国外逃亡準備企画
台北耐乏生活
孤独編

- 8月某日
- 台北郊外烏来の高砂義勇兵記念碑参拝
- 8月某日
- 台湾人(客家系)の友人鍾君宅へ呑みに行く。二人だけじゃ寂しいのでUさんも誘う。鍾君は9月になったら故郷の新竹に引っ越すというので、部屋はダンボール箱だらけである。最初台湾ビールだったのが、いつのまにか高粱酒になっている。馬祖で作った高粱酒で、有名な金門のものよりマイルドで飲みやすい。
- 高粱酒の醸造所は金門島にあるのだが、この金門島は最近観光地として開放された(行ってきたよ)が、それまでは「反攻大陸」の最前線でほとんど軍政下にあったといっていい。交差点は突っ切られないようにロータリー式になっており、その周囲とロータリーの真ん中にはトーチカが築かれているは、少し開けた野原には空挺降下を防ぐためにコンクリートの柱が林立しているは、公道のすぐ傍に地雷原があるはとにかく危険。海岸にはもちろん「チェコのヘッジホッグ(鉄骨を放射線状に組み合わせて作った障害物)」とバンジースティック。場所によっては写真も撮れない。
- ところで、この台湾の兵役制度は戦前の日本のそれを参考にしたらしい。蒋介石がまだ大陸で戦っていた頃には近代的な徴兵制度は機能せず、その辺で野良仕事をしている男を文字どおり首に縄つけて強制的に引っ張ってくるという17、8世紀のイギリス海軍のような事を本当にしていたらしい。その後台湾に逃げ込み、旧日本軍将校からなる秘密軍事顧問団(白団)の指導の下で兵役制度を再建したという。その時に参考になったのが当然戦前日本の徴兵制度。白団はこのほかに台湾人兵士の訓練も行っており、米軍式教育を受けて日本軍を見下すような所もあった国府軍のエリート将校孫立人将軍も白団の「夜間戦闘教練」には感心して自ら参加したという。
- 酒と塩酥鶏(中国風鳥カラ)が無くなった頃にお開き。もうバスが無いのでUさん宅に泊めてもらう。
- 8月某日
- 今日は七夕(旧暦)。台湾では「東方情人節」といってバレンタインデーと同じ扱いになる。外国から輸入したバレンタインデーなる習慣より、こちらの方がしっくり来るらしい。しかも「恋人にプレゼントを贈る日」が一年に二回(それもほぼ6ヶ月間隔)あるので、デパートなど流通方面へのインパクトは小さくなさそうだ。日本でも「サン・ジョルディの日(本を贈るらしい)」なんて訳分からない記念日を作るよりは、こうした民俗に基づいた記念日(七夕とか重陽とか)を作った方が効果が期待できると思うのだが如何に?(D通の假洋鬼どもには無理か)
- しかし笑ったのがわれらが日本の衛星「ひこぼし」と「おりひめ」。きっちり七夕(旧暦)前夜にランデブー成功し、台湾の新聞(聯合報)の科学欄ならぬ家庭・文化欄に「日本の人工衛星『牽牛』、『織女』が七夕前夜にドッキング成功」と報道されて「東方情人節」のロマンチック度を高めたのでした。
- 今日は趣向を変え、木柵付近の貸し漫画屋で時間をつぶす。他の貸し漫画屋は漫画何冊幾らなのに、ここは時間で計算。私のように読むペースが速い人間には助かるが、いかんせん木柵の漫画屋なので香港漫画の新刊が入っていない。新刊入手のペースは台北市内だというのに台北県並みである。とりあえず漫画を選んでいる間に、外では雨が降り出した。
「まずいかな?」
- と思う暇も無く、東南アジアのスコールかと見まごうどしゃ降りの夕立発生。(体に当ると痛いんだ、これが)降り込められて致し方なく何か時間をつぶせる漫画を探す。あった。香港漫画に優るとも劣らぬアツい漫画「炎の転校生(中国語版)」を発見し、全巻読み倒す。他にも「ニンジャマン」があったが、雨が止んだので宿舎に戻る。
