インドダイアリー
◆11月1日、2日 バラナシからダージリンへ
朝
100Rs + 170Rs
朝食 (ムガールサライ駅にて)
エッグトースト 20Rs (バナナの葉につつまれている)
チャイ 12Rs(6杯)、おかし 50Rs、
トイレ2Rs(インドはトイレも無料ではない)
ムガールサライは大きな駅だ。だが、ホームには牛がいる。
牛の食料はさっきのバナナの葉であったりするわけだ。
ムガールサライはインドの巨大鉄道網の数千ある駅の5本の指に入る駅のはずだが、
今までの海外と何が違うかといえば、扱いであろう。
その扱いとは観光客の扱いである。非常に平等だ。言葉も通じないのに、地元の
人と同じ扱いをする。どこまでも平等だ。この扱いに最初は戸惑うが、慣れると
居心地が良い。
乗る予定の電車は4056で、正確な時間に発車する。
一般にアジアのイメージは「電車が遅れる、飛行機が遅れる」といったルーズなものだが、
インドはちょっと違う。インドの弁明をするわけではないが、私は過去2回、そして今回
と一度もそういった「遅れ」には出会っていない。
汽車に乗るとビルマ国境にすむ人たちと一緒になった。4人。
見た目はみんな東洋人だ。その中の一人(40台)が結構話し掛けてくる。
名前はDAHUCHUZHO。読み方不明。デリーからナガーランドに帰るところだという。
汽車は長距離列車、始発はデリー、終点はニュージャルパイグリを超えて
ミャンマーの国境付近まで行く。彼らはそのデリーから終点までを乗ることになる。
彼はいろいろと話してくれた。
「おまえは何人だ。」
かなり厳しい目つきだ。
「日本人だ。」
「そうか、じゃあナガーランドを知っているだろう。第2次世界大戦で何があったかを」
そんなことこんなところで言われるとは、、
まさか虐殺じゃあないでしょうね、ジャップってやつは歴史を隠しているから、
本当に困る。
「すいません、日本ではそういう歴史は詳しく教えてもらえないもので。」
なるべく気持ちを込めて話す。
「そうか、わかった。じゃあ手紙でおしえてやるから、住所教えろ。」
私たちは住所を交換した。
いろいろと日本は各地に迷惑をかけているようだ。
なぜ日本は帝国主義にあこがれてしまったのだろう?おろかだ。あまりにも馬鹿すぎる。
やはりヨーロッパ同様、東洋に対するあこがれがあったのだろう。中国、韓国に対する妬み。
彼は私にその後は気をつかってくれたのか、当たり障りのない話をふってくれた。
私もそれに楽しく応じた。私が日本人嫌いというのが通じたのかも知れない。
「日本の物価はどうなんだ?」
「日本ではチャイが400円はするよ。インドの40倍だ。どうだまいったか。」
「給料は500万(約150000Rsだ)」
「おお!別世界だな、日本は。おれも日本に行ってみたい。」
(ただし彼が行きたい理由は金もうけではない、どういう社会の人々が村を破壊したのかみたいのだ。)
私は日本の暮らしのつらいことを切々とかたった。彼も非常に理解してくれた。
「通勤は1時間30分だ。それだけでくたくただ。給料は500万だが、家賃が11万(33000Rs)だ。」
「レストランで食べるなんて特別な日だけだ。日本でカレー食ったら2人で最低5000円(1500Rs)かかる。」
彼は私の不幸なのに同情してくれた。
「ナガーランドはいいぞ。私は子供が何人居ると思う?10人だ。子供たちにはそれぞれ家を作ってやる。」
「土地はうなるほど余っている。10人でも足りないぞ。子どもは財産だ。」
「おまえたちは子どもはいないのか?」
私はそれに対して寂しい返事しか出来ない。
「子どもがいくらでも作れるなんて環境は非常にうらやましい。日本では2人が精一杯だ。」
「日本は貧乏だ。決っしてあなたたちが考えているほど豊かはじゃない。」
彼は私の思いをとても理解してくれる。
「そうか、おれも東京に行きたいと思ったけど、そんなに物価が高いんじゃ暮らせないな。」
近くにいたインド人もわれわれの会話に入ってくる。
「そうだそうだ、日本なんていくもんじゃない。インドの物価からは想像がつかないほど高いんだ。」
彼は最後の方でこう言ってくれた。
「君もナガーランドへ来いよ。すばらしいぞ。景色はいいし、公害も無い。」
彼と煙草を交換しながら楽しい会話が出来た。最初は恐かったがちっとも怖くなかった。
彼らは都会人の雰囲気がありよかった。
彼は言う。
「私は母国語はナガーランド語だ。ヒンディー、英語は学校で学んだ。」
「おれは研修でデリーに行ってたんだ、44にしてまだまだ勉強なわけだ。」
きっと彼はナガーランドではかなりの知識人なのだろう。
