MinMin's Diary


today's diary
Last week's diary

6月10日
時の流れについて考えていました。
その時代に居た人の体験した痛みに思いをいたらせることは大事です。
だけど、その痛みはその人達が自分なりに処理する痛みであり、その後の疑似体験した私達がどうこう出来るものではないと思うのです。
以前、私の好きなアーティストのディック・リーが「受け止め、覚え、そして忘れよ」といったようなことを言いました。
先代の痛みは受け止めなければいけないものでしょう。
しかし、そのことによって不必要な恨みや不和を引きずったり、新たに生じさせたりするのは避けなければいけないことです。
戦争などの話だけではありません。
ダムや道路を見ると、そこを建設するために犠牲になった人達、その人達の家族の痛みを思います。
私達人間が生きている限り、時間が流れている限り、痛みは存在し続けるのでしょう。
だから、痛みというものを受け止める気持を持ちながらも、痛みだけを拠り所にした恨みや憎しみは抱いてはいけないということです。
痛みを身体全体で受け止め、その気持に少しでも近付き、思いを至らせる。
しかし、だからといって、その痛みに同調し過ぎて不必要なまでに感情的になり、関係ない恨みや憎しみを抱くような結果になってはいけないのです。
その痛みが生じた瞬間は既に過去のものであり、その本当の痛みを受けた人は自分ではないのですから。
様々な痛みの中から純粋な痛みの部分だけを感じ取り、それを心のどこかに刻み込みながらも、痛みに付随する恨みや憎しみには影響を受けない。
「痛み」「哀しみ」といった感情が少しでも減る世の中になるように努力していくだけでしょう。

6月13日
なんでも日本では金城武君が大ブレーク寸前らしい。
ええこっちゃ。
金城君というと数年前に宮沢りえちゃんと共演した時のことを思い出す。
記者会見で宮沢りえちゃんが
「外国の方とは初めての共演で」
と言ったのをかなり気にしていたようだ。
「私は日本国籍だし、彼女自身、私と同じで半分は外国人の血ではないですか」
この彼の言葉から彼が自らのアイデンティティを深く考えている人だと感じた。
金城君は台湾人から見れば「日本人」、日本人から見れば「台湾人」だ。
この感覚は当事者以外はなかなか理解できないかもしれない。
私の友人はこれを「半分半分の感覚」と呼ぶ。
母の故国で父の国の人に出会った。
エレベーターで乗り合わせたその人達に自分の母語でもある父の国の言葉で
「何階へ行かれますか?」
とたずねると
「まぁ!貴女の発音は完璧よ!すばらしいわ!」
とほめられてしまったそうだ。
市場で買い物をした時に自分の母語になっている母の国の言葉で話しかけた。
すると市場のおばさんに
「あんた、えらいね。ここに何年いるんだい。完璧だよ。外国人だなんて言葉だけじゃ解らないよ」
とほめられてしまったという。
「どっちに行ってもガイジン扱いよ。完璧にその言語を操ってもね」
金城君にしても同様だろう。
アジアのスターと彼のことを呼んでも日本人だと認識している人は少ない。
台湾における彼の立場も似ている。
デビュー当時の彼の台湾での呼び名は「ANIKI」だった。
ANIKI…つまり兄貴という日本語。
日本人であるというバックグラウンドをこれでもかと見せるような戦略で売り出していた。
歌っていた歌にしても「日本語でこう言うのを台湾語ではこう言うんだ」とお母さんが教えてくれたとかいう歌だった。
金城君が登場するとあれば司会の女性はへんてこりんな和服もどきみたいな衣装を着けて「イラッシャイマセェ」とか言って大げさな身振りで身体をぺこぺこ曲げて挨拶する。
異文化のはざまを行き来している人達は一つの文化の中にどっぷり浸かっている人には解らない痛みを持っている。
痛みというよりも胸の疼きと言うべきだろうか?
一つの文化だけでは表現しきれない自分がいるのだ。
金城君のかっこよさや多国籍風のバックグラウンドは今の日本のアジアブームにぴったりだろう。
日本人の父を持ち、台湾人の母を持ち、日本人学校、アメリカンスクールで学び、日本語、中国語、台湾語、英語、広東語に精通するマルチリンガルでマルチカルチャーな美青年。
日本人は彼のバックグラウンドの表面的な華やかさに憧れ、大騒ぎするだろう。
だけど、彼がそのマルチカルチャー故にその間で振り子のように揺れ、傷つき、成長していった過程に目をやる人はいるだろうか。
彼を不用意な言葉で傷つけた人もいるだろう。
いくつかの文化の中で揺れる人間に対する理解のなさから無神経な言葉を吐いた人もいただろう。
常に二つ(あるいはそれ以上)の文化圏の中にあって、その中を振り子のように揺れ動いている人の気持は一つの文化圏に安住している人にはなかなか理解できない。
日本で大ブレーク寸前らしい金城君を思う時、どうか、その鍛えられた強さで浮ついた現在の日本におけるアジアブームなんかに弄ばれることなく、むしろ、これを利用して更に強く、さらにしたたかになり、文化圏を越えた大きな存在になってほしいと思うのである。

