでよかったと思っている。そのときのインパクトが今も大江文学を気にさせる。また、大江は私がある雑誌の編集をしていた時、特集対談に登場していただいたことがあった。“核”に対する憂いを発言していた。大江は常に僕にとって“今、彼はどのようなメッセージを持っているのか”を気にさせる作家の一人である。

『人民中国』01年4月号に「大江健三郎の見た北京」が掲載されていた。それは大江が2000年9月26日から30日まで中国の社会科学院外国文学研究所によって招待され中国訪問した時の記事である。その記事は中国人記者によって書かれていた。西単にある大書店でのサイン会、精華大学での講演「北京の若者へ」、中国社会科学院での講演「北京講座2000」、FM365(聯想グループのポータルサイト)を通じた若者とのネット対話、画像配信された大江の洋服についてのエピソード、大江の母親の話し、郭沫若の故居訪問、長安大戯院での観劇、莫言との座談会、源氏物語を暗記しているエピソード、北京の若者の「日本人も信頼できるらしい」という伝言などが紹介されている。

僕がびっくりした記事は次の個所だった。「主人公である『命知らず三郎』石秀が舞台に出ている間、氏は何度か、役者たちがその名前を『サンラン』と呼ぶ、中国語の音を耳にした。その音は、彼にとって不思議に親しい響きがあった。母は少年時代の彼を『サンラン』、という愛称でいつも呼んでいたのだ。自分は『ケンザブロウ』なのに、なぜ『サンラン』なんて呼ぶのだろう・・・・・・?母は一度も教えてくれたことがなかったし、周囲の大人たちも、きちんと説明できなかった。母は、3年前すでに亡くなり、謎はそのままになった。」

ここで大江は「頭に稲妻が走った」それは「母は自分を中国語で呼んでいたのだ!」

きっと3度目の中国訪問は大江に強烈な印象を与えたに違いない。僕も「こういうことがあるのか・・・」と感慨深かった。

『人民中国』に載ったのは抄訳だったらしく、「火鍋子」2002[夏]No.56にはその全訳が掲載されている。([完全版]大江健三郎の見た[許金龍])

参考HP

『火鍋子』

大江健三郎ファン倶楽部


2002年6月 都市と農山漁村の人々のネットワーク


緑が深い。山が切り立っている。車が少ない。川の音が、鳥のさえずりが聞こえる。久しぶりに訪れた利賀村は前回訪問の時とちっとも変わっていない。 今回は、第4回JUON(樹恩)NETWORK(以下、樹恩ネットワーク)の年次総会のためにこの利賀村を訪れた。昨年は埼玉県の神泉村、一昨年は兵庫県の千種町だった。樹恩ネットワークは「都市と農山漁村の人々を結ぶことにより、環境の保全改良、地方文化の発掘と普及、過疎過密の問題の解決に取り組む」ことを目的としている。従って、総会などのイベントはいわゆる過疎地になることが多い。そうして、今まで過疎地の人たちが総会開催の受け入れをしてくれた。

今回もそうだった。樹恩ネットワークの総会は、短時間で行う総会次第の他に、交流のためのイベントを併設している。このために、現地の企画が総会成功のための力仕事になる。 今回は6月15日(土)に総会次第、記念講演、芸能鑑賞、環境プログラム、交流会と盛りだくさんの行事が行われた。16日(日)は朝から昼まで4つのコースでプログラムが組まれた。そばうち、木工づくり、山菜摘み、村内施設見学である。参加者はそれぞれ希望のところに参加し、午後1時全員が、宿泊先の一つであるスターフォレスト利賀に集まり、そこで解散した。

今回の総会で紹介された昨年度の事業活動の特徴は3つだった。一つは日本を6つの地域に分けて、地域世話人が中心になり地域で企画を立てて会員参加の活動をすすめてきたこと、二つには徳島にある大学の森の基金500万円が集まり購入責任を果たしたこと。三つには環境に関わる人材育成プログラムとして、資格試験である「エコサーバー」のカリキュラムとテキストがほぼ完成したことである。特徴的な取り組みが前進した1年だった。とくに、地域と全国の両面で活動を組み立てる柱として「地域ブロック」と「エコサーバー」が立ち上がった意義は大きい。

95年の阪神・淡路大震災のボランティア活動後、ほとんどのボランティア団体が「震災後、活動実態が見えなくなった」と言われてきた今日、この樹恩ネットワークは地道に活動を強化してきた。被災にあった学生の宿舎用の木材を提供してくださった徳島県とは太い絆で結ばれ、「森林の楽校」の開講、間伐材を利用した樹恩割り箸の生産と普及というネットワークに発展している。また、若者が気軽に森林体験する「森林の楽校」は、徳島の「四国のへそ 森林の楽校」を皮切りに、群馬の「水源の森 森林の楽校」、埼玉の「神の泉 森林の楽校」、新潟の「トキ色の島 森林の楽校」、兵庫の「清流の森 森林の楽校」の5地域に広がった。

元々の活動であった過疎の廃校を活用したセミナーハウスの運営も現地の主体的な努力と「都市」とのネットワークで活力がうまれている。昨年の総会宿舎である「コープビレッジ神泉」(埼玉県神泉村)、今年の総会宿舎である「Starforest利賀」(富山県利賀村)、佐渡・猿八山舎が深く関与する「鳥越文庫」(新潟県佐渡島畑野町)、「四万十楽舎」(高知県西土佐村)など。過疎過密、少子化、行政単位の合併などから起きてくる「廃校問題」は、その地域にとっては重要な問題である。「どうつぶすか」ではなく「どう活かすか」という方向性で成功事例が求められる昨今、樹恩ネットワークの事例は大きな元気を与えている。本格的な軌道にのるにはもっと工夫が必要だが、会員の英知とネットワークで「廃校」を支える“勢い”は現地を勇気づけているに違いない。

さて、今回、僕は体験コースでそばうちコースに参加した。いろいろなところで聞く体験コースであるがまだ一度も参加したことがなかった。30人ほどの参加者が3人づつ班をつくって体験開始。村のそばうち名人がインストラクターだ。一通りの説明の後、実際に行った作業は、そば粉と強力粉と水でそばをこねる、そのそばを厚さ2ミリ程度にまで伸ばす。その伸ばしたそばを畳んで3ミリくらいの幅で包丁で切る。そこまでの作業である。6人前つくり約1時間の作業だった。あとはそのそばを村の人がゆでて、私たちはざるそばにして食べた。こしがありおいしかった。何よりも自分たちが加工したそばであることが嬉しかった。利賀村の方々のおかげで大変良い体験をさせていただいた。

今回の総会&記念行事で特筆すべきことがもう一つある、それは、学生が参加した「環境学習プログラムデザイン講座〜環境学習って何だろう?」である。この企画があったから学生が20名ほど参加したといっても過言ではない。この環境教育プログラムは昨年の神泉の総会から始まった。初年度である昨年は「自然を感じるプログラム」を企画した。「センス・オブ・ワンダー;レーチェル・カーソンの贈り物」の映画を見た後、実際にその本を持って森には入って自然を感じながら本を読む。そしてその時に感じたことをお互いに話し合う。すごくシンプルな環境教育だが普段忘れてしまっている自分の感性を思い起こさせるこのプログラムは、昨年の場合、翻訳者である上遠恵子さんの参加でより充実したプログラムになっていた。今年は、木文化研究所のインストラクターのもと、利賀村に残っている「エコロジカルな暮らし」を応援して、実践してもらえるようなプログラムが行われた。そのおかげで、我々は山菜天ぷらをたべることができ、参加した学生がインストラクタイーになり大人の参加者が木を使ったモノづくり、創作などを楽しむことができた。

参考HP

JUON(樹恩)NETWORK

利賀村

神泉村

センスオブワンダー上映委員会事務局


2002年1月 趙微をめぐる「不自然」


1.163.comの調査結果

■共有 91254 人参加了投票

 趙薇受到懲罰   58.7%(53596票)

 反対暴力行為   38.3%(34987票)

 軍旗装事件無関係    2.9%(2671票)

 投票起止时间:12月29日-01月05日

■共有 70819 人参加了投票

 簡直是暴徒       17.2%(12195票)

 民族英雄        31.6% (22393票)

 愛国,但是魯莽无知 51.2% (36231票)

 投票起止时间:12月29日-01月05日

2.事件の経緯

09月 日 趙微、NYで旭日旗のドレスを着る。ファッション雑誌「時装」表紙

12月上旬 中国の各新聞で「日本の軍国主義をあおる」と趙微への批判開始

12月中旬 趙微は自己批判をする

12月29日 趙微襲撃事件

1月 1日 趙微元旦晩会を欠場

3.事件をめぐる素朴な疑問

趙微に「旭日旗」のドレスを着せる企画を組んだのは誰か。マネージャーはどう判断したのか 。デザインしたのは誰か。マスコミはなぜ徹底して趙微を批判したのか。12月28日の「若い男性」は明らかに暴徒であるが、中国当局がそれを批判しないのはなぜか。Com163でその「若い男性」に対する投票をしているが、その結果をどう使うのか。趙微は中国大陸で生まれ育ち、中国映画学院在学中に売り出した女優なのに、なぜここまでバッシングされるのか。今回の事件で変わるのは何か?

