八反田地区の人々は、戦後長らく無住で荒れるに任せていた村の正面にある地蔵堂を修理して、よそから僧侶らしき人を迎えてミニ寺院にしたことがあった。 その折、天台座主から貰った山号が、延命山勅使寺というものものしい名だった。 地区の南はずれに、私たちがまだ子供の頃小さな塚があって、そこは昔、都から皇后が勅使として神積寺へ詣でられたときに休憩された勅使寺という寺院の跡であり、その名を比叡山から再度頂いたという訳である。 しかし、寺の財産はなく、収入も無いので、せっかく来た僧もそのうち逃げだしてしまい、いまでは勅使寺の表札だけが不釣合いに残っている。 この建物が地区の集会所になっている。(後注:近年これも取り潰され、ハイカラな公民館に変った。悪の元凶のようにいわれるバブルも、農村を豊かにしたというメリットが存在する。この公民館はその証拠である。
地区は六十戸ほどであるが、ほとんど皆ごく普通の百姓家で、話の種になるような由緒や因縁は皆無に近い。 強いて探し出しても、次に述べるような程度に過ぎない。
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