6月15日
マスコミの情報が氾濫していて目にしたくないものまで目にして頭に来るってこともあります。
そんな時に思い出すのが近所の坊やが言った言葉。
彼の一家がテレビに出ることになり、放映日が近づいた頃のこと。
彼と学校の友達の下校時に行き会わせた我が母に友達の方が「こいつんち、テレビに出るんだよ」と報告。
すると小学校1年くらいのその坊やが俯きながらぼそりと一言。
「見たくないヤツは見なくてもいいのさ」
あんまり可愛いかったので母は笑ってしまったそうです。
恐らくクラスメートに「お前なんか出たって見るもんか」って言われたんでしょうね。
でも、これって真実。
見たくないヤツは見なくてもいい。
つまり、見たくない人には見ない権利があるんですよね。
それを情報の氾濫とやらで、これでもか、これでもかと流れ込んでくる見たくないもの、聞きたくないこと。
本当に少年の言うとおり、「見たくないヤツは見なくてもいいのさ」なんでしょうね。
関係ないっすけど、本日は私の大事な友達の誕生日。
カードを出し損ねました。

6月16日
今、楽しい企画に首を突っ込んでます。
「冒険」をキーワードにしたネットマガジンの発行です。
私はズルズルと締め切りを破り続け、編集の方達に御迷惑をおかけいたしましたが着々と進行中であります。
「冒険」とは果たしてなんでありましょう?
そんなことは私の冒険道の師匠とも言える冒険小僧さんのとこに行って聞いてみた方が早いかもしれません。
ま、取り敢えず、私にとっての「冒険」は知らない土地を訪ねたりするということ以前に未知の世界に首を突っ込むことであります。
だから海外に行かなくてもいいし、アマゾン川を下らなくてもいいし、実に危険度の低い冒険かもしれません。
だけど、やっぱりワクワクする気持はあります。
「冒険」ってきっと心躍るもののことを言うんじゃないでしょうか?
子供の頃に朝早く起きてクヌギの森にクワガタやカブトムシを捕まえにいった時に感じたあのワクワク、ドキドキも「冒険」かもしれません。
通学路をちょっぴり脇道に逸れて別のルートで帰った時に感じたワクワク、ドキドキ、ハラハラも「冒険」なのかもしれません。
日常とちょっぴり違う何かに触れあうこと。
それを「冒険」っていうんじゃないでしょうか。
違う土地で違うものを見るのは当たり前だと思います。
自分の日常と違うものであっても、その土地の人にとっては日常です。
それをさもさも変わったものを見るように扱うのは「冒険」と言えないような気がします。
自分の日常生活や自分の常識を打ち破る、別の人の日常生活や常識。
それへの新鮮な驚きならばいいと思います。
それへの飽くなき好奇心ならいいと思います。
色んな形の日常生活がある。
色んな形の常識がある。
そんなことを考えながらネットマガジンに書いていこうと思っているのであります。

6月17日
アジアに関する記事を読むと「またか…」とうんざりした気持になります。
物質的に豊かになり、発展し、整然として暮らしやすいように見えるが人間味に乏しい日本。
雑然とし、混沌とした中にもたくましい生命力と活力と優しさのあるアジア。
このアジアってのがくせ者なんだな。
アジアという言葉には一体何カ国含まれているのでしょう。
ちょっとアジアものっぽい文章を書いてみることにしましょう。