4.今回の事件への直接的接近

2001年の年末から2002年正月にかけて、インターネットで、趙微の行動と彼女に関する中国マスコミ報道、趙微ファンクラブの掲示板を追いかけていた。 その直接的な動機は、12月28日湖南省長沙で開かれた「情深深雨蒙蒙」演唱会で本人が歌っていたとき、若い男性が突然舞台に飛び上がり趙微の胸ぐらを殴りつけ何かの液体をかけたという事件である。 男性はすぐ取り押さえられその演唱会は中止、その後の記者会見で趙微は無事であることが報告されたが、1月1日北京で開かれる元旦晩会は出場中止することが表明された。 その後、中国のマスコミはこの男性の「趙微襲撃事件」(中国語では「趙微被打事件」)に対する賛否の調査活動を大々的に始めた。一気に「日本軍旗装事件」は中国全土に知らされ、その焦点は今の中国の若者の「愛国心」を調査する材料に転化していった。男性の「襲撃行動」は大方「賛成」であることが明らかになった。

趙微自身は「日本軍旗装」によって、こんな風な問題に発展するとは思っていなかったようで、12月初旬にマスコミで批判されたときは他の映画撮影で忙しく現場にはりついていたようだ。しかし、マスコミの一斉バッシングの前に、始めてコトの重大性にきずくとともに、自己批判を公に行うことで、コトの収拾をはかった。そして「日本軍旗装」事件は沈静したかと思った矢先の「襲撃事件」であった。

趙微は疲れきっている。自身の精神、肉体、生命が「マスコミ取材」と「襲撃事件」で翻弄されるなか、この事件の原因と収拾の方向が一番見えない位置にいるのではないかと考える。

5.今回の事件に関心をもった私の情報背景

私がこの事件に関心をもったのはこの半年間の3つの情報があった。それは8〜9月に趙微が主役をしている「情深深雨蒙蒙」(VCD65分31枚のドラマ)を見て女優としての趙微に関心をもったこと、12月初旬に中国で報道された「日本軍旗装事件」があり、「その真相は何か」を考えていたこと、12月23日NHK地上波放送の「北京映画学院夢物語」(趙微が2年前に卒業した学校)を見て、中国の若者の“現在“に関心を持ったことである。

そして根本的には、なぜ趙微はニューヨークで日本軍旗のドレスを着たのか?12月にマスコミが行った徹底した趙微バッシングと趙微の自己批判は中国国民にどのように写ったのか?一旦、「おさまった事件」であるが「襲撃事件」で再燃した「日本軍旗装事件」は中国の若者の意識と行動、中国の世論にどのような影響を与えていくのか、ということである。

6.自分自身の「理解」にむけての解明作業

以上のような問題意識で「趙微」を見ているが、この一連の流れはどうなっていくのだろうか。自然に消えるのか、あらたな何かをもたらすのか。今の私にはまったくわからない。「関心の持続」がインタネット上を徘徊させる。

(その後)

2月上旬は趙微も落ち込んでいたが徐々に気を持ち直していった。これには世界各国のファン励ましも大きい。2月に入り基本的に平常に戻ったようだ、 しかし、数日前に、「花娘」を選んだときに趙微も選出されたが、それに対して反対の声があがっている。マスコミ「日本軍旗事件の影響がまだ残っている」と書いている。早くその事件のメモリーを消すことができるといい。<2002.2.9>


2001年12月 A Decade

「中国大好き」の会員になったのは99年だった。中国語の習いたてだったが、地域で気軽に参加できフレンドリーな中国語教室はないかと探していたらこの「中国大好き」にであった。 Yさんに電話すると「はい、いいですよ」とあのやさしい声で場所、時間など教えてくれた。土曜は仕事なので夜のクラスに参加したが、その頃の僕はまだ49時間しか勉強していなく読めないピンインがたくさんあった。授業進行の迷惑になりそうなので土曜日午後のクラスに移った。それが今のクラスである。 途中からクラスに参加したためテキストはすでに「実用漢語課本2」に入ろうとしていた。この2年間半で先生は3人変わった。最初はD先生、次がH先生、今がR先生だ。3人とも熱心に中国語を教えてくれる。クラスの仲間はまじめに出席する人が多いので先生もやりがいがあると思う。僕は残念ながら出席率の悪い生徒だ。土曜日は4週5休だが仕事にでることが多い。それに出張も結構ある。この2年半で40回=80時間出席した。ほぼ3分の1程度の出席率だ。テキストは先月終えた。しかしほとんど覚えていない。習ったことをそのまま覚えることができればもっと中国語を話せるようになるのに、と思いながら。

 今、僕が凝っていることの一つに中国語カラオケがある。 中国語の字を見て意味の雰囲気はわかってもぜんぜん読めない。だから中国語の参考書をみてもつまらなかった。それでまずは漢字を読めるようになろうと中国語のポップスを聞き始めた。中国語の学習をスタートして辞書を引くことなどほとんどなかった。だいたいテキストに単語の意味が書いているので必要ない。しかし、歌詞を読むためにピンインを辞書で引き始めてからすごく辞書を使うようになった。 最初はだれが人気歌手か、なにが流行っている歌か、どれが古い歌か新しい歌か、ホントーにわからなかった。しかし、インターネットで中国の歌手の情報を仕入れ、中国に行くたびにレコード屋・本屋に寄って売れ筋の確認とあらかじめチェックしておいた歌手のVCDを買ってきては聴いた。だからまだ中国語ポップスを聞き始めて1年ちょっとしかたっていないが今ではかなりわかる曲と歌手が多くなった。これは自分の趣味を広げてくれたわけで財産になった。  いま、僕が気に入っている歌手は黎明、黄品源、杜徳偉、張高(金偏)哲、任賢斉、伍百(人偏)、動力火車、林暁培、張恵妹、孫燕姿などである。かなり歌を聴いているが自信をもって歌える曲はまだ10曲程度だ。しかし、中国のポップスを聴いていると楽しくて中国語をやってよかったなと思う。  僕の所属しているサークルにcn-musicがある。これは4年ほど前に東京でできた中国語カラオケサークルで毎月1回例会を行っている。新大久保と目黒にカラオケ103があり、そこで毎回20人前後の参加で歌会を開いている。僕は昨年6月に初めて参加し延べ4回行った。4回でも歌うことが好きな人たちが集まっているからすぐ仲良しになれる。ほとんど中国留学経験者で中国語ができるが、中には中国語初心者も歌が好きで入ってくる人がいる。中国語ができる、できないはこのサークルでは関係ないのだ。歌が好きであればいい。そこがおもしろい。僕は密かに思っている。30曲くらい歌えるようになるころにはきっと中国語を話せるようになるだろう・・・と。

 僕はもともと中国語に対する関心が薄かった。好きでもなかった。でも中国語の世界にかかわった偶然性があった。 90年代、仕事で英語ビジネスにかかわっていた。大学生に対してTOEICという英語テストを普及しながら使える英語能力を身に付けることをサポートする仕事だ。たまたま勤め先で中国の教育部から中国語能力認定試験の実施を委託された。試験の実施事務局をやる人間がいなかったので、英語のテスト世界を知っているということでその事務局をやるために2年ほど大阪に単身赴任した。中国語能力はなくてもできる仕事だったが、せっかく中国語にかかわったのだから少しは中国語をできるようになろう、と思い立ったのが中国語学習開始のきっかけだった。