彼らのおかげで、駅を間違えずに降りることが出来た。
そうそうダージリンの話の前にこの長距離列車で出会った売り子を列挙してみよう。
こんなに多種多様な売り子がいるのはインドだけだ。世界中でここだけだ。素晴らしい。
1. 茹で玉子売り。
2. 袋入りスナック売り
3. ヨーグルト売り(頭にヨーグルトの壷を乗せて歩き周る、ちょっと不潔な感じ)
4. 水売り
5. ビンジュース売り
6. 細めんのあまーい菓子売り
7. チーズケーキ売り
8. ねじ回し売り(なぜ列車でねじ回しなのだろう?と思ったがとても良く売れていた)
9. くし売り
10. 靴磨き
11. マッサージ師
12. ミックススナック売り(目の前で調合する、辛さは客の好みで調整可能、デフォルトがめちゃ辛い)
目の前で調合する。調合する入れ物はトイレに置いてあるプラスチックの桶だ。先が尖っている。
そこにナッツ、香草、スパイス、お米の揚げたもの、などを入れる、そして棒でかき混ぜる。
インド人は皆スパイスを多く要求する。しかし私たちには辛すぎた。なんたって仕上げに生の唐辛子を入れるのだ。
13. ピーナッツ売り
14. バナナ売り(バナナはヒンディー語でケラと言う)
15. 紙パックのジュース売り
16. サモサ売り
17. おもちゃ売り(これも皆楽しそうに見ていた、買わなかったが)
18. ペン、便箋売り
19. 本売り(退屈な列車のお供にどうぞ、とても親切だ。)
20. 雑誌売り(不思議なのは本売りと別々なことだ)
21. 煙草売り
22. 掃除屋(足元に散らかっているピーナッツの皮などを掃いてくれる、20パイサ)
23. チャイ売り
24. コーヒー売り
ざっと数えて24の売り子が登場した。人間が生き生きと生活している。これを見ているだけでもなけてくる。
駅を降りる。まだ早朝5時。ニュージャルパイグリは寒い。さすがは北インド。
寒いためか、駅で寝ている人がいなくて騒々しくない。
名物汽車、トイトレインは8時にしか出ない。バスでダージリンへ行くことにする。
インドの通例としてバス停は駅から離れている。まだ日が出ていないがサイクルリキシャーでバス停に向かう。
ニュージャルパイグリからシリグリへの道は美しかった。夢のような景色が見れた。
写真は撮らなかったが脳裏に深く残っている。
ちょうどシバ神の妻カーリー(ドゥルガー)のお祭りで、いろんなデザインのカーリー銅像がきれいな蛍光燈で飾られている。
インドは夜は真っ暗だ、そこに蛍光燈がきらきらと光っている。暗闇に光る明かりの美しいこと。
カーリーは恐ろしい表情で存在しているのだが、蛍光燈があちこちで暗闇に浮いており、夢のようなのだ。
本当に夢のようだ。この風景を見れただけでもインドに来た意味があった。
子どもの頃に見た(あるいは夢で見た)風景に近いものがある。美しすぎて泣けてしまう。
ここまで光を美しく飾った光景は初めてだ。冷たい空には星が数え切れないほどある。
早朝の、暗闇のサイクルリキシャーは二人にとって夢の乗り物だった。
写真を撮る余裕がないくらい美しい光景だったのだ。
後ろを振り返ると蛍光燈が点点点点。。。。と続く。無限に続く。そこに祭られている女性の神。
ダージリンへのバスは辛かった。約3時間半、ゆれを振動とがけを転がり落ちる恐怖の連続だった。
お決まりのようにゆれるたびに窓が開いてくる。そとは寒い。
私は思わず途中から乗ってきたチベット人らしき子どもの手をちょっと触って暖をとった。
朝食はインド人専用のレストランで食べた。トイレは無論ぼっとん式だった。紅茶は?うまかった。
紅茶、オムレツ、パラタで24Rs(80円)
ダージリンでの宿探しはとても大変で、イギリス人の専用宿で丁重に断られる侮辱を受けたり、
しながら、チベット人経営のメイン広場沿いの宿に泊まった。440Rs(ベルビュー)
ちなみに断られたイギリス人専用らしき宿は2800Rs(Windmare)だ。
電気が貴重で、お湯の出る時間は限られている、不安がよぎったがちゃんとお湯は出た。
一日ぶりのお湯にゆったりしたかったが湯船がないのでそれほどゆったりできないのだ。
それにダージリンの夜は異常に寒い。二人は翌日湯たんぽを買うことになる。
昼、ベジタブルスープ、マッシュルームスープ、ビール、プラオ、エッグビリヤニ、紅茶 250Rs。
夜、チャンナマサラ、ライス、焼きそば、スイートコーンスープ、ベジタブルヌードル 220Rs。
トータル 2日で1487Rs(5200円)
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