- 8月某日
- 今日は台湾滞在の最後の日。朝9時くらいにノックでたたき起こされた。
「何だ何だ?」
「配線工事です。」
- 宿舎の配線工事だそうで、一日かかるという。部屋でゆっくりしていても工事でうるさそうだし、最後の日くらい観光しようと思い市内中心部へ向かう。特に行きたい所も無いのでぶらぶらするが、その途中でこんなのやこんなのを発見。さらに南昌路を歩き、「二二八事件」で有名な台湾公売局(専売局)の脇を通る。
「そう言えば、林森公園のほうはどうなったかな?」
- 林森公園とは日本時代の日本人墓地で、後に蒋介石と共に中国から逃げてきた人々が住みついて作ったスラム街を最近になって公園に再開発した所である。私が去年日本に帰国した頃ちょうど再開発で取り壊された所だったが、今ではすっかりこぎれいな公園になっていた。中に武将の銅像があるので、台湾の英雄鄭成功かと思ったら岳飛だった。ここにはかつて台湾総督明石元二郎の遺骨が埋まっていたが、再開発の時に掘り出して、日本の遺族の元に返したらしい。なお日本時代明石総督の墓は神社として祭られ鳥居もあったが、それも再開発の際取り壊された。
- ちなみに蒋介石の遺骨を中国へ返そうという運動が蒋一族の間にあって、それを批判するのに明石総督のエピソードが使われた。「日本人の総督は任地である台湾に進んで骨を埋めたが、それに対して蒋一族はまだ台湾に骨を埋めたくないのか。同じ支配者として明石総督を見習え」との論旨だった(自立早報か新台湾)が、明石総督も地下でさぞくすぐったかった事だろう。
- 腹が減ってきたので食事にしようかと思ったが、「台湾歴史散歩」ということで「二二八事件」の発端となった円環で食べる事にした。南京東路をまっすぐ西に行けば円環だ。ロータリーの中心部に屋台が集まったもので、観光名所の一つといえなくも無いが小さい。屋台で好物の魯肉飯と野菜のお浸し、それにこれは初挑戦のキノコスープを頼む。中国語が通じにくいが、屋台の親父が親切なので助かる。キノコスープが思ったより美味いので満足し、帰国の準備として日本円の調達のために銀行へ行った。が、まだ午後も早いのにどこも空いていない。
「あ、今日土曜日だ。」
- ようやく気がついて、仕方無しに林森北路の行きつけの銀楼(ヤミ両替)へ戻る。はっきり言って最近は銀行での交換レートとヤミとの差がほとんど無く、リスクも考えればヤミで換えるメリットはないに等しいのだが、空港の銀行であまり多額の両替をすると手続きがめんどうそうなので、安全策をとって銀楼で換える事にした。レートはそんなに良くない。
- 駅のほうに戻ってきてから、省立博物館が開いている事に気づく。ここはいつも工事中なのだが、今日は巡り合わせが良かったらしい。さっそく入る……が、入って少しすると外から怪しい物音が。またスコールだ。展示されている「台湾島の動植物と文化」、「地質学的に見た台湾」、「台湾の鳥類」をほとんど暗記するくらい見学し、閉館間際になってようやく雨脚が弱まったので博物館を出てバスに飛び乗る。バスが来るタイミングがちょうど良かったのはせめてもの救い。
- 木柵に戻ってから、どうせ台湾最後の夜だし少し奮発しようか、と刷刷鍋(しゃぶしゃぶ)を食べに出た。それらしい店を見つけて入ったが、高い。やっぱり私の場合「可麗亜」や「海覇王」とかの食べ放題じゃないと心行くまで食えないなあ、と後悔しつつ、その夜は早めに寝た。

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