 10年前、HIFが発足したときから、地域の国際交流活動に関与して、その活動のなかで「中国大好き」、Yさん、Mさんなど知った。でもその頃は自分が中国語学習でお世話になるサークルとは考えてもみなかった。

(グループ『中国大好き』会誌第4号 01年12月刊)


2001年10月 はじめての中国・シンセン

「中国内陸発」(日経新聞社)を読みながら、91年に始めて中国大陸に入ったことを思いだした。それは会社の慰安旅行だった。日本の会社は福利厚生とリフレッシュをかねて、年1回1〜2泊の慰安旅行をしていた。今は景気が悪いため制度も無くなりつつあるが・・・。

僕の勤務先も91年は香港旅行が新設されたのでそのコースに入った。30名くらいの団体旅行だった。2泊3日の香港旅行だったのでまる一日自由行動の日があった。  ほとんどの人は香港市内の観光をした。「シンセンに行ってみないか」と同僚に話したが、「ビザを取れない可能性が強いので行かない」という旅行通の友人の一言で誰も行かなくなり、僕一人で行くことになった。九龍駅から電車に乗ること約1時間、そこは香港とシンセンの「国境」だった。

僕がこの香港旅行でぜひシンセンに行ってみたいと思ったのは創文社のPR誌「創文」で木村尚三郎が「シンセンが経済特別区になり、町が農村地帯から大都市に様変わりしている、その変化の真っ最中だ」というのを読んだからだ。その文章を読んだ時シンセンにすごく興味をもった。  そのシンセンがもう目の前にあるのだ。 「国境」は青函連絡線の切符売り場のように簡素なものだった。改札では香港でたくさんの買い物をした人たちが荷物を担いで並んでいる。僕もその人たちに混じって胸をわくわくさせながら並んだ。その後、小部屋に入りビザの申請をした。パスポートと書類を渡し20分ほどでビザのハンコが押されて戻された。簡単な手続きだった。その後シンセンに入る。改札を通るとそこは中国大陸だった。

シンセンに入った感動は今も忘れることができない。シンセンに入ると若い警官がカーキ色の制服をして整列している。人がたくさんいてすごくにぎやかだった。15分くらい歩いていくと真っ青な空から灼熱の太陽が照らす、暑い暑いシンセンがあった。歩道橋から町を眺めると太い道路と林立したビルが一面にありそれは人工巨大都市だった。「これがシンセンか。ここが中国か」始めての中国に感動した。

確か午前10時頃から5時頃までシンセン市内にいたと思う。市の博物館、百貨店、ちょっと外れた街など暑い中をひたすら歩いた。昼食も道路脇にある食堂に入り、確か5元くらいの値段で安かったことを覚えている。真新しいビル群もちょっと通りを離れると掘っ立て小屋の長屋があり、古さと新しさの混在した街を膚で感じた。

街角にはト小平が何かを話し掛けている様が描かれてある大きな看板があちこちにあった。その時はその人が「中国の最高指導者」で「南方講和」で回ってきて「経済特区」の推進者なる人物であることを知らなかった。だから「誰だろう、このおじいさんは」と思っていた。あとで中国を知るにつれ、まさに91年はト小平の「開放改革」の経済政策が始まったばかりで、シンセンはそのモデルとして大きな様変わりをしている最中であったことを知った。

これが僕の最初の中国大陸だった。

シンセンの街中、公園などいろいろ歩き回り、しまいには疲れてしまった。ちょうどそこにはマクドナルドがあった。「中国もマクドナルド・・?」と思いながら入ると2階建てのそのマクドナルドは店内が広く若者たちでいっぱいだった。コーヒーを飲んでいると隣に4〜5人の女子高生が座った。中国語はまったくできないので英語で話しかけると流暢な英語で返事が返ってきた。何を話したか忘れたが、その娘の両親は海南島の出身で、そこはいいところだと言っていた。「英語教育をしっかりやり中国発展のための人材作りをしているんだな」と実感した。その娘も今は26〜27歳だ。今ごろシンセンでOLをやっているのだろうか。

こうしてシンセンの一日は、僕に“中国の魅力"を植え付けていた。


2001年6月 人民中国雑誌社との懇談会

人民中国雑誌社との懇談会に参加した。懇談会テーマは「人民中国、生き残るためにどうすべきか」だったので、下記のレポートを作成して提案した。先方は社長、編集長であった。

0、日時:2001年6月17日

まとめ

「人民中国」を日本で販売強化するには次の3つが必要である。 第1に大書店の店頭で「人民中国」が陳列され一般の人が買う事ができる状態をつくる。第2に「人民中国」を読者に知ってもらうための宣伝方法を抜本的に改革する。第3に話題性のある記事を毎号載せつづける。 総じて、「人民中国」の編集部・営業部が流通・販売の現場に出向き、自分のつくった雑誌がどのように取り扱われているかの正確な調査と分析が必要である。その作業を通して基本的な改善ポイントが発見できる。 現場に問題解決の情報がある。

1、概観

「人民中国」の出版の歴史は長い。1956年に創刊して以来45年に達しており30歳で読み始めた人はすでに75歳になっている。おそらく「人民中国」は、中国に関心ある日本人に向けて「生の中国」を情報発信してきたに違いない。 日本では45年間生きつづけている雑誌は少ない。更に、リニュアルなしで発行し続けた雑誌はまれである。「人民中国」は45年間持ちこたえた実績がある訳で、固定的な読者に支えられたという熱烈なファンへの感謝無しには今はありえない。 同時に、時代は変化した。変化の最大は日本と中国は友好関係を築き、日本人は中国に対する関心が高まったことである。中国人も留学生をはじめ多くの人が来日しており、人間同士の交流が深まっている。「人民中国」を日本で販売する環境は従来に増してプラスであり、今まで中国に無関心であった層、若い層に支持される可能性が日本にはある。その切り口は“情報”と“文化”であり、ファッション、音楽、映画、食べ物、街など若者の同時代的な共感をはかることである。 しかし、まだ多くの日本人は自分のライフスタイルの中に中国を見出しえない現実にも直視しなければならない。それは例えば、中国語という言語が日中交流には大切なものと誰もが思いながらも実際には中国語を習得することに時間と金をかけない事実に見出される。中国語を勉強しようという人は何十万人といる。しかし、中国語を習得しようという人は1%に満たない。 中国の情報を日本語で知りたい。しかし「人民中国」を買おうとするものは少ない。

2、人民中国の今までの位置と実績

私は、「人民中国」2001年4月号を初めて購入した。それまで私の視野に「人民中国」はなかった。

3、 現在の方針 (2001年4月号を見て)

1)性格づけ:総合的な文化情報誌

2)体裁:A4変形、82ページ+表紙、フルカラー、定価400円、 ISSN0449-0312、雑誌コード05115-4、バーコードあり

3)出版:人民中国雑誌社、発売元:中国国際図書総公司、発行所:東方書店

4)編集:特集と連載と単発記事を組み合わせて、記事への入り方の多元性を重視 特集2本、単発記事6本、連載9本、情報:7本    キーワード:地域紹介、政策実行事例、人、文化、日中、寺、遺跡、漢詩、法律、人、エッセイ、街、芸術、技術、工場、家庭、語学、観光、音楽、日本、   (HP:国内トピックス、今月の顔、特集、中日関係、法律、社会、文化・芸術、歴史・考古・地誌、観光、読者のページ)

5)製作:中国の印刷所

6)実数:制作部数、配本部数(取次、直送、組織ルート)、実売と返品(これらは掴めず)

7)宣伝:一般宣伝より中国の関心者が読む「中国関係の冊子」(版元のPR誌など)を通して

8)流通:全国の書店ルートより「定期予約購読中心」

  9)販売:販売というより「普及」

      4、評価

「人民中国」リニュアル版は編集上で工夫がされているものの、日本の宣伝体系、流通機構にのった営業政策が不十分である。 ・実数:制作部数、配本部数(取次、直送、組織ルート)、実売と返品 ・宣伝:中国関係の冊子(版元のPR誌など)でタイトルを見る程度で、直接、中国に関心ある人以外、「人民中国」を知る機会がない。 ・流通:ほとんど日本の流通機構にのっていない。(東販、日販など) ・販売:書店で買う事ができない状態。売れるわけがない。

