MinMin's Diary
文章を書くのは難しい。
書いた意図とは全然違う風に読む人が多い。
ある第三者の書いた文章を受けて、ある意味をもって書いた自分の文章。
それが全く真意を読んでいない、曲解も甚だしい解釈によって反応されているのを見ると、ますますもって文章を書くことの難しさを考える。
それが、文章を扱うセミプロ達の集団の中で起こったのだから。
もちろん、文章自体を純粋に読んだのではなく、背後や肩書きへの思い込み、本人の後ろめたさも加わっての解釈なのかもしれない。
結局、同じ枠の中に入っている違う世界の人達なのだと思うしかないんだろうか。
私ほど伝統とか何とかを口にして、下の世代を押しつぶすのが嫌いな性質のもんはそういないと思う。
それを「伝統とは切り離して考えていただけば」とか言い出す。
おい、こら。
自分の非を責められたと思ったのか。
あたしゃ、伝統を守れとは言うてない。
根底を流れる志は変えず、姿かたちは時代に合わせて変えていくのがいいと思っているだけじゃ。
本だけにかじりついている類の輩はこれだからいやだ。
自分が非難されたと思い、プライドだけはいっちょまえに高いから「じゃ、こうします」とか言い出す。
あんたのことを非難した覚えはない。
非難するほどの価値も無い。
ごたごたと理由を並べ、自分を正当化するのばかりに余念が無い人間には何も言うまい。
良くなると思える相手にだけ苦言は呈する。
ああ、いやだ。
それでも、こういう人達と「文字」を使い、「文章」を用いてコミュニケーションするしかないのだ。
曲解も甚だしい解釈しか出来ず、文章の奥に流れる思いに気付かない。
こういうのが評論家とかになっちまうから...。
恐いよな。
学歴とプライドだけ高くてもしょうがないと思うんだけど。
守られて、庇護の下にある人には、そうでない人間の思いは理解できにくいだろう。
人類みな兄弟なんて言ったって、兄弟で血みどろの争いする人もいる。
背後に何もない状態で暮らしている人間の思いをどれだけ解る人がいるのだろう。
ドメスティックな状況の中で無邪気に国際化ごっこをよろこんでいる人達を見る時、ほんとにおめでたいと思うしかない。
自分達の常識が大多数の常識で、自分達が大多数を占める国民の側である場合、「弱者に目を向けよう」という言葉のなんと現実味の無さ。
国家をなくせば国際紛争もなくなるなんて本気なんだろうか?
なんだか、本当に、21世紀には日本はなくなっているかもしれない...。
そうしたら、私はなに人になるんだろう?
三宅島の子供達が本土に避難するそうだ。
桟橋から船を見送る母親達の姿を見た時、対馬丸の話を思い出してしまった。
これから避難生活を始める子供達は、ちょっと旅行に行くような興奮と、でも親から離れる不安の入り混じった表情だった。
送る母親達は今生の別れではないのだけれども、あふれ出る涙を禁じえない。
どういう災害が起こるか解らない土地に残すよりも、自分達のいない安全な土地に送る方がいい。
親がそう決意するのはいつの時代でも同じだろう。
自分に何かあっても子供だけは安全なところに送り込んでおきたい。
そう思って50余年前の親達も子供達を疎開させたのだろう。
対馬丸の話。
それは私が子供の頃に読んだ話。
戦争の被害が激しくなりそうな沖縄から安全な本土へ子供達を疎開させることに決め、子供達は対馬丸に乗り込んだ。
それを見送った親達も、三宅島の母親達と同じ気持だったに違いない。
いや、仮に敵が上陸してくれば、自分達が生き延びる確率は非常に低い。
三宅島の親達以上に悲壮な決意だっただろう。
その対馬丸は敵潜水艦によって撃沈され、多くの子供達が海に消えた。
「一人息子だったんだ!」
「一人で死なすぐらいなら手元に残して一緒に死ぬんだった!」
私の読んだ本にはそうやって泣き崩れる親達の描写が出ていた。
三宅島の子供達の避難と対馬丸のことを一緒にするのは見当違いかもしれない。
しかし、私の中で、桟橋で涙をこらえて見送る母親の姿は時代を越えて、重なり合っていくのだ。
親がよかれと思って子供を遠くに手放す時の気持は同じだろう。
これが子供のためなんだ、これが精一杯できる子供を守る手立てなんだ。
そう思って、様々な感情を押し殺して子供を手放す。
子供が無事でも自分に何かあったらどうしよう。
この子はどうやって生きていくだろう。
様々なことを親は思い、遠く遠く小さくなっていく、子供達を乗せた乗り物を見送るのだろう。
その思いは、いつの時代にも変わらない。
どうか、三宅島の子供達が一日も早く親達と一緒に暮らせますように。
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