97年5月25日

卒業アルバム作成グループのリーダーになった。アメリカ人は卒業したらそれまで、といった付き合い方をする奴が多いので、あまり過去の記録にこだわったりしないようだが、アジアなどの留学生から絶対やろうという声が出たのでやることに。そして全体写真を撮影する日、アメリカ人が来るわ来るわ、君達はしゃぎすぎ。好きなんだったら始めから素直にそう言えばいいじゃないか!そして、皆の協力の中でアルバムは無事完成。喜んでもらえて嬉しい。

どたばたの中でポートランドへ2泊3日でアパートを探しにいく。実は、修論を提出した後にまだ一つだけ課題が残っていて、それをポートランドのホテルでやることに。データはe-mailで友人に送って提出してもらう。しかし、バークレー最後の勉強をポートランドでやるとは何だか締めくくりが悪い。

卒業式を目前に毎日パーティー三昧。ベトナム、コスタリカ、中国などの留学生には国から家族がやってきており、彼等にとっての留学は家族の(そして国の)重大事であることを感じる。日本人の留学生で親が来ている例など周囲には全く無い。そして、アメリカ人を含めて皆は家族ぐるみでパーティーに参加。英語がしゃべれない親も多いけれども、息子/娘の晴れ姿を誇る親の気持ちはよく伝わる。

そしてとうとう25日、卒業式の朝。ガウンを着て帽子をかぶり、いざGreek Theaterへ。アメリカとバークレーを称えるスピーチの後、一人ずつ卒業証書の授与。名前が呼ばれる度に、卒業生およびゲスト席から歓声が上がる。中には太鼓やラッパを持ち込んでいるグループまでいて、ほとんど野球の応援。自分にも大きな声援が上がったのは嬉しかった。フォーマルな式典の後は、学科だけの表彰式があり、そこでは生徒の投票による約10の賞の授与が行われた。私は晴れて「パワフルなプレゼンテーションで差し棒をふりまわして、周囲の者を刺してしまいそうで賞」をいただく名誉にあずかる。(注:これは1年前の製図の授業での出来事に由来します。)最後の最後になって、自分という人間が仲間として認められていることを感じ、そして2年前には単なる「日本人」でしかなかったことを思い出し胸が熱くなる。夕方から夜までパーティーはつづき、皆と最後の時間を楽しむ。でも、涙の別れはなく、希望の笑顔が一杯。バークレーでは卒業式を「graduation」と言わずに「commencement」と呼ぶ意味がわかる。実際、一番仲の良かったCはジャカルタに帰るし、香港、ワシントン、ボストンなど遠くで働き始める者も多い。再会は何時どこでするのだろう?

2年間の留学は自分の人生の大きな転機になった。バークレーには感謝と愛着を一生もち続けるのは間違いない。

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