5、結論

雑誌発行にあたっては、出版(情報収集から製作まで)〜流通(出版社と書店の間の流通)〜販売(書店陳列と予約活動)が総合的に循環しなければならない。しかし、現在の「人民中国」は出版については改善が見られるが、流通・販売は従来と変わらず、そのギャップがリニュアル効果を発揮できない要因になっている。

6、付録

○事例「K書店のこと」「発売元のこと」「棚のジャンルのこと」「 文体のこと」

参考HP

『人民中国』


2000年8月 生活とマラソン

きっかけは友人との話から

 走りはじめたのは1994年1月からだった。93年の12月にランニングとかマラソンをしている仲間たちと話をしていて刺激を受けた。それまで自分にとって「マラソンは見るもの・応援するもの」と思っていた。 最初は一回3キロくらいを家の近くの公園で走り、月40〜50キロの距離数を練習した。

 友人から「マラソンは月の練習量が100キロでは後退、200キロで現状維持、300キロで記録が伸びる」と言われてから、月間の練習量を150キロ前後までのばした。朝とか土・日走るが、150キロでも結構大変だ。週に40キロ位だから、朝5キロ走を数日やり、土・日に10キロとか20キロ走る。 走り込みはじめた時は、腹が痛くなったり、膝・くるぶしが痛くなったり、足の爪が黒ずんできたりいろいろ身体に障害がでた。それは練習量に応じて治っていくのだが、また新しい”痛み”が出てくる。自分の身体、精神の弱いところが壁にぶつかった時に現われるのだろう。だから、この壁とのつきあい方をうまくしなければならない。それは「壁がきたら飛躍のまえぶれだと思おう」「スランプがきたら次のステップが目の前に来ているのだと思おう」と前向きに自分に納得させることだった。そうして、練習を続けていくと”痛み”は克服されていく。

 市民ランナーはフルマラソン(42.195キロ)を3時間以内で走ることを夢見ながら練習して、マラソンレースという舞台にでる。しかし、サブスリー(3時間を切る人のこと)になれないまま人生を終えていく市民ランナーが圧倒的だ。僕もサブスリーを目標にしていたが、もう難しいのではないかと・・・、今はあきらめている。もっと若い時からランニングに目覚める機会があれば可能性があったかもしれないが、気づいたのが40代だったからこれってしょうがない。

   ランニングはすごく気軽にできるスポーツだ。しかし、まだ日本ではマラソンをやっているというと”特別人間”的に見られがちだ(すごいですね〜、でも何のために・・・と)。 だから、ランニングをやっている人がその良さを他の人に伝えることが大切なのだと思っている。「走る」〜これは人間には「歩く」と同じほど生活の中での基本的な動作だ。しかし、実際には自分の身体と精神への極限的な挑戦になるためになかなか挑む勇気が湧いてこない。

 以前、ランナーに関するメジャーな雑誌で「ランナーズ」という雑誌の編集長にお会いした。彼女は自ら走りながら雑誌編集の仕事をしている。まさに趣味とビジネスを一緒に楽しんでいる人だ。話の中で、「日本の若い人は自分の生活のなかにランニングをうまく取り入れていない。女性の場合、きれいになろうと思うなら走ることはすごく素敵な素材なのに」という旨のことを言っていた。欧米ではランニングは日常生活の一部になっている人が多い。文化の違いとは言え、日本で欠けているものの一つではないだろうか。21世紀を生きる我々がスポーツとどのように付き合っていくのか、どんなスポーツであれ自分が好きで長く続けることができるスポーツを生活に溶け込ませていくことは、しなやかで健康的なライフスタイルをつくる上で必要だろうと思う。

記録とタイム

 始めてのフルマラソン出場は95年3月の第10回ロサンジェルスマラソンだった。結果は3時間50分24秒、僕としては最後まで走れた自分に感動したマラソンだった。 LAマラソンは1984年のロサンジェルスオリンピックで使ったコースを翌年から市民マラソンとしてスタートして第10回目だった。約20000人がフルマラソンにエントリーしており、アメリカではホノルルマラソン、ニューヨークマラソンに次いで大きいマラソンだ。  その後は、シドニーマラソン、つくばマラソンなどに出場し、フルマラソンの自己最高はシドニーで走った3時間18分5秒、ハーフマラソンは第1回手賀沼マラソン(95年10月29日)の1時間32分45秒だった。しかし近年は申し込んでいない。今度は上海マラソンか北京マラソンに挑戦したいと考えている。

 友人からア ドバイスをうけ、1994年の10月から手帳に距離数だけを書きつづけている。記録してわかったことは「記録しないと自分の走った歴史は残らない」ことだった。記録をつけはじめてからは、自分の生活のリズム、練習量と記録の関係が見えてきた。

年(年間練習km)1994(212),1995(1425), 1996(1787),1997(1521),1998(1209),1999(794)

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◇フルマラソン出場記録◇

第10回ロサンジェルスマラソン 95年3月5 日  3時間50分25秒 雨

第2回シドニーマラソン      95年8月 27日  3時間40分59秒 晴

第15回つくばマラソン      95年11月 26日 3時間33分59秒 曇

第15回佐倉マラソン      96年3月3日  3時間31分59秒 晴

第3回シドニーマラソン     96年8月18 日  3時間18分05秒 晴

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 最近はめっきり走る量が減ったが、生活のリズムをつくる上でも朝のランニングを一日の始まりに位置づけている。朝5時におきインターネットと新聞を見て、6時過ぎに5キロほど走りに行く。シャワー、食事などを済ませて出勤という生活を送っている。

 たぶん、自分の生活を律するために「走る」という人は多いと思うが僕もそうだ。そして朝日と空気・風を感じながら走っていると「生きている」という感動とエネルギーが湧いてくる。自分の人生にとっていいものを見つけたと思う。


1999年3月 植物と社会

最近刺激的な話しを聴くことができた。ナチュラリスト荻巣樹徳(おぎす・みきのり)さんの話しだ。園芸植物の起源(自生地)を訪ねては、幻の植物の確認をする作業である。中国西部(四川省など三省とチベット)をくまなく歩きかなりの花の起源を探し当てたという。

代表的なのがコウシンバラの野生種。このバラは「ロサ・シネンシス」で中国産であることは言われてきたが、誰も確認していなかった。それを英国のG・S・トマスさんに頼まれて、探した。1983年5月だった。

荻巣さんはベルギーのカラムタウト樹木園、オランダのボスコープ国立試験所、イギリスの王立キューガーデン、ウイズレーガーデンなどで学んだ。僕は植物のこと、これらの植物園を知らないが有名で世界的な権威のある研究機関らしい。

とにかく徹底している。花の自生地を探しに行くのに、実際にその花を自分で育て、その花に関することを自分で理解してフィールドワークに入るという。コウシンバラもそうで、現地の人にコウシンバラをとってくるように手配して、とってきたさまざまな植物(草?)のなかから、根っこの破片をみつけ「これはコウシンバラに違いない」と確信して、現地の人と現場に行った。

書物の上だけの知識だけではいい仕事ができない。だから、荻巣さんはフィールドワークを徹底してやる。18年間で移動距離は20万キロ、1年1万キロ以上だ。しかも、他の人が入らないところを入って調査する。そして成果を上げている。

40枚のスライドを使って淡々と植物のバックグラウンドを説明してくれた。難しい名前がたくさん出て到底僕にはその1%も覚えることができないが荻巣さんの生き方は理解できた。「一つの植物をよく知るために、少なくとも4回、現場に行く」「自分で栽培してみて、初めてわかることがたくさんある」「細かく記したフィールドノートを残しておくことに意味があるのではないか」「科研費など公的な資金援助を受けないでやってきたしこれからもやっていく」「人のやらないことをやるという差別化が今の自分をつくった」「その分野の一流の人に教えてもらうことが自分を一流にする」「プライドをもつ中国人にあった時が嬉しい」

「職人」の危機が言われて久しい。本当に納得いくまでやって成果を出すには「職人」的な取組が必要だ。日本は1960年代の高度経済成長以来、大量生産・大量消費の様式が定着した。その行き着く先が今の日本である。「高度成長」は我々の生活を「豊か」にした。しかしその代償にアンバランスな日本の姿をつくったのも事実である。「職人は大切」という荻巣さんの言葉は、地に足をつけた仕事で世界に認められる成果をつくった価値ある生き方だ。