(  )空港を降り立つと、そこは今まで聞いたこともない言語で溢れていた。
都市部に向かうリムジンバス乗り場を探して歩いていると「都市に行くのか」と声をかけてくる運転手達が群がってくる。それを振り払い、バスの切符を買う。切符売場の女性はつまらなさそうに切符を投げてよこすと何も言わなかった。
雑然とした乗り場でバスを待ち、やっと来たバスに乗り込む。
バスの窓から周囲の景色を眺めていた。雑然とひしめき合う住宅が道の両側に見える。
そんな景色がしばらく続くと遠くに高層ビルが林立している姿が見えてきた。どうやら都市部に近づいてきたらしい。
都市の喧噪の中をバスは通り過ぎ、やがて終点に着いた。ざわめく街の雰囲気に圧倒される。クラクションの音、人混み、駆け抜けていくバイク。何か混沌とした中にも底知れぬエネルギーが含まれている。
あらかじめ目星をつけていた安宿を訪ねてみる。宿の主人に片言の現地語であいさつし、英語と手振りを交え、1週間泊まるからと交渉し、最初に主人が提示した宿代よりも安くしてもらった。
チェックインして部屋に入り、荷物を置いて一息つくと、既に夕方になってきていた。腹も減ったので腹ごしらえしようと市場の辺りに行ってみることにした。
市場の辺りは怒鳴り合うような声が響きわたり、そこに車の騒音が混じり、大変な賑わい方だ。訳の解らぬ食べ物の入った鍋をかき混ぜている屋台や怪しげなものを売っている屋台を眺めながら沢山の人が並んでいる屋台を探した。
片言の現地語で値段をたずね、ためしてみる。
今まで食べたことのない味だ。
人いきれと喧噪に飲み込まれそうになりながら市場の辺りをさまよってみる。
大声で楽しそうに話しながら食事している若い女性、バイクを疾走させる若者、暗闇を照らす屋台の明かり、アジアの活気がひしひしと伝わってくる。

へへへ、ここでちょっと小休止。
この文章の最初の(  )空港にはお好きなアジアの国の国際空港名をお入れ下さい。
そんでもって都市部ってとこはその国の国際空港からの最寄りの大都市名を入れて下さい。
さぁ、これで即席アジア旅行記のイントロができあがり。
アジア気分満載ですねぇ。どこのアジアかは知りませんけど。
そんでもって次は応用編。

最初、ここに来て戸惑った。
何事もきちんきちんとしていることに慣れてしまっている私達日本人にとって何事も大ざっぱなここの習慣にびっくりした。
衛生状況の違いにも戸惑った。
何事も日本と比較して自分の置かれた境遇を悲しんだりもした。常に日本と比較して劣る部分だけに目をやってきたようだ。
だけど、最近、感じるのだ。
日本は便利だし、清潔だし、何事もきちんとしているが味気ない。
都会で大荷物を持っていても誰も運ぶのを手伝ってくれはしない。
しかし、ここでは中高生までもが何気なく他人を手助けするではないか。
赤ん坊を連れている人を見かければ皆が手をさしのべる。
私達日本人が置き去りにした人情がここには確かに存在するのだ。

へへへへへ、かなりそれっぽく書けたかな?
この文章の「ここ」ってのにはお好きなアジアの国の名前でも都市名でも入れて下さい。

結局のところ、言いたいのは「元気なアジア」と「活力ない日本」の比較。
「人間関係が冷たい日本」と「人の優しいアジア」の比較。
「物質的には豊かになっても人間味を忘れた日本人」と「貧しくても人間味溢れるアジアの人」という対比。
あぁ、もううんざり。
結局のところ、なんやかや言っても日本がまずは便利だし、住み易いという基本的条件があって、だけどアジアに行ったら優しくしてもらいたいっていう甘えじゃないの。
一時の通行人が何をぬかすかです。
こんなのはたとえ居留してても「生活者」ではないな。
それにしてもアジアって一体何カ国あるの?
日本以外のアジアは皆一緒かいな?
こういう論調でしかアジアを語れんのか?
まったく、この手の文章って、所変われど品変わらずって感じです。
「ここ」ってところをソウルにしようが台北にしようがジャカルタにしようがクアラルンプールにしようがマニラにしようが同じ。
どこでもいいんですよ、実際のところ。
日本以外のアジアならどこでも構わない。
まともな比較論じゃないんですから。
要するに自分達の国のことを話したいだけなんだから。
日本のマスコミの論調がこれから脱却しない限り、本当の意味で日本はアジアからどんどん外れていくんでしょうね。
アジアブームだなんだって言って、台湾もすっかり知名度をあげたみたいだけど、日本人にかかれば所詮、台湾だって、韓国だって、インドネシアだって、マレーシアだって、とにかくどこだっていいんですよ。
要するに自分達が逃げられるところを作りたいだけなんだから。
微笑みの国だとか優しさ溢れる国だとかって言葉はもううんざり。
人間らしさがそこにあるなんてキャッチコピーもやめてくれです。
どこの国も同じです。
疲れてイライラしている人もいます。
ぞっとするような犯罪もあります。
理想郷を探し求め、青い鳥を追い求め、無理矢理に「アジア」ってとこを自分達の逃げ場にしようとしている日本人像が見えてきます。
だけどアジアは広大です。
さぁ、果たして日本人が夢見る「人情味溢れるアジア」ってどこにあるんでしょう?
教えていただきたいもんざんす。


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