1999年2月 50人への電話かけ

2月15日は春節のイブ。大阪では毎年、梅田の小学校体育館をつかって関西生命線がイブをやる。ギョウザをたくさんこしらえそれを食べながら舞台の催しを楽しみ、参加者同士の交流を楽しむ。僕は昨年参加して今年で2回目だ。今年は第8回目だが昨年と比較して今年のほうが人が多いように感じた。日本人、中国人、台湾人、その他いろいろな国からの参加者がいる。主催者に聞くと500人ほどの参加だという。みな1500円の参加費を払ってる。

この関西生命線は阪神大震災で果敢なボランティア活動をやったことで名が知られている。代表者は台湾出身らしいが、神戸地区は中国系の人が多いのでこの団体は日本人のみならず外国人ボランティアも迎かえ入れて活動したに違いない。阪神大震災では多くの若者が活躍した。マスコミなど世論も”さすが若者”と賞賛した。そして今は”あの若者は今何をしているのだろう””あのころのボランティア体験を今も活かしているのだろうか”とその後を気にしている。

この関西生命線のイブに参加して驚くのは若者が多いことだ。ここを見る限り若者は健在だ。何か魅力ある活動をしているのだろう。代表の女性は、各種イベントを終わったあとは50人くらいに電話をして感想を聞いて反応を調べる。また、やる気がある人を見つけることもしているそうだ。この、マメな事務局活動の蓄積が常に活力ある組織を維持しているのだろうか。

昨年NPO法案ができて、今まで苦労の多かったボランティア活動も今までとは違う広がりができるかもしれない。今年3月、慶応義塾大学の三田校舎で第1回NPO学会が開かれる。日本のボランティアの発展、国際連帯したボランティアが日本でも巻き起こることを期待したい。特に、民間レベルでの活動が重要だ。

そんな活動事例に関西生命線はこれから始める団体、発展させようとする団体に大きな刺激を与えるに違いない。


1999年2月 「沢登り」から韓国とのつきあいが始まった。

最近、韓国が僕に近い。主語を間違えたかな。僕は韓国に近くなっている。何度か行ったり、韓国映画をみたり、MLでいろいろな人の情報を読んだり………。

生死をともにした連帯

5年ほど前、OBS(日本アウトバウンド協会)の体験セミナーに参加した。これは一種の企業内研修で「自然に立ち向かい、仲間たちと自然の強さを感じ、連帯を感じ、自分を発見する」プログラムであった。

2泊3日のプログラムで、川口湖の西湖付近を舞台に野外訓練を行い、沢登りは丹沢まで車で飛ばして行った。7〜8人のメンバーだったがその中に、韓国のLGグループの教育担当が2人参加していた。生死をともにするこのプログラムは連帯感を強くする。この韓国人と仲良しになったのが韓国とのつきあいの始まりである。

誘った方が払う。

セミナー終了後新宿に戻りみんなで飲みにいった。結構高いバーだった。1次会で飲んでその勢いで行ったバーだった。当然、割り勘のつもりだった。しかし、精算の段になって、彼等には金を払うという姿勢が全くみられない。しかたなく(にこにこしながら)、金を払った。あとで、韓国では(中国も同じだが)誘ったほうが金を払う、という習慣があることを知った。これが僕の韓国の異文化体験だった。

その後、僕の方から韓国に行ったのが2年前の冬だった。居酒屋で飲んでその後カラオケにいった。「韓国ではカラオケに女性を呼ぶとすごく高い」と言っていたが、飲んで歌っているうちに盛り上がり「呼ぼう」となった。若い娘が2人きて、飲んで歌って踊って楽しかった。金は彼がはらった。しかし僕は買ったばかりのカメラを店に忘れてしまった。深夜そのカラオケバーに泥棒がはいり店の売り上げ金、僕のカメラなど盗まれてしまい、今も戻って来ない。彼はカードで払っていたから、あれはきっと引き落としされずに済んでいるに違いない。

どうも韓国と収支バランスを考えると、いつも僕の方が持ち出しになる。この他にもいろいろあって・・・・・。

友達がいると韓国は楽しい。

彼の家は奥さんとお子さん二人の幸せそうな家庭だ。ソウルから南15キロほど行った大きい団地で、20万人くらい住んでいるという。その分譲団地は全室オンドルが通っており板の間でも暖かい。しかもすごく広い部屋である。近くの国の住人だが、僕の住まいの様式とほとんど変わらない。何か不思議な空間の共通性を感じた。

韓国に着くと電話カードを買う。そして彼の家に電話をする。異国に行って、電話できるところがあるのはやはり心に落ち着きが出る。数日の滞在のなかで、アポをいくつかとり、空いているかなり多い時間を使って、映画、ミュージカル、音楽、本や、バー、食堂などを楽しむ。結構贅沢な僕の時間だ、


1999年2月 In the heat of the sun (太陽の少年)で発見した陶虹


この映画は1997年、大阪でみた。文化革命当時、北京市内に住む少年たちの生活を描いた映画だ。大人、学生たちは地方に追いやられ北京は少年たちが自由に遊ぶことができる空間。「歴史の断面」を少年と少女の関係を通して描くこの映画は、時代劇ものの中国映画を観ることが多かったので新鮮だった。

1999年2月、杉並国際交流協会主催でこの映画鑑賞会があり、これにはぜひ行きたいと思って行ってみた。理由は、昨年11月に観た「黒眼晴」による。

「黒眼晴」の主人公である陶虹が、「太陽の少年」に出演している、との情報をもらったのは現代中国映画研究会からだった。全然知らなかった。それで、それを確かめるべく今回映画を観たのだ。

「太陽の少年」のなかで陶虹はペイペイ役。結構、登場回数が多かったのだが”確かに彼女だ”と確信できたのは、最後の方で誕生日で食事会をするシーンだった。

僕が中国映画に触れたのは最近のことだが、きっとこんな”追っかけ”をやって、だんだん中国映画にはまっていくのかもしれない。

□主催事務局が作った映画あらすじがあったので紹介させていただく。

「In the heat of the sun 」(太陽の少年)

In the middle of the 1970's , the city of Beijing became a utopia for street kids since grow up were absent, forced to work in villages or join the Army. The children cut classes, smoked cigarettes, and fooled around the looking for girls. Among them was Xiaojun, the hero. He was an expert at duplicating keys. At the beginning of summer, Xiaojun sneaked into an apartment room and found a photograph of a beautiful girl older than himself. He fell in love with her---. While confrontation between his group and a rival group became increasingly hostile, Xiaojun kept looking for the girl. Finally, one day, he found her. She was Meilan, the legendary beauty. Xiaojun asked her to become his sister, but she refused, saying she disliked hoodlums. Nevertheless, his sincere love for Meilan gradually melted her heart, and the summer spend with her gave Xiaojun unforgettable. In the meantime, his grandfather committed suicide. Xiaojun left Beijing with his parents to attend the funereal. When he returned, he had found Meilan changed. She had turned her affections to the leader of the group. Xiaojun was afflicted with jealousy, but still could not forget his love----.


1998年12月 記憶の片隅から学ぶもの

子供の頃を思い出すと、暇もなくあわただしく人生を送ってきた感がある。しかし、ときたま、昔のことが頭をよぎる。今までそのことをあまり考えないできたが、キーワードを抽出して散文風に昔を思い出して見ようと思う。

玉石ひろい、除草機、牛の放牧、稲苅り、ビートの葉きり、銅ひろい、わさび、うぐいす、ランプ、雪かき、松ぼくり、どんぐり、グスベリ、トランジスタラジオ、力道山、夕焼け、りんご、なし、秋刀魚、ストーブ、蹄鉄、皮剥き、汽車通、出面とり、小遣い、シシマイ、焼場、カッコー、カスミ、雲雀、馬糞、オートバイ、高砂座、盆踊り、野外映画、コスモス、あんず、蝿取り、布団敷き、北斗七星、出稼ぎ、りんご箱、秋払い、澱粉カキ、スケート、DDT、運動会、つぎ、シロカキ、支援物資(順不同)

こうしてキーワードを列挙すると僕の子供時代が写しだされる。素朴で質素な生活がほんの数十年前にはあった。急激な経済成長で日本は20世紀、世界に躍り出た。いま、21世紀を目前にして、世界中から「何とか経済を立て直せ」「それが世界、アジアへの責任だ」と言われている。劇的に変化した20世紀だった。僕は”質素という贅沢””自然との共生”を好む。こうしたインターネットなど”文明の利器”は多いに利用するが、改めて、21世紀流の生き方=自分のライフスタイルをつくっていきたい。子供のころの生活にそのヒントがある。


1998年11月 晩秋、快晴、快適ハーフマラソン


11月某日、大阪吹田市にある万博公園で「98吹田万博国際ふれあいマラソン」と「98吹田国際交流フェスティバル」が行われた。

僕は久しぶりにハーフマラソンに参加した。このふれあいマラソンは参加できる種目の幅が広く、まさに市民のマラソンになっている。10キロ、3キロ、2キロ、5キロ、ハーフの5種目あり子供から親子連れまでいろいろな人が自分の力と好みに合わせて参加していた。 ハーフは12:30スタート。10時にランニング仲間のKさんと受付付近で待ち合わせ、紅葉と太陽を浴びながらゆっくりと時間と空間を楽しみ、出番を待った。

さて、今回の僕の記録は1時間35分10秒。32〜33分台を狙っていたので予定よりちょっとタイムオーバー。ハーフマラソンのコースは公園を4周する周回コースでそんなにアップダウンもなく走りやすかったのだが、最初からスピードを抑えたのがまずかったかな、という反省。しかし、大会に参加すると気持ちが高ぶり、「よし、今度は・・・・。あのペースで」と考えてしまう。

スタートすぐ横の広場には17程のブースがあり、そこでいろんな国の人達が食べ物、小物を販売していた。タイランド、スリランカ、メキシコ、ベトナム、インドネシア、韓国などだ。

国際交流とマラソンを組み合わせたこの「第15回吹田市民健康づくりフェスティバル」は、34万市民のニーズを実現する企画の一つとして定着しているようだった。


1998年11月 リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる


現代中国映画上映会、この名前はInternetで知っていた。いつも熱心に中国の映画を宣伝する会だな、と思っていた。この会の主催する映画会を日中友好協会の新聞で知り、6本の映画のなかで一番関心を持ったのは「瞳の向こう側」(原題 黒眼晴)。何故か。理由は簡単で「走る」物語だからだ。

僕も約5年前から長距離を走るようになった。趣味だが、それ以来「走る」人に関心を持つ。この映画もその流れで興味を感じた。

「盲目の少女力華(リーホア)は、とあるきっかけで障害者の陸上を指導するコーチにスカウトされ陸上短距離の選手となる。コーチの指導のもと順調に力をつけ優勝し世界大会に出場することになる。リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる。そして彼女とコーチの間に築いた信頼の行方は-----。」(中国映画上映会B42つ折チラシより)。

いい映画だった。涙が何回もこぼれてきた。障害者が「走る」ことを通してポジティブに生きていく。社会的な関係の中での「自分」を知り、その「自分」を悩みながら苦しみながら自覚していく。その自覚は世の中で素直に生きて行くためのアイデンティティの確立のプロセス。多くの人に励ましを与えた映画だと思う。そして彼女(力華)の走りがすごくよかったネ。かなり走り方を訓練したと思う。

今回の映画はこの会が選んだとパンフにある。もし日本に持ってこなければこの映画に出会うことができなかった。Thanks for Gentyuei.

主演女優の陶虹が上映の前に挨拶をした。終わってからも挨拶をした。映画会場を出たところで、彼女にあえるかと思ったが不在。受付の人に「彼女と握手をしたいんだけど・・・・・」とリクエストすると早速、陶虹を呼んでくれた。握手をして写真をツーショットで撮らせていただいた。「走る」彼女の手は小さく柔らかく女優の手だった。

参考  現代中国映画上映会


1998年11月某日   見えないが、不思議な秩序がある街マニラ

98年11月22日(日)から27日(金)まで5泊6日という短いフィリピン旅行をした。フィリピンは初めて行った国だ。今まであまり僕の意識にはなかった国だが、大阪からノースウエストの直行便が出ているのでマイレージを使い行ってみた。帰りは3時間6分。ビールを飲んで食事して映画を見てまたビールを飲むともう関空に着陸体制だ。僕のマラソン記録は3時間18分だから、走っている間に着いた感じだ。

行く前に予約を済ませてからメーリングリストを読んで思ったことは、「新聞ネタにならないように安全面で注意を払おう」ということだった。ホテル、迎えのタクシーなど全部E-Mailで予約したが、何せ18:30発、マニラの空港に着くのは21:40という結構危ない時間での行動。結果は無事に帰国できた。しかし帰りの飛行機でManila Standardを読んでいたら「Japanese guest falls from 5th floor of hotel」の見出しがあり、同室にいた若い女性にポリスが聞いたは話しでは「元気だし幸せそうだったけど・・・」と載っていた。何が起こるかわからないマニラ、無事に帰れてホッとしたが、今までの海外旅行で一番緊張感を感じた。

5泊6日の生活は毎日が印象に残った。

22日(日)夜、関空発、若干遅れて現地時間22:00頃マニラのNAIA空港(Paranaque)に着き、市内のPalm Plaza Hotel(A.Mabini,Manila)にチェックインしたのは23:15頃。でも、無事にホテルに着くことができた。空港の出口に僕の名前がついたプラカードを持った男性がいた。出迎えの確認が出来た時は「やれやれ」と思ったものだ。 スロープを降りて完全に空港の外に出たが、夜のため周囲は真っ暗状態。「この状態で車をつかむのは難しいな」と改めて500ペソで出迎えを予約しておいて良かったと実感。

23日(月)お隣りのManila Midtown hotelでMayorのConference開催中なので覗きにいってみた。President Estradaが来るというので各ブースでは政府の各省庁が自分たちの仕事の宣伝をしていた。午後、フィリピンに定年後のロングステイ提案をしている小松崎憲子さんとHeritage Hotelで待ち合わせ。フィリピン永住を考えているKご夫妻が調査のためにマニラに来ていて、私も一緒に行動させていただいた。小松崎さん宅を訪問して、マニラの生活環境、永住の条件などをナマに聞かせていただきすごく参考になった。SMという大きなショッピングセンターも2箇所車で案内していただく。

24日(火)フィリピンメーリングのオフ会に参加。15日ほど前に「マニラのことなら何でも・・」というFさんにメールでホテルを頼んた。OKの返事とともにフィリピンメーリングリストがありますよ、という情報をいただき早速登録。そのオフ会が11月24日に開かれるということで参加申し込み。「ハンドルネーム○○の××です」で始まったこのオフ会はミスキタさんが幹事役。参加はKeikoさん、Misaoさん、Mさん、Oさんと愛娘、Fさん、Aさんご夫妻、Sさんご夫妻と二人のお子さん、Oさん。ここでも現地で生活しているビジネスパースンからリアルな話しを聞くことができた。

25日(水)オフ会の時、KeikoさんとMisaoさん(World Interactive Network System=WINSという、現地のケーブルテレビのキャスターの方)から、「明日、ゲストで招待しますから今回のフィリピン訪問の印象を話しませんか」とお誘いを受けた。即OKの返事をして、25日Century Park Sheraton Hotel(infront of Harrison Plaza)にあるRm506スタジオを訪問して、25分ほどインタビューを受けた。まさか、テレビに出るとは思わなかった。収録後、夜10時から12時まで放映された番組を見て、やはりテレビには似つかわしくない自分を発見。その後はSunette Tower Hotel(northpart of Makati Avenue,Makati)に1年以上ステイしているFさんと夜のマカティに飲みにいった。

26日(木)24日のオフ会の2次会はカラオケ。向こうのカラオケは一人ひとりに女性がつく。しかも30名程いる女性から一人選ぶのだから、これは偶然の出会いになる。その時出会ったPerlitaと26日シャングリラホテルで待ち合わせ。シネマスクウエアでボーリングした後、フィリピンの普通の生活、家庭に関心があったので彼女の家を訪問した。Makati CityのSouth Cemboだが、タクシーが乗車拒否する。「運転手があまり行きたがらないようなところなのかな?」と思いながら、7〜8台後やっとタクシーをつかまえた。彼女の家の近くに着くと集合住宅が密集していて道端ではたくさんの子供たちが遊んでいる。家はコンクリートで造った4軒続きの長屋で、道路から一番奥。1メートルほどの幅の道には洗濯ものが干してありそれを掻き分けながら着いた。家は一階、2階とも8畳ほどの部屋しかない。そこに11人住んでいる。1階は居間でそこにテレビ、箪笥、テーブル、台どころがあり、その部屋にくっついて一畳ほどのシャワーとトイレがあった。なんとこの家に両親、お姉さん夫婦(2組)、その子供4人、全部で11人が寝起きしているのだ。「せまいけど・・・・」と言いながら連れていってくれたのだが、本当に狭い。でも住んでいる家族はみな元気いっぱい。笑顔で歓待してくれた。あたりまえだが通常はタガログ語、しかし皆、英語を話す。はじめてフィリピンに来たのに、マニラの家庭を直に体験できたことはラッキーだった。

27日(金)朝、7時半にはホテルを出て空港へ、ということで全くの移動日。

今回事前にしたことは、インターネット経由でホテル(2ヵ所)の予約、空港へのタクシー出迎え、25日のオフ会と小松崎さんに23日午前に電話する約束だけ。一日ごとの計画は何もつくらなかったが振り返ると、一日一日良い体験ができたマニラ旅行だった。

それにしてもマニラは日本とは違うな。

・デパートなど入り口には自動小銃をもった警備員が必ずいる。 ・シネマスクウエアでは「街を案内してあげるよ」と日本語で話しかけてきたフィリピン人がしつこくまとわりついて、断わると腕捲りして入れ墨を見せて脅かしはじめた。 ・マニラ市内はいわゆるポン引きが多く、街をゆっくり歩けない。 ・メトロマニラは交通渋滞が激しく移動が大変。断水などもありいわゆるインフラ整備が弱く、これが経済活動効果を抑えている一要因にもなっていると感じた。 ・マニラのBonifacio Driveを北上しながらランニングしたが、歩行者道路がないので走りにくく、途中横断した川にはごみがたくさん浮いていてそれがマニラ湾に流れていくという環境問題を感じた。排気ガスもひどく、鼻をハンカチで押さえながら歩く女性がずいぶん多い。 ・カメラで街の風景を写したかったが、とてもカメラなどの貴金属を表に出せるような雰囲気でない。 ・10000円の両替が空港の銀行で2900ペソだが、市中の両替屋さんでは3220ペソだった。 ・マニラはいわゆるメトロマニラの一地域であり、通常はメトロマニラの表記でマカティなどいくつかの市で構成されており結構大きい地域をさす。 ・メイドはほとんどの日本人が雇用しており月2000ペソから3000ペソの月給、運転手は4000ペソほどでいわゆる人件費が安い国である。(カラオケ屋のPerlitaは月5000〜10000ペソの収入でそれで11人の一家を支えている。だからお金の借り貸しでとにかく生活をつないでいるということだった) ・○○Villageというコミュニティがたくさんあり、そこは街全体を柵で囲ってあり、中に入るには検問が必要。すなわちコミュニティ全体で安全を確保している。(逆にわれわれ観光客がいる普通の空間は必ずしも安全ではない) ・家賃はけっこう高く、オフ会出席のある人は一軒家で月4万ペソ(約12万円)の家賃、Kさんの自宅は2階建て170平方メートル位を1500万円で購入。

はじめてのマニラなのでレポート形式になった。きっと、マニラおよびフィリピンにはこれからも行くことになると思うので特化したテーマで情報をアップできると思う。フィリピンのあの温暖な気候、5万ドルの積立で確保できる永住権。「アナーキー」と言われるマニラの複雑さと何かわからないが確実にある「秩序」。どこまで信じていいかわからない人の良さ。他の国にはない魅力を感じた。

いま流行っているというポップシンガー、APRIL"Boy"REGINO、Jessa Zaragoza、Gray Valenciano、Regine Velasquezを聴きながら・・・・・・・・・。(98.11.28)


1998年10月 鼓童


明日は中秋の名月という素敵な夜に鼓童を聴いた。18:00開演で19:30まで迫力ある演奏が続き音を身体で感じてきた。今回のプログラムは「族」「三宅」「風天」「千里馬」「八重の浮立」「木遣り」「大太鼓」「屋台ばやし」の8曲。鼓童は佐渡に本拠をおく集団だが、演奏活動は幅広く1年の3分の1を海外で、3分の1を国内、あとは佐渡で活動しているそうだ。海外では有名で今回も外国人が多数来ていた。

野外音楽堂なので、音響装置は使わない。人間がたたく太鼓の音が響きわたる。暗闇と静寂のなかで時には激しく時には静かに音を出していく。この迫力はとにかく聴くしかない。僕は鼓童のビデオを1個持っていてそれを月1回くらい聴いている。KODO Live at Acropolis,Athens,Greeceだ。音はいいが彼等のパフォーマンスがまたいい。太鼓の使い方、一人ひとりの個性と協働、踊り、音の組み合わせ、何とも言えない。ライブが一番、でもビデオで聴くこともおすすめたい。

今、鼓童は「ONE EARTH 一 ひとつの地球」というテーマで世界に向かって”文化の共存””日本の伝統音楽”というメッセージを伝えている。1981年、ベルリン音楽祭でデビュー以来、世界的規模で有名になった鼓童。日本にもいいものがあるんだ、と自慢したくなる太鼓演奏だった。


1998年9月  Syber spaceから出てきたSue

98年8月下旬、2泊3日という短い日程だったが、近くの大きい外国都市プサン(釜山)に行った。昨年12月に1週間ほどソウルに行ったことがあるので、これで2回目の韓国だ。ソウルはLGグループに勤めている韓国人の友人がいたので、彼の家に招待されたり、電車の中で親切に地図の見方を教えてくれた女性と最終日に市内案内をしてもらったり、偶然日本人のバックパっカー達と友達になったりハッピーな旅だった。

プサンは友人がいないし、どういうところかもほとんど知らない状態だった。隣の韓国、プサンは韓国東南に位置し日本にすごく近い大都市、今までプサンに関心を持たなかった自分が恥ずかしい。行くにあたって、インターネットで情報を得ることとインターネットを通じてプサンに友人をつくり、できれば今回逢って、友達になりたい、という気持ちだった。そして素晴しい人に出会うことができた。

Sue、これは彼女のニックネーム。インターネットの文通覧で偶然Sueを見つけた。行く1週間ほど前だ。返事は翌日にきた。「こちらに来たら案内するから日程など知らせて欲しい」という事だった。それから行く前日まで毎日メールでやりとりをした。その中では互いの趣味などを交換。そして、到着日の夜9時、ホテルロビーで会う約束をして関空を飛び立ちた。

9時にロビーにいくとSueらしき女性がいた。「Sueですか」と僕、「はい、そうです」とSue、握手を交わした後、Sueが知っているカフェへタクシーで行った。彼女は私に逢うまでは学生だと思っていたようだが、いくつかの国の外国人と付き合っているSueには驚くほどのことではないようだった。「韓国では年上の男性と若い女性がデートをすることは許されないの。でも私は違うわ」カフェではお互いのバックグラウンドを話し合い会話が弾んだ。

「今日は夜中の1時までに家につけばいいの」とSueはビールを飲み水割りを傾けながら、自分の夢と希望をいろいろ語った。Sueの家は厳格なしつけがあるようで、学校が終わっても日本の学生のようにコンパで夜遅くなることは許されない、酒気を帯びて帰ってもだめ。でも「今日と明日は日本から友達が来るといって、お母さんから深夜帰宅の許可を得てきたの」と嬉しそうに話す。

彼女は聡明で素敵な女性だ。黒のジーパン、黒のブーツ、黒のジャケット、長い黒髪という黒づくしのスタイルで、一見、遊び人に見えたが、すごくshayで礼儀正しい女性だ。今、大学4年生で専攻は日本語という彼女は日本語を流暢に話し、2年のときフィリピンに3カ月ほど語学留学したこともあり英語も書き、読み、聴き、話すことが十分できるSueだった。僕たちのe-mailも英語。「将来は外国で働きたい」という夢を持ち続けたSueは国際社会で活躍するのに必要なスキルをすでに身につけている。しかし、IMF体制化に入った今は、学生の就職率が10%で、国際的な企業へのリクルートチャンスも少ないということだった。

2泊3日という短い時間だったが、翌日も日中の団体行動を終えた後逢う約束をした。今度は僕が彼女の家の最寄りの地下鉄駅まで行った。彼女はお母さんの車をかりて僕をピックアップ、30分ほど行ったリゾートビーチに行き、そこで韓国式の料理を楽しみ、近くのHyatt Hotelに寄り、砂浜を歩いたりバーで飲んだりした。ちょうど、バーで彼女の友達のフィリピン女性が歌っていた。休憩の時彼女を私たちのテーブルに呼んで話す。日本へはまだ行ったことがない彼女だが、五輪真弓の「恋人よ」を流暢な日本語でプレゼントしてくれた。韓国なのにリゾート地特有の華やかさと落ちつきのある時間と空間がそこにあり、アメリカのある都市を思い出した。

今回の旅行はメールを通じて素敵な友人ができていい思い出ができた。Sueが私を信じてくれなければこうはならない。[出会いの不思議さ]、サイバースペースからリアリティあるスペースに場を移していくスリリングなプロセスがあった。


1998年9月  発見と観察

じっとしていられない、何にでも興味をもってしまう、一人でどこに行くこともいとわない、きっと僕にも旅に向いている性格があるのではないかと思う。異文化に接すると強い感動を感じる。最近は渡航費用が安くなり海外も行きやすくなった。

これまで、仕事および個人的にいろいろなところに行った。仕事ではアメリカ、中国がメインだが、個人ではオーストラリア、シンガポール、ホンコン、タイ、韓国などだ。特にアジアは「安、近、短」という言葉があるが気軽に行くことができるのがうれしい。「安、近、短」はバブル経済がはじけて、欧米からアジア地区に旅行者がシフトした時に使われた言葉だが、この言葉は重要。僕たちはアジアの一員だ。いつまでも欧米にあこがれを抱き近くの国、地域に関心を持たないというのは問題だ。

旅は自己発見がありその人を成長させるという。これは何かで読んだのだがハーバード大学の学長が新入生に送った3つの言葉があるそうだ。 「英語以外の外国語を身につけよう」 「コンピュータを使えるようになろう」 「外国に行き異文化を体験しよう」 グローバルな環境で責任を果たせるような人材になるための心得だそうだ。


1998年9月 中国語会話レッスン体験

今日は吹田市国際交流協会主催の中国語会話教室に体験入学した。

受講は3人+私ともう一人女子大生の体験入学者。話しによるともう一人在籍しているようだ。講師は70歳くらいの年配の女性。クラスが終わってからちょっと話しをした。戦争時代に結婚。2年で夫に戦死で死に別れそれ以来、中国で2人の子供を育てる。28年間中国の学校で教師をして、昭和54年に日本(小樽)に来たという。日本では中国語を教えたり、日本語を教えたりしているとのことだ。彼女もあの戦争による被害者の一人。胸が痛む。

教師をしていたということもあるだろうが、たぶん、中国と日本の友好のために中国語のボランティア活動をしているのだと思う。テキストは「生活中国語」評論社。進めかたは受講者の一人がテキストの日本語を読み、もう一人がそれに対応した中国語文を読む、それを順繰りに全員が行い、その間読んでいない人は聴いている。その過程で四声などを間違うと講師が直ちに直してくれたり、黒板に漢字とピンインを書いてくれたりする。

僕も講師の教材のコピーを渡され、皆さんと一緒に勉強に加わった。このクラスは中級コースなので、僕にとって始めての単語があるが、幸いピンインが振ってあったので音読に加わることができた。終わってから、講師から「発音がいいですね」と言われ嬉しくなった。「そうか、この間、発音の練習を中心にしてきたけれど、結構、様になっているんだ」と。講師はハルピン出身とのこと。普通話の発音はハルピンと北京をあわせて2で割ったようにして作られた、と聞いている。だから、この講師もきっと発音にはこだわりをもっているのではないかと期待したい。

今日は申し込みができなかったが、きっと、受講者数が少ないので、クラス入は大丈夫ではないか。このクラスは10月6日から3月16日まで、20回(40時間)で16000円、1時間あたり400円という安さでこれは本当にありがたい。


1998年9月  華やかそうで地味な世界 社交ダンス

社交ダンスと聴いてどういうイメージをもちます?

僕はこの世界を知るまで”くっついて踊って何がおもしろいんだろう”と思っていた。「食わず嫌い」という言葉があるが、まさに外からみて勝手に”つまらなそう”と思っていたのだ。 でもこの考えは一変した。「もっと若い時からやっておけば楽しいかっただろうに」と。だいたい、夢中になるのが遅いのだ。僕は。でも、「その世界」との出会いは、常に入門であり情熱の対象だ。

東京のダンスサークルで2年ほど練習し大阪で1年あまり。3年というと長そうだが、実際は欠席が多く、正味1年くらいなのだ。総時間にして、1年に50時間位、3年で150時間だ(あ〜、6日間もやっていない)。

社交ダンスは勝手に身体を動かせば良いというものではない。姿勢よく歩いたり、ホールド(腕の広げ方)をしっかり固定したり、視線を正確にしたりとか、いわゆるステップ、フィギアを覚える前に基本をきちんと身につけなければならないことがたくさんある。そうでないと進歩しないという。基本を覚えないときれいに踊れないのだ。

いま入っているサークルは女性が75%、男性が25%。どこのダンスサークルも女性の方が多いようだ。ラッキーなのは女性の会員が以前ダンスの教師をしていた経験を持つ人が多いことだ。教えてもらっている。しかも月1500円の会費で1回に2時間、4回踊る機会がある。昨年ははじめてタンゴのフォーメーションをやった。みんなの見ている前で、4組が同じ踊りを踊った。ドキドキしたが意外に本番に強く、納得のいくタンゴができた。

それにしても、世の中にはいろいろ楽しい事がある。僕はサークルで一番位に若いのだが、逆に、社交ダンスのサークルは年齢がいっても楽しめるスポーツ(運動? 同じですか?)だということなのだ。60歳、70歳になっても自分の身体を自分でコントロールして動かす、これほど愉快なことはないと思う。東京も大阪も街を歩いていて感じるのは高齢者が少ないことだ。たぶん、家に閉じこもっている人が多いのではないだろうか。

高齢者がする「スポーツ」と言ったら、ゲートボールとウオーキングが代表的だ。その中で社交ダンスは健闘している高齢者でもやれるスポーツだ。僕はここに魅力を感じている。高齢になってもインターネットで世界中の人達とコミュニケーションして、旅にでて刺激を受けて、ダンスで健康を維持して………、これって楽しいことだと思う。

ダンスの世代分布は、推定だが、学生時代にやってたグループ、多いのが地域のダンスサークル;地域にも寄るが40歳半ばから70歳半ばの人達の活躍が多いのではないか。たぶん、社交ダンスは西洋から入ったのだと思うが、21世紀の高齢者社会にむけて貴重な健康維持シーン、プライマイケアの日常実践シーンを日本に根づかせていくのではないかと思う。


1998年9月 英語のクラスレッスン体験
吹田国際交流協会主催の英語クラスに体験入学した。先週の予約しておいた。初級、中級、上級があり、僕は自分のレベルを「中級」に想定して、木曜日の18:20〜20:30のクラスに参加した。18:30ちょうどにクラスについたが、まだ出席は2〜3名。しかし、10分程で15名ほどになった。20名定員ということだが4月から徐々に欠席受講者が増えているとのこと。男性受講者は2名でここでも女性のパワーを感じさせらた。

20分位遅れて、Bradというニックネームの男性講師がダイエットコークを手にして入ってきた。ロの字型の机の黒板側にすわったBradはいきなり「What did you do this summer?」みたいなことを言って、端から聞いていく。どうやら今日は夏休みあけの第1回目のクラスで、休みに入る前に、夏の出来事をそれぞれ英語で発表するように申しあせていたらしい。各人がすばらしい英語スピーチでとうとうと喋る。

Bradは発表者に質問したり、発表中に時制、複数、イディオムなど間違いがあるとすかさず訂正する。なかなか、こまやかに人の話しを聴いてうまく訂正する人だ。文法を大切にする講師のようでこれは好感がもてる。テキストを聞いて見ると"Fundamentals of English Grammar" Prenceton Hall Regentsで、コミュニケーション文法を重視しているようだ。

半年間21回のクラスレッスンで参加費は27300円、1時間あたり650円という安さでこれは絶対に「買い」。翌日、申し込みの電話を事務局にいれると、「今は定員20名一杯なので補充は無理です」とのこと。しかし、「ぜひ入れて欲しい」と頼み留守電を教えた。

果たして、空きはでるのか? まだ確定していないにもかかわらず紀伊国屋書店でテキストは買ってしまった。 。




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